記憶の原点
森本 晃次
第1話 夢
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年5月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。今回は引用している探偵小説の中に、似たような探偵小説のお話もありますが、あくまでも、フィクションと思ってください。
「夢を見る」
というのは、どういうことであろうか?
夢を見るのは、
「眠りが浅い時だ」
という話を聴いたこともあるし、
「深い時だ」
と聞いたこともある。
また人によっては、
「人それぞれで違うし、同じ人でも、体調によって違ったりするので、一概には言えない」
という話も聞く。
だから、何が正しいのか、正直分からない。
医者であったり、学者であれば、それなりの信憑性はあるのだろうが、実際に、夢を見ているということを、実験できるというのも、何かおかしな話であり、説明がつかないことだといえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「夢には、たくさんの諸説があるのだろう」
と考えられるといってもいいだろう。
夢には、
「怖い夢」
「楽しい夢」
といろいろであるが、覚えている夢ということでは、
「怖い夢」
の方が圧倒的に多いといってもいいだろう。
ただ、これも、
「夢というのは、基本的に、ほぼ毎日見ている」
という考えを正としているから生まれる発想である。
ただ、夢を見る見ないの発想が、眠りの浅さ深さにあるのであれば、
「夢を本当に毎日見ている」
という発想は、少々おかしな気がしてくる。
確かに、目が覚めるにしたがって、
「何か夢を見ていた気がする」
と、ぼやけた頭がそういっている。
最後までキチンと目が覚めた時、
「夢を見ていた」
という感覚になることで、
「夢は、いつも見ているものだ」
という考えが自分の発想としては、一番近いということを感じるのであった。
夢が最後に覚めた時、その時に、本当に目が覚める瞬間なのだろうか?
つまりは、
「夢の長さと、眠りの長さが本当に比例しているのだろうか?」
ということである。
夢がどの瞬間に、どのような長さで見ているか?
ということであるが、夢というものを、普通に考えた時、
「目が覚める寸前の、数秒で見るものだ」
と言われているのだった。
だが、
「覚えている夢と、覚えていない夢がある」
ということを考えると、
「眠りについて、最初の頃に見た夢を覚えていないというだけで、目が覚める寸前に見た夢を覚えている」
ということであり、先ほどの言葉も、あながちウソではないということにもなるであろう。
「夢というのを、時系列で考えていいものだろうか?」
と考える時がある。
「夢を、小説を読んでいるかのように感じると、普段であれば、規則的に刻んでいる時間というものも、感じ方によって、歪んで見えるものではないか?」
という発想になるのだった。
本も、基本的には、時系列になっているのが、当然のことであるが、
「SF小説」
であったり、
「ホラー関係」
などは、時系列にしない方が、面白く見えることがあるという。
逆にミステリーなどというのは、時系列で見ていかないと、辻褄が合わなくなったり、
「ノックスの十戒」
などに引っかかったりするというものだ。
時系列というものを、いかに考えるかということになると、基本的には。
「見えているものを、理路整然とさせ、謎であったり、疑問を、読者に掻き立てて、その思いを成就させる」
ということに絡んでいるのではないだろうか?
ミステリーというものは、その種類によって、
「最初から犯人を提示する」
という場合や、
「犯行現場をシルエットで見せることによって、その発想をいかに、印象づけるかによって、エンターテイメント性を高める」
ということだってあるだろう。
小説の種類によって、時系列を考察することが、謎解きのヒントになったりするではないか。
確かに小説というと、長さの問題からも、その、
「尺」
という問題から、
「登場人物の数」
そして、物語の、
「最大の時間差」
さらには、
「主人公の目線を、どの人称で描くか?」
ということである。
「自分目線の一人称」
「相手目線の二人称」
「他人目線の、三人称」
もう一つとして、
「神視線」
という書き方がある。
これらの場合は、基本的には、一人称か、三人称で描くことが多い。中には、一人称であっても、
「主人公視線」
というわけではなく、例えば、
「筆記者が探偵の助手」
などという場合であれば、
「一人称視点」
であっても、
「三人称視点」
であっても、どちらでも構わないということもあるだろう。
要するに、
「一人称で書く場合には、その視点があまりにも主人公に寄りすぎて、客観的な場面が必要な時に、いざとなると描けなくなってしまう」
といえる。
「三人称の、他人視点であれば、今度は主人公の考えであったり、その行動の信憑性を持たせるために、主人公の意思を表明する必要がある時などは、三人称視点で行う場合には、無理が生じるのである」
そんなことを考えていると、
「他の視点はないだろうか?」
と考えると、相手から見た視点での話になるわけで、これこそ、かなり難しい。
「どうしても、一人称か。三人称になるだろう」
と言われている。
一人称では、日記、純文学などに多いような気がする。自分視点になってしまうので、あくまでも、自分の心理描写や、その動きに目線がいきがちだ、
しかも、叙述などのような、読者を自分に優位なところに導いたり、欺いたりするような話の場合に多いであろう。
三人称はあくまでも、他人目線。人の感情も、想像の域を出ないということになるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「夢というのは、完全に、三人称目線での小説を見ているようだ」
といえるだろう。
しかも、この三人称というのは、
「神視点」
に近いといってもいいかも知れない。
夢を見ているその視点は、どうも、
「普通の三人称ではないような気がする」
ということであった。
「夢を見ている自分と、夢の中で絶えず主人公を演じている自分。この二人は間違いなく存在する」
しかし、夢を見ている自分は、果たして、夢の登場人物なのだろうか?
主人公ではないというのは分かっている。主人公はあくまでも、夢の中にいる自分だからである。
そんなことを考えていると、同じ自分をさらに見ている人がいる。それが、同じ人物を見ているということで、
「神視点」
なのではないかと思うのだった。
小説というものには、いろいろなジャンルがある。
「探偵小説」
はもちろんのこと、
「恋愛小説」
「純文学」
「ファンタジー小説」
などといろいろある。
一概には言えないが、
「どの書き方が、一般的には、どのジャンルに向いている」
などということを言われたりもしている。
それらの小説であるが、作家によっても違ってくるのではないだろうか?
この物語の主人公である。カノン。女の子であるが、まだ小学生であった。
名前が、
「カノン」
というので、
「外人か?」
と言われるが、そういうわけではない。
大人から見れば、
「他の日本人の子供よりも、日本人っぽく見える」
ということらしい。
そもそも、
「日本人らしい」
というのは、どういうことなのか? 正直、どういうことなのか分からないのであった。
そんなカレンであったが、学校では、日本語の名前を使うようにしていて、クラスメイトからの苛めの対象にならないように、そして、
「父兄から、好奇の目で見られないようにするため」
ということであるが、その理由に関しては、ハッキリと分かっている人はいないだろう。
確かに、まわりから見れば、
「小学生のいたいけな女の子が、苛めの対象とされてしまうのは、理不尽だ」
ということである。
それも、別に自分が悪いわけではない、ましてや、親が悪いわけではない。せめて、学校側からは、
「せめて、学校では、漢字の名前で行きましょうね」
と言われ、親も納得したのだった。
そこでつけられた名前は、
「可憐」
であった。
この名前であれば、別に変な名前ではない。
いわゆる、当て字などが使われる、
「キラキラネーム」
などというものではないので、
「可憐」
という名前を付けられるを、カレンの方でも、嫌ではなかったのだ。
別に日本人離れをしているわけではないので、名前の元々が、カタカナだったということに気付く人もいなかったのだ。
学校側には、さすがに虚偽の報告ができないということで、このようにしたのだが、実はこれも、
「最初から計算のうちだった」
ということであったのだ。
そんな可憐の通っている学校は、今住んでいるところから、徒歩で15分くらいのところだった。
実は、少し近所の人は気になっていたのだが、そもそも、可憐が住んでいる家は、
「昔から、誰も住んでいない、寂れた空き家だったはずなのに」
ということであった。
いつの間にか、綺麗な屋敷に変わっていて、まるで昔から住んでいたかのように、違和感がない感じで、可憐の家族が住み始めたのだ。
最初は、
「何か変だ」
という人もいたが、途中から、なぜか誰もおかしいと思う人もいなくなっていたのだ。
可憐という少女は、成績は悪くはなかった。
しかし、学校の先生からは心配されていた。
というのは、成績が悪くないというのは、
「平均点では悪くない」
という意味で、特化して成績がいいものと、悪いものの性激しいのだった。
算数や理科などは、誰よりも特化して成績がいいのに、それ以外の教科は、ほぼ、最悪という感じである。
中学生以降になると、自分が進む道を、理数、文系と別れるのであるが、今の段階では、特化する必要もない。
むしろ、
「平均的な成績をとってくれた本が安心だ」
というのだ。
それが小学生であり、義務教育の範囲内だといってもいいだろう。
しかも、周りからは、成績がいいことには関係なく、成績が悪いところだけを切り取られる形で、あまりよく思われているようではなかった。
皆が皆、
「平均的な成績を目指している」
というもので、うまくいかないと、その悪い部分の成績を、まわりから苛めの対象にされるのも、可憐だけのことではなかった。
成績の良し悪しに関しては、学校の先生も困っていた。
まだ小学生は、一人の先生、いわゆる、
「担任」
が教えるわけなので、そのあたりのバランスは、把握しているはずである。
点数だけでは分からない。
「これからの教育方針も分かっている」
というものであり、
「間違えた問題には、それなりの共通性のようなものが潜んでいるので、その問題点を分かるのも、担任にしか分からないだろう」
学校の先生は、
「生徒の、素晴らしい部分を延ばす」
というところと、
「成績の悪いところを克服する」
という課題と、どちらを大切にするべきだという意識なのだろうか?
小学生教師の、
「指導要綱」
などというものには、いったい、どちらを優先させるということになっているのだろうか?
ひょっとすると、そんなものは、載っていなくて、
「教員それぞれの、判断に任されている」
ということになるのではないかとも思えるのだ。
それは、生徒一人一人の性格の違いもあり、
「どちらの道が正しいのか?」
ということも、生徒の発想から、どうすればいいのかということを考える必要があるということなのかも知れない。
また、先生が、必要以上にのめりこんでしまうと、他の生徒から見て、
「先生はえこひいきしている」
などと思われると、先生としてが、そのつもりはなかったとしても、
「先生が引き起こした苛め」
というものにつながるのかも知れない。
このあたりはなんといっても、
「難しい発想」
だろうから、そう簡単に結論づけるわけには、いかないのだろう。
先生にとっても、そんな理不尽な苛めは、自分でもどうしていいのか分からなくなるということに繋がってしまう。
そもそも、原因が自分であることに、先生は気づいているのだろうか?
気づかないから、苛めが絶えないわけで、その中の一定数には、
「学校の先生が原因」
となる苛めが、潜在しているといっても過言ではないだろう。
いくら、
「先生に悪気はない」
といっても、教育者の端くれ、そのあたりの理屈が分からないということであれば、下手をすれば、
「教師失格という烙印を押されかねない」
ということである。
何と言っても、小学生は義務教育。そんな中で、基礎学力をつけるのが、小学生である。
中学生になると、公式や解き方の基礎を学ぶことになり、それが理解できるための、さらなる、
「基礎知識」
というものを身に着けるようになるのだ。
つまり、小学生というのは、
「どこまで行っても、基礎知識でしかないのが、小学生の頃であり、逆に、どんなやり方でやっても、プロセスが理路線善としていて、答えさえ合っていればいいのだ」
ということである。
問題から、答えを引き出すまでに、どのような苦労があったか?
つまりは、
「答えが合ってさえいれば、どんな解き方であろうと、その理由に筋が通っていれば、すべてが正解だ」
ということだ。
小学生というのは、どこまで行っても、この発想を正しいとするのだった。
それらの正しさというのは、
「小学生としての、問題の解き方」
というのは、
「問題に対して、正しい姿勢で回答しよう」
という、
「謙虚な姿勢」
というものが、
「小学生として、問題を解くということに、真摯に向き合っているのではないだろうか?」
そんなことを考えていると、生徒に対して、苛めのような理不尽さが、
「すでに小学生の間でも起こっているんだ」
と思えて、本当に理不尽さと、考えてしまうだろう。
さすがに学校の先生は、あまり余計なことは言わなかった。
ただ、可憐に対して、
「何か聞きたい」
いや、
「何かを言いたい」
という思いがあったように思える。
しかし、下手に突っ込んでしまって、生徒が簡単に立ち直れないほどのショックを受けたりすれば、教師としては、
「取り返しのつかないことをしてしまった」
という発想になり、どうすればいいのかということを考えざるをえないのだった。
ただ、
「私は、他の人とは違うんだ」
という意識が強いことは分かっている。
だからこそ、
「変わり者」
と言われているような気がしてならないのだ。
実際に、まわりの皆の目が、まるで、
「触れてはいけない」
というものではないかと感じていた、
同じ結論ではあるが、一番強く感じているのは、
「担任の先生」
ではないだろうか。
何しろ、生徒に対して、学校内であれば、すべての責任を負う立場になっているのではないかと感じると、
「義務教育」
という名のもとに、どうしていいのか分からないという状態に陥った時、ジレンマからか、精神に疾患を感じさせ、
「休職できるなら、お願いしたい」
ということであった。
実際に、給食も考えたが、
「自分が、ここで脱落すると、残った人間にしわ寄せがいく」
というような、いわゆる、
「当たり前」
ということであるが、中には、
「見てみぬふりをする」
ということで、
「成績だけを数字として追いかける」
という方に舵を切る人もいる。
可憐の担任が、そういう気持ちだったのかどうか分からないが、正直、
「病んでしまうところに、脚を突っ込んでいる状態だ」
といってもいいだろう。
担任の先生が、
「まさかここまで、自分のことを考えてくれていた」
とは思わなかった可憐は、ある日、そのことに、いきなり気づくことになったのだ。
小学生というと、
「すべてが、平均的なレベル」
というのが、一番の理想だと思っていた。
確かに一つでも特化していればいいのだろうが、その場合は、秀才か天才でもないかぎり、中学生以降、その時点から、
「成長がない」
ということになってしまって、
「気づかない致命傷」
というものを追ってしまうのではないだろうか?
と考えられるのであった。
それを何とかしようと考えたのが、一種の荒療治なので、
「結局、何もできる状態にいない」
といった方が、正解なのかも知れない。
先生は、半ば、可憐に対して、指導を行うことが困難だ」
ということになったが、
「無理だ」
と言わずに、
「困難だ」
というのは、
「実際に、指導をマンツーマンでやろうとすると、困難だという意識が、ゼロではないが、限りなくゼロに近いといえるものになるのではないだろうか?
と考える。
同じような考えを、可憐も実は持っていて、誰にも言わずに黙っていた。
「どうして、この意識が持てるのか?」
というと、これも、
「夢による、潜在意識のなせるわざ」
ではないだろうか?
と考えるのであった。
「夢というのは、正夢なのか、予知夢なのか?」
というような、実に不可思議なものがある。
「夢に見たものが、実際に起こる」
というもので、それを、
「正夢」
と表現してみたり、
「予知夢」
という言葉にしてみたりと、それぞれである。
しかし、正夢と予知夢というものが、そもそも同じものではないと考えると、
「夢の種類というのは、何も一つだけというわけではないだろう」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「怖い夢、そうではない夢」
という二つに分けることができると感じるのは、
「覚えている夢があるなし」
ということを考えると、
「夢というのは、見る時と、見ない時の二種類ある」
という考え方と、
「実際に、夢というのは、毎日見ているもので、覚えている夢と、覚えていない夢の二種類がある」
と考えると、
「覚えている夢」
というのは、今自分で理解している範囲では、
「怖い夢」
というものである。
その怖い夢というのが、どのような夢なのかというと、もちろん、一つではないはずだが、一番印象深いといえるのは、
「もう一人の自分が出てくる夢だ」
ということであった。
もう一人の自分といって、思い浮かんでくるのが、
「ドッペルゲンガー」
というものの存在であった。
「ドッペルゲンガー」
というのは、
「世の中には、自分と似た人が、三人はいる」
と言われる、その三人の中の一人ではない。
言われていることとしては、
「別世界に存在している自分ではないか?」
ということである。
別世界なので、普通の空間で出会うことはない。
夢の中という特殊な世界でしかありえないことではないか?
ということを考えてみると、
「では、夢というのは、別世界との境界において、見えなかったり、感じることができない」
という存在だと思うのだ。
夢というものの存在をいかに考えるか、よく言われていることとしては、
「夢とは、潜在意識が見せるものだ」
ということである。
つまりは、
「自分が頭の中で考えられる範囲でしか見ることができない」
要するに、
「空を飛びたいと思っても、潜在意識の裏側では、人間が空を飛ぶことなどできない」
という発想を持っていることから、
「宙に浮く」
ということくらいであればできるかも知れない。
と思っているからだろう、
「宙に浮く」
ということくらいまでは、潜在意識の力で想像することができるというわけである。
この発想に、信憑性を与えるために、
「夢というのは、もう一人の人物を創造した」
といえるのではないだろうか。
基本的に自分の夢に他人が登場することはない。もし、登場したと考えるのであれば、それこそが、
「もう一人の自分」
として登場するわけではないので、違和感はないのだった。
そう考えると、自分の夢に他人が出てきたという意識はあるが、目が覚めてしまうと、その存在だけが意識していても、どんな顔だったのか、そもそも、
「そんな顔の人間など見たことがない」
とばかりに考えていたのだろうか?
だから、
「夢の中に、他人が出てくるとは、当たり前だ」
という発想になるのは、
「夢を見て、一番怖いと思うのは、もう一人の自分を見たからだ」
という発想にいたってしまうからだろう。
「もし、自分の夢に他人が出てくることはありえない」
というような発想も、
「きっと、もう一人の自分を見た瞬間に、それを見たことも、何もかも、一つのことへの発想に結びつけるからではないだろうか?」
ということであった。
夢の中に本当に出てきてはいけないのは、もう一人の自分えはなく、
「他人が出てくる」
ということでないと、夢の信憑性はないのだが、その夢に信憑性をつけるためには、
「他人の存在」
というものが、不可欠だ。
ということになる。
しかし、それを夢で見たということにしてしまうと、結果、夢を忘れなければいけなくなる。
それを忘れないようにするには、
「強烈なインパクトを与えるしかない」
ということになり、それが、
「もう一人の自分」
というものを、夢で見たということになるからであろう。
夢というものを、いかに自分に何かを悟らせるために見ているということであり、だからといって。夢の中だけで片付けてしまうということはありえない。
ということになるのだった。
そんな夢の中で、今回は、その人の存在が、明らかに忘れられなくなっていたというのだ。
その人物に対して、
「どこかで見た」
という意識はあるのだが、そこまで覚えていながら、結果として。
「覚えているくせに、恐ろしく遠い存在だったのはないか?」
と考えるようになっていた。
そんな夢に出てきた人は、かなり高圧的だった。
その夢の迫力は、あったはずなのだが、空気がまったくよどんでいない。
「それが夢の正体だ」
といってもいいだろう。
そんな夢の中に出てきたその人物は、老人だった。
まるで、
「学校の先生」
ともいえる雰囲気であるが、
「担任の先生」
という雰囲気ではない。
となると、
「学校の先生」
という意識は、違っているように思えたのだ。
そんなことを考えていると、さっきまで、自分のことを、
「小学生だ」
という意識があったのだが、その老人が現れて、話を聴いている姿を遠くから見ている様子としては、
「まるで、仙人が仁王立ちしている前に、若者が、ひれ伏す形で、頭を垂れて、拝み倒している」
というような感じであった。
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