Part4
わたしは黙ってシオンに手を差し出した。彼は意図を汲み取ってくれたようで、余計な口をきかず、白いペンを手渡してくれた。
みんなの夢が叶いますように K
わたしの書いた言葉は、他の人の言葉とかんたんには混ざり合わなかった。わたしは、メッセージを書き入れる場所に悩んだ挙句、青い壁に浮かぶ白い文字の塊、その端のほうに、ひっそりと、小さく書き込んだ。すると、他の人から疎外されているような感じを、はっきりと目にしてしまった。わたしの書いた文字のかたちは、まったく様になっていなかった。他の言葉たちが仲間になって、手をつなぎ合って円を作って、わたしはその外側で輪の中に入り込めずにいて、陰口を言われている、そんな恐ろしさが、ひしひしと肌を突き刺してくるように感じた。
寝ている間、夢に見ていることはいつも決まって、わたしが望んでいるイメージであることが多い。だから、想い人と楽しく話をすること、その夢が叶えばいい、と思った。壁に記した「みんな」には、わたしも含んでいたし、壁に将来の夢や目標を書いている人の成功を祈るという意味もあったし、善人のふりをして仲間に入れてもらいたい、という願望もあった。改めて書かれた言葉の数々を見ていると、案外、わたしと同じようなことを書いている人が多いのが目についた。わたしはありきたりなことを書いてしまったようだ。それによって、目の前の白い言葉たちに歓迎されないのではないか、という恐れが頭を過ぎった。メッセージを一つずつ読んでいくたびに、針で刺されるような痛みを堪えながら、想い人の手によるものがないかどうか、わたしは探していた。無論、そこには見当たらなかった。こうした宴会じみたものを嫌う人だ。みんな死ねばいいと呪詛を唱えているような人だ。店員を呼びつけて、白いペンではなく青いペンキを持ってこさせるよう頼むだろう。そうした場面を具体的に想像すると、一緒に居るのが想い人ではないことが、つくづく哀しく思えてくるのだった。
わたしが壁にメッセージを書くために立ち上がったのをこれ幸いと、シオンは「チェックをお願いします」と店員に声を掛けて立ち上がった。わたしは財布を出そうとしたが、シオンはわたしを見ないまま左手で制したので、大人しくカバンのなかにしまい込んだ。
もし、わたしがあの中に、想い人の言葉を見つけていたならば。わたしを外へと押しやろうとする勢力のなかに潜んでいて、その影を見つけていたならば。
その可能性がないわけではなかった。あるいは、街中ですれ違ったとしても、あり得ないと切り捨てるほどではない。
その瞬間、何かがはたと胸に去来した。風のように通り過ぎていった。その残滓を捉えた、ような気がした。想い人というものは、その人しかいない、という感覚そのものが前提にある。その他大勢とは峻別できる特徴を持っている。人混みのなかでも、その人を同定することができる。
「行こっか」
シオンに促されるまま、わたしは青と白の壁を背に、歩き始めた。すでに、わたしの手の中には、水の痕も何も残っていなかった。シオンが押し開けてくれた扉をくぐると、空は相変わらず曇っていて、
「平日だと人が少なくて助かるよね」
空はまだ明るくて、街路の幅に見合わないほどの、人の少なさだった。前後を見回しても両手で数えきれるくらいの人影しか立っていない。空はまだ明るく、街路を挟んで建物どうしの間に繋がれ宙に浮いたように見える電飾、ごてごてと意匠が施された青銅製のロココなガス灯も、まだ目を閉じている。車がエンジンを吹かす音、工具が建物にビスを入れていく音、観光客が石畳にキャリーケースを曳く音、その姿は見えないのに聞こえてくる耳障りな音のすべて、已んだと思えばまたどこかから人の息吹が響いて痛む。
日没までには時間があった。午後の四時には空は暗がるが、まだ遠い夜は気配すら見せぬままわたしを待っている。
人が少ないのかどうか、わたしには分からない。この銅像をありがたがって、ごついカメラで写真を撮っている人もいるし、犬を散歩させているだけの人もいる。シオンだって胸を張って、わたしという知り合いを侍らせているわけで、そこに居ることに何ら不自然な感じはない。そういう人たちがいる、ということしか、わたしには分からなかった。ただ、ここにいる誰もが、生きている。生きているということは、何かに心が動かされていて、つまりそれは時間に押し流されているということだ。わたしも今この時ばかりは、銅像に惹かれていた。 どんな戦果を挙げたのか、どんな業績を遺したのかわたしには知れないが、遠くからちらと見るだけでも銅像の表面には錆びがあり、しかし、わたしの父母よりもずっと昔を生きた人がいま、既に死んでいるにしても、ここに現前していて、その金属の身体に傷がつこうとも、街行く人から無視されようと関心を寄せられようと、写真を撮られても尚、堂々とした立ち姿で広場の中央に佇んでいて、生きるとはこういうことかもしれない、などと考えた。ばかみたいな考えだ。理路整然と「生きるとは何か」を考察する哲学者の、足元の砂粒にも及ばない。生き永らえるかぎり、
銅像は違う。わたし自身が老いて死ぬことは確実であるとしても、銅像になるのであれば、この厄介なこころを失った状態のまま、強大ですべてを押し流していく時間をものともせず、存在し続けることができる。死んで猶、生きることができるのだ。
それから、メトロで一駅ほどの距離を歩いて、大きな城が視界に入るようになった。四角錐状の屋根がいくつも組み合わさった建物は、外からだと五階建てほどの高さはあるように見えるが、パンフレットに目を通す限りでは、三階までしか見学ができないようになっていた。しかし螺旋階段はさらに上へと続いていて、さらに、立入禁止になっている部屋もあるらしい。シオンはそういう場所に何が置かれているのか知りたい、と心を躍らせていたが、わたしは曖昧に頷くことしかできなかった。秘密を知って、どうするのだろう。生活が豊かになるのだろうか。幸せになれるのだろうか。そんなはずはない。きっと、何も変わらないし、あわよくば、下降線を辿ることになる。普段は隠れているものを見たり聞いたりしたところで、それだけだ。
すべての部屋は、いったい何に使うのだろうか、偉い人が集まって会議をするにしても余りあるような部屋、部屋、部屋ばかりで、それらをつなぐ廊下も不必要なほどに広く、そのすべての壁面に肖像画や戦いの風景を描いた油彩画が所狭しと飾られている。何もない、というものがなかった。余白をすべて埋め尽くさないと気が済まないような、強迫的な感じさえ垣間見えた。シオンはそのひとつひとつ、あるいは役目を終えた大仰な時計、あるいは一つひとつの抽斗が細かく分割されすぎた箪笥などに目を奪われて、どこから取り出したのか、首からデジタルカメラを提げていて、いちいち写真を撮り、わたしはそのたび、ひとつ先の部屋でシオンを待つ羽目になった。わたしの横を断って通り過ぎていくカップルや家族連れ、学生らしき人に申し訳なさを覚えた。いや、申し訳なさとは違う、居所のなさ、わたしはこの城の建造物としての価値にも歴史にも興味がないし、面白さというものを感じることが下手になってしまって、それなのにここに居ることが苦しかった。楽しまなければならない。そう思って、天井に彫られた小さな天使たちの意匠や、森の中で進軍している様子のこの絵はなんの意味があるのだろうか、などと無駄な想像を巡らせてみた。なんとなく肖像画に惹かれて、ここに描かれた人はいま生きているわたしに見られることを想像していたのだろうか、と過去に想いを馳せてみるなどした。しかし、そんなことは考えても意味がない、とさまざま思いながら考えて、結局はぼうっと絵の前で佇んだまま、シオンを待った。
外に出ると、いっきに情報が途切れた。目の前にあるのはだだっぴろい広場、剪定された木々が等間隔に
「ケイ、行くよ」
背後から声を掛けられて振り向くと、シオンが城の影のなかで手招きをしていた。地下に続く階段のところで、わたしがそちらに顔を向けたのを確認すると、シオンはすぐに降りて行ってしまった。慌てて背中を追いかけ、ポケットのなかでぐしゃぐしゃになっているパンフレットの内容を頭の中に描きなおす。地下には、宝物庫だとか、そういったものがあると書かれていたような気がする。頭がくらりとして、小走りで階段を下るときに、思わず壁に手をついてしまった。
シオンは、硝子に貼りつくような勢いで展示されているアクセサリーを眺めている。大きな翡翠が嵌め込まれたネックレスは着用すればきっと重いだけ、実用に供するものではなさそうな、金銀の食器、なかでもシオンの御眼鏡に適ったのは、展示物のなかでも目玉として飾られている王冠で、三百六十度、全方向から眺めることができるように、丸く区切られた展示スペースの中央に陣取って存在感を放っていた。顔を間近にしているシオンはもちろん、シオンの後ろ髪を眺めているだけのわたしの姿も、その王冠は、磨かれた表面に映していた。ふつうの子ならばこれを被ってみたいだとか、思うのだろうか。わたしにはとても似合わないだろう。きっと、嗤われるだけだ。仮に試着ができたとしても、絶対に断りたい。でも少しだけ、これを頭に載せて、威張ってみたい気持ちもあった。ネックレスだって着けてみたいし、じゃらじゃらとした指輪も嵌めてみたい。それは、わたしが、わたしでなければ、そうしたいというだけ。わたしには似合わないし、顔がどれだけきれいであっても、わたしは胸を張れないと思う。わたしは、こんな考え方をしてしまう自分の、卑屈なところがいやだ。
「ガールフレンドに買ってあげなよ」
「いくらすると思う?」
「気持ちがこもってりゃレプリカで十分さ、三百クローネもあれば足りる」
背後で聞こえた、なんてことない会話。恋慕のつむじ風が強く吹く。振り返る。白人の男性が二人、兄弟だろうか、顔のつくりがよく似ている。王冠、アクセサリー。そうしたものには反吐が出る。想い人は、そういうことを口にする人だ。貴ばれるものを
どうすれば、この世界を愛せるか。わたしの生きている、見ている世界を、想い人を、すべての人を、遍くすべての物体を、純粋な存在として、受け止めることができるのだろうか。わたしはいつも、考えすぎて気分が悪い。在るものが在るものとして、ただそれだけとして受け止めることができなくて、それは言葉や自分自身の感情もそう、なにか複数の目的や企みがいつも待ち構えているように思えて、その分岐の先を想像で詰めていきながら、いずれの道を選ぶことにも恐ろしさ、そしていずれかの道を捨てることになる恐ろしさに引っ張られて、分かれ道から動けないでいる。こころはそうして動けず、なのに身体は時間に押し流されて、どちらかの道を選ぶことになる。わたしが恐れている道を。ほんとうは、立ち止まることなどできやしない。不可能なことなのに、どうにかして、安心したくて、頭を必死に働かせて——何も考えられなくなるまで、その結果として詰みしか存在しないと悟って、心が疲弊する。悪い方向にしか転んでいかない道なのに、進み続けなければならない。じっと休んでいたいのに、身を起こさなければいけない。
(この気持ちがおまえに分かるか)
シオンはようやく、出口の方向、つまりわたしがいるところを向いた。
「ごめん、待たせたよね」
「大丈夫」
何も変わらない。何も変わらない。ものごとが良くなる、なんてことは起こらない。
地下から這い出て、日光を浴びる。空はまだ晴れている。青い光がわたしたち二人と、茶色に枯れた芝を照らす。幾何学的なかたちをした木陰は、ずいぶんと伸びているように思える。シオンの知的好奇心と、わたしを待たせる罪悪感のつりあう時間が、それだけ長かったのだ。わたしはシオンが方角を見定めて歩き始めるのを待って、その半歩うしろについて歩き始めた。目的地は、中央駅だ。
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