Part3

「メッセージ書いてみる?」

 シオンが口を開いたのは、わたしたちふたりの間に、長い沈黙が降りてからのことだった。わたしは、これまでの文脈で壁にメッセージを書くなら、まるで遺書みたいだ、と思った。実際、それくらいの気持ちで、みんなはここにメッセージを書き遺したのではないだろうか。旅人が、二度とおとなうことのないと思われる場所に、自分が居た記録を残す。それは遺書と同じではないか。ここは墓場セメテリではないにしても、図書館のように所狭しと遺書が並ぶ光景。そう考えてみると、妙な滑稽さがあった。シオンもそこに、遺書を書こうとしているのだ。わたしはかぶりを振った。まだ死ぬつもりはなかったし、わたしが死んだとて、言葉を残しても、なにも成らないだろうと考えたからだ。

 店員を呼んで、愛想のいい笑顔を浮かべて軽く言葉を交わし、白いペンを借りたシオンは、青と白の混沌の壁を前にして、しばらく悩んでいる様子。一分は経っただろうという頃合いに、ようやくペンのキャップを外して、しかし壁にペン先をつけることはなく、これから書く文字を、白い塊のどこに位置付けようか、適当な場所を探して視線を彷徨わせながら、「あのさ」と軽佻けいちょうで明るい声を放った。

「人が死ぬのは当たり前だよね。みんな見ないふりをしてるし、自分が死ぬ、知り合いが死ぬっていう現実を見たくないんだと思う。でも、それ以外のことも多分、当たり前なんだよ。起こってしまったことはすべて、ね」


 みんなが自身の過去を受け入れられますように。美味しいコーヒーと楽しい時間をありがとう 詩恩


 キャップを嵌め、自分の書いた言葉を眺めるさまは、傍から見ていると不思議だった。シオンの立ち姿は、なにかそこに、理解の範疇はんちゅうを超えたものがあって、それに対して、まるで神に祈るが如く、遠い場所に想いを馳せているように見えた。

「この漢字は、どういう意味なの。」

「一つ目のが、ポエムとか、リリックって意味。二つ目は、オブリゲイションかな。ちょっと他の国の人には説明しにくいけど、うーん」

 わたしは、初めて、シオンという名前が別の文字で綴られるところを見た。多くの漢字には、それ自体に意味がある表意文字だと聞いたことがある。

「オンを与えるっていうのは、ギフトとか、ビストウ? 気持ちのこもった何かを他人から貰うっていう意味かな。それで、貰ったものに対して、なにかお返しをしたくなるような感じ?」

 シオンという名前そのものは、きっと、親やその身近な人から、授けられたものなのだろう。しかし、その名前が持つ意味も、「授けられた言葉」だとは!

「ケイって名前、いろんな漢字で表現できるよ。何か書いてみようか」

「いや、大丈夫。」

 シオンは楽しそうな笑みを浮かべて提案したが、わたしは、なんとなく怖かった。なるべく平静を装って断ると、しかし、シオンは口角をさらに吊り上げた。

「分かった。あれでしょ。自分自身を定義されることが怖いんだ、君は。だから自分からなにか語ったり、そういうのを嫌がってる。違う?」

 ノーと答えれば嘘になる。けれども、肯定したいわけでもなかった。実際、自分という存在が、わたしの知らないどこかで弄ばれていることは、とても怖い。陰口を言われたり、根も葉もない噂が立ったり、火のないところに煙は立たぬ、なんて言ってあらぬ疑いをかけられたり、生きていると、そのようなことばかり。突然、シオンの姿がみるみるうちに変わっていくように思えて、それは人間から得体の知れぬ化け物へと、刃を通さぬ肌に覆われた怪物へと変貌していくような、どうしようもない怖さが身を包んだ。

 わたしはなにも応えなかった。声を発することもなかったし、首を振ることもなかった。ただじっと身を竦めて、自分の身体のどこからも「わたし」が漏れ出ることのないよう、全身、耳の先から足の指の先まで力を込めて、緊張させた。なにかが飛び出した瞬間に、それは時間に流されていって、わたしの手の届かぬところへ、わたしという存在がすこしずつちぎれて、切り離されていく。ケイという名前を漢字で書こうか、とシオンに言われたときに怖かったのは、わたしが、ほんの少しの間だけ、同じことを期待していて、その思考を見抜かれたような気がしたからだった。油断してはならない。油断禁物。自分に繰り返し、言い聞かせる。わたしを、わたしの手から離してはならない。誰にも観測されない場所で独り、息を潜めなければならない。こんなわたしではいけないのに。ぐっ、と息を詰めてしまう。

「こうなると黙っちゃうよね」

 膝に当てていた手に、さらに力を込めた。履いていたボトムスに皺がつくのも厭わず、ぎゅっと握りこんだ。すると太腿に硬い感触を覚えて、はっと緊張が解けた。ポケットを探ると、封筒の留め金——鳩の嘴の痕がつかないようにという思いやりが込められた、小さな金属のクリップがあった。わたしは取り落としそうな勢いで急いでそれをポケットから取り出し、机の上に置いた。そうして、シオンのほうへと、そっと差し出した。

「あ、ありがとう。そっちから手紙をくれるときに使ってくれたらよかったのに」

 行き場を失い机の上に浮かんだ右手を、音を立てず膝の上に戻していった。なるべく緩慢な動きであるようにと意識した。わたしからシオンに手紙を送る機会は、きっとない。けれどもこうして、いま対面して喫茶店の一劃いっかくにいるのだから、断言はできなかった。気持ち悪い、と思うのは自分に対してか、それとも目の前でにこにこと微笑んでいる相手に対してか。笑っているわけではないのだ。微かな笑い。微笑。わずかに口角を持ち上げて、目の周りの筋肉を弛緩させて、細める。笑顔が上手いな、と思う。わたしだって、鏡に映る自分を見て、笑顔を作る練習をしたことはある。だが、すぐに諦めてしまった。一日ともたなかった。シオンは、あるいは世間の多くの人は、鏡に向き合って、ああでもないこうでもないと、作り笑顔の練習をして、それからようやく外に出る覚悟を決めて、こうして人と会っているのではないか、と思う。笑顔をうまく作れない、うまく笑えないわたしにはなにも権利などなくて、ただ生きているだけ、死んだときにはせめて笑っていたいとは思うけれど、この調子では、死に顔もどんよりと浮かない表情をしているだろう。もう少し笑顔の練習をしてみようと思った。これだけ考えても、たったひとつ、数えるにも値しないような仕草をひとつとってここまであれやこれやと考えてしまう自分が気持ち悪いのか、それとも、わたしに対してなにか油断させて情報を引き出そう、抜き取ろうとしているように見えるシオンが気持ち悪いのか、やはり判断はつかなかった。

 もともと、シオンに会おうと思ったきっかけは、ただ誘われたからだった。向こうが何を考えてわたしと会い、大抵の場合はシオンが一方的に話すばかりで(今日もそうだ)、時折わたしが口を開くことはあっても、それはシオンの質問に答えるだけであって、自分でも、面会謝絶、してしまってもいいのに、連絡が来ると、きちんと待ち合わせの場所に足を運ぶ自分が、不思議だった。そうでもしないと、ひとりで家のなかでじっと物事を考え続けることで、頭の中から破裂して死んでしまいそう、という本能が働いているのかもしれない。何か理由があって、こうして会っていることは確かなのだけれど、目的、となると、いっこうに分からなくなる。夜、灯りのない部屋で、そこが自分の部屋であればある程度の勝手が分かるのだけれど、目的、というのは、真っ暗な他人の部屋に放り込まれたような感じがするのだ。自分はどこにいるのか、どこから外に出られるのか、目の前を照らしてくれる灯りは、そもそもあるのだろうか——自分がなにに突き動かされているのか、その正体は、とりあえず何かしらの圧力であることは分かっているが、自分がどこに向かっているのか、何を求めているのか、そういうもの、自分がどこを見ているのか、判然としないまま、追いかけ続けているような気がする。理由は分からない。一生、明らかになることはないのかもしれない。けれども、他の誰でもないシオンに会うことで、何か得ているものがあるのだとは思う。


「すべては当たり前なんだよ」

 シオンが言って、わたしは反射的に顔を上げた。ずきん、と首筋が痛んだ。履いているボトムスにはわたしの手汗がうっすら残っていて、相変わらず手元の飲み物は減っていないし、ロールケーキの周りには食べかすひとつ落ちていない。けれども、それをシオンにあげようとはとても思えなかった。生地に丸く囲まれたクリームはずいぶんと乾燥しているように見えた。心なしか、キャンドルの上で揺らめく炎も、小さくなっている。輪郭をくずした蝋が、芯を中心とした窪みから溢れて、一滴、外へと零れ去っていくのが見えた。

「なかったものはなかったんだし、なくなるものはなくなる。目の前の現実以外には何もない。どんな場合でも、このときこうしていればよかった、とか考えるのは、意味がない」

 そうだね、とシオンは念を押した。わたしは、小さく、こくりと頷いた。顎を少しだけ引く程度の仕草しか示すことができなかったが、本心から、同意していた。時間はぞくぞくとわたしの身体のなかをすり抜けていく。決して、捕まえることはできない。轍さえどこにも残らないのに、流れ去ったときの風圧にすぎない感覚だけを記憶に留めて、それは、雨が上がってから空に雲を探すような真似だ。自分を濡らした雨を恨んで、澄み渡った空に向かって唾を吐くのと同じだ。

「ダイエット中とかってわけでもないんでしょ、食べたら?」

 わたしは、迷った。ロールケーキを食べたとしても、食べなかったとしても、それはシオンの思惑通りになるような気がしたからだ。

「やっぱり迷うよね。その葛藤の結果、食べるか食べないかっていうどっちかの未来にしかならないんだ。そして、それは両方とも重なりあう事象なんかじゃなくて、単純に、どっちかだけしか選べない」

 目の前の問題、あるいはその背後に隠れているもの、そういった、不明のなにかに拘らって、過ぎ去ったことには無頓着。そういう姿勢でいたい。しかし、恋慕はそうはさせてくれない。たとえば、シオンから貰った手紙についていた嘴金はしがねを、こんどは想い人に宛てた手紙に流用することはないだろう。それは、シオンから貰ったという、過ぎ去った事実が、わたしのこころのなかに残っているからだ。想い人にとっては、わたしが自分のお金で、どこかの店で買ったものであろうと、あるいは自らの力で汗水たらして鋳造したものであろうと、関係がない。どのように調達したのかなど、わたしから話さない限り、分からないのだから。けれども、鋳型から自作するような努力は、知ってほしいと思ってしまう。わたしの思いのありのままを伝えるために、あるいは隠すために言葉を選ぶ作業に、どれだけの心血を注いだか、自分の思いの丈を、知ってほしいと思う。では、その思いの丈はどこからやってくるのか。それはきっと、過去だ。過去の、無形の、感覚の記憶であったとしても、そのときばかりは意味を持つらしい。ロールケーキなんて、どうでもよかった。自分が、他の誰でもない想い人にとって、わたしが想うのと同じように、他の誰でもないわたしでありたいと願う。

「どっちかしか選べないなら、選ばなかったほうの可能性は、不可能になっちゃう。じゃあ、そこに想像を巡らせても意味はないと思わない?」

 軽薄、なんとなくそう感じた。次に頭の中に浮かんだ言葉は「薄氷」だった。電車に乗っていると窓外の光景が様々に移り変わっていくように、脳内で観念が連鎖していく。硝子、自分の顔。膝に置いていた手を動かして、頬杖をついた。段差、エスカレーター。

「不可能なら、夢を見ることにも、意味はないと思うの。」

「それも同じことじゃないかな。価値はない」

 きっと、食い違いがある。わたしは、眠っているあいだに見る夢のことについて訊いたつもりだったが、シオンは、将来の夢といった文脈で語られる「夢」の価値について断じたようだった。

 夢。今朝の夢は、エスカレーターでどこかに向かう夢だった。わたしは男の子とふたりで、エスカレーターの真ん中あたりに立っていた記憶がある。その男の子は、シオンではなかった、と思った。わたしにとって特別な人だったのだろうか。着古した衣服に穴が空くように、今と過去との間に張られていた幕が、ぼろぼろになっていく。向こう側が、見通せるようになっている。シオンの言葉を訂正しようとは、もはや思わなかった。眼中にはなかった。ブラックコーヒーの黒い液面に、まんまるな吊り照明の影が映っていた。わたしが視線をすこし下にやると、その柔らかな灯りはふっと姿を消してしまった。

 なにか、気に障ることを言ってしまったのだろうか。想い人から返事が来ないのは、何かしら理由があってのこと、それはきっと、わたしの感情と食い違っているからこそ、今こうして、わたしを苦しめているのだ。この孤独感を打ち明けられる人間は、どこにもいないのだ。文面にしたためて、鳩を飛ばし、わたしの取り留めのない、ばらばらの言葉に対する返事をもらったときの、心がすっと静かになる感覚、竜巻が消えて、水面に平穏が訪れる瞬間の落ち着きや安心、そういう感覚をわたしに与えてくれる人だ。どこから始まったのだろうか。わたしはいつから、どうして、あの人を除いて誰にも打ち明けられないような想いを、自分のものとして認識するようになったのだろうか。そもそも孤独のなかにいることに気付きさえしなければよかった。あの人がいるから、わたしは孤独を感じるのだ。元からいなければ。そう願っても後の祭り、産まれてこの方、孤独が死ぬまで、あるいは恒久に続くものだったとすれば、寂しさ、頼る人のいない不安、そうした感情に苛まれることはなかったのかもしれない。

 あの夢は、どこかに昇っているところだったのだろうか。それとも、降りているところだったのだろうか。考えてみると、それも曖昧だ。階段を上がるほうが、下るよりも骨だ。だからエスカレーターを使う場面といえば、自然に浮かぶのは、高いところに向かっているときになる。それに、わたしは例の「誰か」を見上げていた。わたしは上を見上げていた。けれども、その人との間には、一段の差があって、簡単に踏み出すことができるように見えても、それは今になって思い返してはじめて気づくことで、夢を見ているあいだは、たった一段の距離を縮めようなどとは、つゆも思わなかった。

 気に障ること。距離を縮めようとすれば、身体がぶつかる。当然のことだ。わたしの思う人は、それを避けたのではないか。わたしが求めれば、向こうは離れる。わたしから求めなければ、向こうが離れることはない。

(そんなことは、分かってるって。)

 わたしはようやく、ブラックコーヒーに口をつけた。まったく味がしなかった。カップの重いことだけが、なぜだか印象的だった。それから、ロールケーキをフォークで一口大に切って、口に運んだ。クリームがすっかり乾燥してしまったおかげで、口の中で融ける感覚もなく、甘味にも薄っぺらさを覚えた。

(分かってるのに、どうして辞められないんだろう。)

 手紙を書きたい、と思った。この感情を打ち明けたい、と思った。あなたはわたしにとって、特別な存在。だから、あなただけに、わたしの迷いを、混乱を、受け止めてほしいと思った。けれども、わたしは、なんでもない人なのかもしれない。ただ愚痴を聞き流しているだけ。返信も、気が向いたときに済ませてしまえばいい。想い人は、そう考えているのかもしれない。

 いっそのこと、それくらいさっぱりした関係であれば良かった。わたしも同じように、気が向いたときに手紙を送って、向こうから貰った手紙も、時間があるときになんとなく思い出して筆を執るような関係、互いのことを想ってはいても、天秤は釣り合っているような、そういう関係であれば良かった。もう後戻りはできない。時間は逆行しない。性別も言語も文化も、その境目が曖昧になって、これまでは明瞭に区別されていた複数のものが、混ざり合うようになった。どうして、時間は、未来へばかり、わたしを押し込んでいくのだろうか。想い人から手紙を貰った瞬間の、さりげない幸福を、どうして留めておけないのだろうか。すぐに時間に流されてしまうのは、道理といえば道理ではあるが、なぜ抗えないのだろうか。幸せは、時間に押し流されてしまう。ずっと掴んでいることはできない。その幸せを、わたしがいる限りずっと、与えてくれる誰かが隣に居てくれれば、それ以上に望むことはない。互いが互いを特別な存在として認識するような、人たち。でもそれは、危険も孕んでいる。一対のトランプタワーのように、互いに支え合う性質の関係は、どちらかが倒れてしまえば、もう一方も行き場を失って、倒れてしまうことになる。

(トクベツなんて、端から無ければいいのに。)

 手紙に書き留めたい思いも、宛先がなければ、あるいは、返ってくる期待がなければ、紙の上に綴られる前に、形をなくしてしまう。

 わたしはロールケーキをざくざくと崩して、味を堪能する暇もなく、さっさと食べ終えてしまって、それからコーヒーも、一息に飲み干した。カップの底には、太陽のアイコンが小さく描かれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る