Part2
誘われたその瞬間は、気を紛らわせるのに打ってつけだと感じたものだが、朝食を摂って出掛ける用意をしたら、もうすぐ家を出ないといけないのだ、そう思うと、いつも面倒になる。
「いたいた。寒いね」
「うん」
「その手袋、どこで買ったの? おしゃれ」
「自分で編んだ」
「いいね。編み物できるの?」
「うん」
シオンはまだ何か言いたそうに口を開きかけた。わたしはその様子を視界の端で捉えたが、なにもしなかった。会話をするのが、だるかった。どうしてこうも、言葉を使うということを、気軽にできてしまうのか。自分の口からなにか思いがけないこと、誰かを傷つけてしまうような言葉、それから、自分の身を滅ぼすような言葉、どうしても、わたしは慎重になってしまう。口の軽くて、よく話す人には、蔑む感じと憧れの感じ、劣等感と優越感、そういうアンビヴァレントがわたしのなかで竜巻のように吹き荒ぶ。それはもう、それ以外のことを何も考えられなくなるくらいに、強烈に。ひとつの言葉に、わたしは手縄をつけられる如く、支配されているような感覚がする一方、その人の発する言葉に囚われて心を逍遥させる時間は、時間の過ぎていく感覚から逃れているような錯覚をもたらしてくれるので、やはり不思議な感覚がする。まとまらない思考をいつまでも続ける快感。シオンの半歩後ろを、ついていくだけ。世間では、時間は確かに過ぎていくのだろうが、わたしのこころは、意味のない言葉に引っ掛かって、渓流の大きな岩の影のような場所に、じっと留まっている。目の前には怒濤が流れている。
「前に言ってたさ、喫茶店なんだけど」
「うん」
「ごめん、きょう定休日だった。不定休だし、月に一回ぐらいしか店閉まらないから、大丈夫だと思ってたんだけどさ。さっきちょっと見に行ったら、シャッター下りてた。ほんと申し訳ないんだけど、別のところでもいい? そっちも美味しいし、面白いものがあるから。たぶん、ケイも気に入ってくれると思うんだけど」
「うん」
別にどこだっていい、という言葉は頭の中で思うだけにして、呑み込んだ。そういう軽薄な発言が――言葉選びだとか、ふとした拍子に漏れた言葉によって失敗した経験があって、それが尾を引いてわたしの行動規範に刻まれているわけでもなく、単に、それが成功したためしがないから、いつもわたしは、言葉を吞み込んでいる。しかし、気に入るとはどういうことだろうか。前にシオンと入った喫茶店は、個人で営んでいるらしいお店で、このコーヒー豆にこだわっている、ミルクはこういうもので、すべてオーガニック、みたいな謳い文句が氾濫していて、わたしは、圧倒された。そういう宣伝をして店の中に客を引き込んでは、さらに店の中では、張り紙や店主の言葉に気圧されて、わたしはシオンに勧められるままに選んだコーヒーを、なるべく舌の上に乗せないようにしながら飲み下した記憶がある。口で息を吸い、吐き、なるべく香りを遮断していた。あのときは、せめて目のまえに出されたコーヒーを精いっぱい楽しもう、そう努める気もしなかった。その理由がなんだったのか。思い返そうとしたが、そうして五感を使おうとしていなかったからだろう、わたしがあのとき何を考えていたのか、その理由は記憶の何処にうずもれているのか、掘り返すための
歩いて十分、とシオンが言って、わたしは思わず、じゅっぷん、と、発せられた言葉の意味を理解する前に繰り返した。
「ちょっと遠い?」
「大丈夫」
「ならよかった。疲れたら言ってね。カフェなんてどこでもあるし」
わたしは頷いて、今度は頭の中で「十分」と反芻した。たったのそれだけしかないのか。わずか六百秒。わたしなら、いくらでも歩くことができる。一時間でも、二時間でも、それ以上でも、音を上げるまで歩いてみたいと思う。疲れ果て、もうこれ以上、脚を持ち上げられない、どこにも行けやしない、と絶望するまで、歩いてみたいと思う。復路のことなど気にも留めず、気の向くままにあちらこちらへ、家や、知り合いの家など見当たらず、帰宅するための余蘊なくし、街灯にも照らされない雪の下に独り、わたしの息を
「好きな人とはどうなの? 最近」
「別に」
「何も進展なしってこと?」
「うん」
生返事をしているだけのつもりだったが、雲を網で捕まえようとするようなよしなき考え事、そこに「好きな人」が混ざってきて、搔き乱してくる。
「まぁ、そんなもんだよね。焦っちゃだめだよ、追いかけてばっかりになるから。恋愛ってのは駆け引きが大事だからね、追いかけさせるために我慢しないといけないときもある」
「うん」
シオンはわたしの
「やっぱり、元気ない? 体調悪いとかじゃない?」
わたしは首を横に振った。歩いていると、いくらでも考え事ができるが、腰を据えてしまうと、どうしても、その流れも澱んでしまうように感じる。私は背凭れに体重を預けない癖がついている。誰と出掛けても、どこに行くとしても。いつでも、すぐに立ち上がれるような姿勢をとっているように思う。それは考え事を始めるために備えているといったわけではなく、どこかに焦りがあるのではないか、という要因かもしれない。落ち着く、というのがいったいどういった感覚なのか分からず、この国に住む人は、たとえば授業が終わったあとにはコーヒーを飲み、ケーキを食べる、その時間を友人と分かち合う、そういう文化というか、習慣がある。卓上にキャンドルを置き、静かに立ち上がる小さな炎、みんな、なんとなくの暗黙の了解があって、それを吹き消すようないたずら小僧もどこにも居らず、小さな炎が柱のようにその居心地を支えているという場合もある。どんな飲食店にもキャンドルが置いてある。それが視界に入ると、わたしは毎度、自分が歓迎されていないような気分になる。街行く人はたいてい、わたしが道を尋ねれば笑顔で教えてくれる。それは、彼らの信教によるものではないだろうか。だから、わたしという弱者を
青く塗られた壁に、白いペンでたくさんの落書きがされている。しかし、落書き、と思ったのは束の間、駅の掲示板に誰かとの待ち合わせの時間を書き
「日照時間が短い国は自殺率が高いんだよ」
シオンが、なんの脈絡もなく口にした。シオンの手元にあるコーヒーは半分ほど減っていて、シフォンケーキは食べかすだけが真っ白な皿の上に載っている。わたしは、自分の手元にあるものから、そちらの食事へと、視線を送った。それから、机の上にある、小さな炎。確かに燃えているが、わたしがふうっとため息のひとつでも吐けば、その巻き添えになって尽きてしまうかもしれないくらい、小さな炎。
「ね、知ってた? だからさ、この国も幸福度ランキングで上位とか言われてるけど、こんだけ高緯度だとやっぱり、自殺する人の数って多いんだよ。北の方に行けば尚更でさ」
わたしは、自分のことを言われているのだろうな、と悟っていた。それが勘違いではない、という確信があった。実際、自分は二時間をかけて首都まで南にやってきたのだ。北方では雪が延々と路傍に残っているのに、こちらは既に、春の兆しが感じられる。雲に覆われた空は、南に進むにつれて、少しずつ晴れていっていた。それは別に、快い感覚をわたしに与えたわけでもなかったが。
「つまりどういうことかっていうとさ、自分の考えでは、自殺しちゃう人が多いから福祉が充実するようになって、結果として最大多数の最大幸福、っていうのがあるじゃん、あれの実現に漸近してるけど、そういう人たちが感じてる、いや、ほんとは自覚してないんだろうけど、幸せの割りを食ってるのが、自殺する人たちなんだと思っててさ」
そこで一度、シオンは言葉を区切った。わたしはシオンが話しているあいだ、ただの一度も顔を上げなかったし、頷きもせず、話を聞いている素振りも見せなかったと思う。
「ケイは、なぜ『死にたい』って言うんですか?」
シオンの言葉は、突然、畏まった感じになった。もちろん、シオンもわたしも第二言語でやりとりをしているわけだから、母国語ほど滑らかに言葉を紡ぐということは難しいのだけれど、わたしに
「生きたくないと思うから。」
わたしは、しばらく考えてから答えた。手紙のなかで希死念慮を打ち明けることもあったし、こうして二人でどこかに出かけるときに、死にたい、と言ったこともあった。しかし、どんなときでも、「死にたい」の裏には深い理由は見当たらず——深すぎて、底が見えなくて、考えても考えても、泥沼に飲み込まれていくような気分になる。本当は、死にたくない。できることなら、希望をもって生きていたい。でも、それができない。できないことが、もどかしい。生きたいと思えないから、死にたい。もっと、ずっと複雑ななにかがあると分かっているのに、誰かに頼るための言葉も——自分を納得させる理由すらも見つけられていない。わたしの子どものような言い訳は、シオンを納得させたり、黙らせるために言ったわけでもなく、思いついて、拾ったものをまじまじと眺めてみる時間があるように、「生きたくない」という言葉を浅いところから掬ってきたのだった。シオンは、
「そうじゃなくて、うーん。どういう理由で言うのか、って、過去のことでしょ? そうじゃなくてさ、何を求めて、何のために『死にたい』って言うのか、気になって。別にカウンセラーとかじゃないから、気分を害したらごめん」
「うん」
わたしはようやく、コーヒーを口にした。とっくの
「わたしが死んだときに、誰にも悲しんでほしくないから。」
「それは、なんでそう思うようになったの?」
シオンも
「人が死んだら、その人の友達とか、家族とか、恋人は、悲しむ。」
考えを声に出すたびに、わたしのなかの「なにか」が固まっていくような気がして、後戻りはできないのだろうな、と怖くなった。言葉がわたしの身体の関節にこびりついていって、誰かの働きかけに応じてしか身動きがとれなくなっていくようで、このまま人形になってしまうのではないかとさえ思った。
「っていうのが一般的なんだよね? わたしは、家族が死んだときとか、知ってる人が死んだとき、ペットが死んだときも、悲しい、とは思わなかった。」
思えなかった。訂正しようとしても、口を
「愛着がないわけではない、と思う。」
「うん。ケイは好きな人がいるんだから、それはそうだよ」
想い人は死んだものだと仮定すればいい、と言ってくれたのもシオンだった。連絡が返ってこないのならば、死んだものだと決めつけて、そうすれば、喪った存在が甦ることはない、だからいつか、諦めがつく、と。デリカシーがないと思った。そんなに人を簡単に、好きになったり、死んだと思い込んだりできるものなのだろうか。わたしにとって、世間とは、シオンの言葉そのものだ。
「わたしは、喪うことの悲しさが、想像するしかない。」
胸にぽっかりと穴が空くような感覚。生活に張り合いがなくなる。あの人が生きていれば、と夢想するときが訪れる。いろいろ、「悲しみ」に対する解釈はあるらしい。そうした現象になんとなく共感することはできても、それは結局、共感どまり。自分の一部分が欠けるというのは、自分の構成要素がひとつ失われたのならば当然のことで、死んだ人に夢の中でも会いたいと願ったり、天国で安らかに過ごしていますようにと空に祈りを捧げたり、そうした行動は、「悲しみ」によって突き動かされ、発生するものらしい。しかし、わたしは、「悲しみ」に似てはいるが、決定的に異なっている思いを、なにかをうしなう度に、こころに蓄えていた。そのため、その「悲しみ」によって突き動かされることもなかった。
「悲しかったら、涙が流れるんじゃないかな」
閾値を超えれば、身体の反応が現れないことがある。そう、どこかで耳にした記憶があった。わたしはそれを、案の定、他人事のように聴いていた。そのときの記憶をシオンに伝えようとも思いかけたが、うまく伝えられる気がしなくて、諦めた。
「泣いてないから悲しいってわけじゃないし、つらいってわけじゃない。人が何を感じているか、みんな簡単に、共感、共感、って言うけど、その想像って、自分勝手でしかない。」
思わず、声に力がこもったことに気が付いて、わたしは口を閉じた。そして、味のしないコーヒーを飲んだ。その分だけ、カップの中からはコーヒーが喪われた。だが、わたしの口腔、食道を通って、胃の中に流れ込んだだけだ。なにもおかしなことはない。
「わたしは、自分が死ぬことが悲しいことだと思わない。みんないつか死ぬ。精神を病んで、以前までのその人らしさがなくなることもある。それも悲しいとは思わない。」
「うん」
「けど、それを悲しいと感じる人がたくさん居る。わたしには分からない。分からないから、わたしは何も判断ができない。他の人が何を思ってるのか、決めつけたくない。その信条を、わたしが勝手に考えてるだけの論理を、他の人にも課してるんだと思う。」
自分でも、自分が何を話しているのか、何を、何のために、拾い物みたいな根拠で「思う」などと口走ったのか、不思議な気分になった。話すというのはこれだから、厭になる。取り返しがつかない。どうして世の中の人は、そしてシオンは、これほどまでに饒舌なのか、と思う。シオンを上回るお喋りさんもいるのだろうが、流れるように滔々と飛び出す言葉、自分の言葉をよく信用できるな、と憧れに似た軽蔑を抱く。さっきもこんなことを考えていたような気がする、と気づいて、わたしは二度と余計な口を利かないように、ぎゅっと口の端を閉じた。自分の口が、それを支配できないわたしが、厭になった。
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