光陰
暮沢深都
Part1
でも、死んではいけない。そう考えて、消えることにした。
ここではない、どこかへ。
幸せが何なのか分からないけれど、皆くちぐちに「幸せの国」と褒めそやす地に居所を求めた。
*
長い夢を見ていたように思う。先の見えないエスカレーターを、男の子とふたりで、わたしは彼を見上げながら、彼はわたしをやさしく見下ろしながら、なにか楽しいことを談笑しながら、どこか高いところへと昇っていく光景。ガラス張りの建物のなかだった。エスカレーターの周りには何もなくて、中空にただぽつねんと、一本の長いエスカレーターが一基、浮かんでいるようだった。景色は
あれはいったい誰だったのだろう。わたしを一段上から見下ろしていた彼の顔は思い出せないし、目を覚ましたいま、執着心が残っているわけでもなかった。夢を見ていた瞬間は分かっていたのかもしれない。知人か、家族か、それとも想い人か。しかし想い人であったならば、夢の内容をなぞり、思考の前後が繋がり眠気が離れていくうちに「ふりだし」と「あがり」を
布を二枚はりあわせた程度の薄いカーテンでも朝の日差しを遮るには十分すぎるほどで、わたしはそのカーテンを少しずらし、南向きの大きな
空気の冷えた地階に下り、洗面台の鏡を前に立つ。それだけで今日はずいぶん調子が良い、と思う。日がな一日、自室から廊下にすら出られず篭っていることも最近は多かった。顔を洗い、コンタクトレンズを装着して、歯を磨く。合間合間に、鏡には腫れぼったいわたしの顔が、人工的な照明によって明瞭に浮かび上がる。太陽よりも白い光は、白いものの輝きを十全に発揮させることはあっても、黄色い顔を照らすには適当ではない。磁器の白はより美しく
今日は
思い出して、玄関を出、数段の階段を上って路地に立つ。寝間着のままでも、外には誰もいないので気にしない。それに見知った顔しか辺りには居ないので、キオスクまでならばこの格好でも問題ない、とわたしは思っている。家を出て右へ歩き、突き当りの丁字路を右、左側のブロックが終わるところの角、家から歩いて一分ほどのところに、小さなキオスクがある。けれども、寝間着のままそこまで歩いたことはない。
わたしが居候している建物に設えられた止まり木には、小さな洋封筒を
新聞紙を包んでいる薄いビニールは破らないまま、食卓の上に置いておいた。わたしをずっと住まわせているこの家の主人はまだ眠りこけている。わたしは母国を——実家を離れても
わたしの受け取った洋封筒には、鳩の
前から会う約束をしていた。今日は適当に会話をして帰って、それだけ我慢すればいいと思っていた。しかし、掌の上の手紙に封をしている、この小さな金属片。この留め金を返さなくてはならない。
わたしからシオンに会う理由が発生して、気分はさらに落ち込んだ。留め金を外してから、手近にあった鋏で市販の白い封筒の上辺を切り落とす。一枚だけ納められている便箋は、なんの衒いもない、罫線が引かれているだけの象牙色、シンプルな紙だった。実家にある余り物を使った、という感じがした。手紙の要件は、午前十一時に駅に居る、というだけ。そのためだけに相応の金銭を支払い鳩を使役するというのが、ばからしく思える。この国では一般的なことなのだろうが、しかし、ばからしい。わたしだって、もちろん向こうにわざわざ鳩を飛ばしてまで伝えるようなことはないのだけれど、かりにそうした用ができたとするならば、手段は鳩しかないのだ。
シオンは男性にしては髪が長くて声が高いし、女性にしては体つきが逞しいから、どっちつかず。わたしからすれば一緒に出掛けて行動を共にする人の性別なんてどうでもよいのだけれど、「誰と出掛けたの、もしかしてボーイフレンドだったり?」なんて訊かれることもある。そういうゴシップが話の種になるくらいの、規模の小さい街。
だけど、シオンと出掛ける場所は違う。シオンは、首都を案内してくれる。わたしの住んでいる寒村から鉄道で二時間と少しのあいだ揺られて見える街並みは、同じ国でも月と鼈くらい違っている。この国に来てしばらく経つまでは、どちらも「異国の街並み」として目に映ったが、今はそうでもない。首都に
そうだ、わたしはこの顔をどうにかしようと思っていたのだ。思い出すと同時に、右の頬に手を添えた。凹凸が手のひらに写し取られたような感触があった。
術のないのが歯痒い。冷水に触れた顔の赤みはいつの間にか収まっていたが、気に食わないところがたくさんある。何といったって、肌がキレイじゃない。わたしは陶磁器のような、つるっとした肌がいい。できれば、白磁であればいい。周りはわたしの肌の色、明らかに黄色っぽい、異形を、なんとか見ないふりをしているか、気にしていない演技をわたしにしてみせているだけで、わたしはその、周りの隠し事、わたしに伝わっているからそれはもはや隠し事とは呼べないのではあるが、レイシズムは良くないから肌の色を論うことはないように、という腫れ物に触るような空気感が「白磁」の人達だけに共有されていることに、気づいているのだ。目下の問題はその点だった。郊外とすら呼べない寒村で感じる疎外感、それは、首都でも同じ。異なる人種、異なる環境で育った人が混ざりあうような場所でも、個人の内面に踏み込まない、まるで中身のない会話にこそ、劣った感じを突きつけられる。自分はあなたの異常性を論うことはないんだよ、と心の中で思っていそうな白磁の、余裕綽綽の整った顔。わたしはどうしても、肌の色について気になる。そして、それはいずれ、わたしのこころの内々で、諦めをつけて、それで片付く問題でもあると知っていた。ただ、肌の色だけではなく、そもそもの肌の滑らかさであったり、鼻の形状、角ばった顔の輪郭、ぱっちりと開いた大きな眼、そうしたすべてが、鏡に自分の顔を映すたびに、どうにかしなければ、と思うのだった。すべては、わたしの気持ちの問題なのだと考えるようにしても、やはり、落ち着かない。街中にはガラスがたくさんある。街を歩いていて、ショーウィンドウの中、着飾ったマネキンや洗練されたデザインのインテリアを覗き込めば、必ず、わたしの顔が映る。身体が映る。ガラスというのは一般的に、その向こう側を見通せるようになっているはずなのであるが、同時に見通す者の姿を映すのだから、冷酷だ。この世にある硝子が全て磨り硝子であればいいのに、と思う。あるいは、人間みんな、視力なんて失ってしまえばいいのに。もちろん、こんなのは実現しない望み。ガラス張りのタワーマンションのリビング。卓球ができるくらいに広い部屋から、街並みを見下ろせば、昼間はただ外の眺めが見えるだけでも、夜になれば、そこに自分の姿が映るわけだ。カーテンを閉めれば済む話、なのだろうか。わたしにはそうは思えない。いつだってそこにわたしはいるのだ。摩天楼にはぜったい住みたくない。蟻の群れのように、スカイスクレイパーの足元を歩く大衆を見ようとすれば、いちばん近いところに自分が映る。では、自分は外にいるのか、わたしは中にいるのか、などと、よく分からないことを考えてみる。ガラスを通した眺めも、自分の姿も、大差はないのだろう。
手紙を受け取るというのは、ひとをどういう心持ちにさせるものだろうか。電信とは違った意味がありそうだ。まず、文字が印刷されたものであったとしても、その紙は差出人がその手に取った紙であって、他の人には中身を見られまいとして、封筒のなかに収めたのだ。それを開封するときの、わくわく。そういうものがあるかもしれない。だが、シオンから今朝、受け取った手紙には、そうした愛着は抱かなかった。手紙には、貰って嬉しい人と、貰ってもべつに嬉しくない人がいるようだ。わたしの母国では、年が明ける頃合いに、知り合いにはがきを送るという文化があったが、廃れつつある。わたしの母とか、父の世代はそこで近況の報告などをしているらしいが、はがき一枚に書き込める情報の量などたかが知れている。それに、お金がかかる。この点は鳩も一緒だ。電信で済ませてしまえば、たわいのないこと、たとえば子どもが生まれたとかそういうことばかり書きつけるのではなく、美味しいピザの店をみつけたとか、失くしていたボールペンが見つかったとか、意味のないことをいくらでも詰め込むことができる。それでもはがき一枚に執着して已まないのは、その小さな紙で、配達員に見られても構わない内容で、かつ、なるべく意味のあるもの、というふうに熟考に熟考を重ねることに何か意義があるようだ。取り憑かれたように、去年もらったはがきの束を引き出してきて、「去年出してくれた人には返さないと」なんて言っているのは、ばからしい。限られたスペースに情報を詰め込むこと。すごく手間がかかる。何を伝えるべきで、何を伝えないべきか。その取捨選択をするのが楽しい人と、楽しくない人がいる、というのは、分かっている。なぜなら、わたしにも想い人がいるから。あの人に何を書こうか、と思うと、胸が高鳴って、文机の前におとなしくちょこんと座るというのでさえ、容易でなくなるのだ。ペンを持つ手は、震える以前に持てなくなってしまう。どうにか利き手でないほうで支えながら、親指、人差し指、中指で万年筆を挟み、すると今度は、すらすらと文章が出てくる。そして、ひととおり書き終えて読み返してみると、なんだこれは、となる。こんなの読めたものじゃない、と思って、びりびりに引き裂いてしまいたくなる。千々に、ばらばらになってしまってから、あの言葉選びはよかったと思っても遅く、便箋はすでに
そういう一連の、まったくもって唾棄すべき時間、けれども楽しくて、心が弾む時間。シオンも過ごしているのだろうか。しかしやはり、それを想像してみても、わたしの気持ちが掻き立てられるわけではなかった。わたしはなんの躊躇いもなく封を切ったけれど、わたしが想い人に手紙を宛てるときはもちろん、封をするときにも皺のつかないよう細心の注意を払うし、反対に、手紙をありがたく頂戴したときには、その封筒が想い人そのものであるかのように
コーヒーとヨーグルトをなんとか胃の中に流し込んで家を発つと、冷たい風がびゅうとわたしの周りを撫でつけた。厚いコートの中にはセーターを着こんでいるから、まったく寒くない。寒さは肌でしか感じられないはずなのに、誰かと会う時に寒いと思っていると、その人の印象ですら、なんとなく寒々しいものになるような気がする。人と会うには、暖かい時期であるほうがよい。晴天で日差しがあっても暖かいとは限らず、むしろ曇りの日よりも空気が冷え込んでいる場合もある。今日は曇りだった。幸せの国は、一年のうち、八割くらいは曇っている。同じ雲がいつも空を覆っているわけではなく、地上よりも数倍は強いであろう上空の風が、つぎつぎに雲を流していって、また別の雲がやってくる。雲の形、陰影のかかり方などはひとつとして同じものはないはずだが、そうは言っても、同じに見えることも多い。だから、ふとしたときに空を見上げてみると、雲の形が変わらないように見えたときには、刹那の安堵が胸に去来する。もちろん、時間は過ぎていない、という体感だけ。ラップトップの右隅、部屋の壁掛け時計、そして何より、目を塞いでいても、嫌でも時間の経過するのを知らせてくる、教会の鐘の音。太陽の光は、案外、時間の目安にならない。けれども、影の位置。それに、適当な時間になると自動的に点く街灯や、飲食店の前に立て看板が出されて、屋外に並べられた机と椅子とパラソルなどを目にすると、わたしの与り知らぬところで過ぎ去っていく「時間」という何者かの恐ろしさを感じる。力動。そういう印象。誰かが腕力で重たいものを前にぐんぐん押し進めていくようで、わたしはそれにまったく抗えないまま、流されていく。地球が自転しているとか公転しているとか、それによって季節があったり風向きが変わったり天候が変わったり、それに対する恐ろしさというのは、まったく感じない。わたしは時間に対してのみ、底の深すぎる怯え、背後からずんずんと迫ってくる壁から逃げ続ける疲弊、息切れ、時には、もういっそのこと諦めてしまって、すべてを抛ってしまってもよいのではないか、などと思いかけては、いやいや、とかぶりを振って、再び前に向かって走り出すのだった。時間の性質として悪いのは、前というのがどの向きなのか分からない点にある。例えば何らかの目的地があったとして、そこにひたすら前進すればいいわけではないというのは明白で、建物に遮られていたりして、物理的な環境、わたしの身体が居る物理的な世界には、障害物が多すぎるために、遠回りをする必要だってある。現にわたしは、駅に向かって直進しているのではなく、最短径路と
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