光陰

暮沢深都

Part1

 でも、死んではいけない。そう考えて、消えることにした。

 ここではない、どこかへ。

 幸せが何なのか分からないけれど、皆くちぐちに「幸せの国」と褒めそやす地に居所を求めた。


   *


 長い夢を見ていたように思う。先の見えないエスカレーターを、男の子とふたりで、わたしは彼を見上げながら、彼はわたしをやさしく見下ろしながら、なにか楽しいことを談笑しながら、どこか高いところへと昇っていく光景。ガラス張りの建物のなかだった。エスカレーターの周りには何もなくて、中空にただぽつねんと、一本の長いエスカレーターが一基、浮かんでいるようだった。景色はかすみに覆われている。両端はもちろんどこかに接続しているはずだが、わたし達ふたりはどこを発って、どこへ向かっていたのか、もはや覚えていない。きっと、そんなことはどうでもいいのだ。大事なことだけが記憶に刻まれて、ほかのどうでもよいことはぽんぽんと忘れていってしまうのが人間というもの。けれどそうして、忘れ去られたものはただ沈澱しているだけで、山に流れる透き通った沢に石が投げ込まれて、川底の泥がふわっとおぞましい化け物の姿が浮かび上がるように、いっきに清明だったはずの水流が重さをもちはじめ、そのダイナミクスを目で見て「これは流れているのだ」と悟るように、なにかの拍子に思い出されることもある。きっといまのわたしは、どこからやってきて、そしてどこへ向かっていくのかなどは頭のなかになく、ただ今この瞬間だけが大事だと思っている、そういう示唆を得たような気がした。

 あれはいったい誰だったのだろう。わたしを一段上から見下ろしていた彼の顔は思い出せないし、目を覚ましたいま、執着心が残っているわけでもなかった。夢を見ていた瞬間は分かっていたのかもしれない。知人か、家族か、それとも想い人か。しかし想い人であったならば、夢の内容をなぞり、思考の前後が繋がり眠気が離れていくうちに「ふりだし」と「あがり」を仮令たとえさっぱり忘れてしまったとして、わたしの話し相手が想い人であったことは確かに覚えているはずだ。やがて、すべてを忘れてしまうのだろうか。それは名残惜しいような気がした。あれは、あの光景は、なにか大切なものだったのかもしれない。上体を起こし壁に背を預ける。ちょうど正面にあった、机上に置かれた白磁の水差しを見つめた。コバルトで描かれた茎の細い植物の紋様は、見つめているだけで壊れてしまいそうなほどに頼りない。

 布を二枚はりあわせた程度の薄いカーテンでも朝の日差しを遮るには十分すぎるほどで、わたしはそのカーテンを少しずらし、南向きの大きなり硝子の窓から差し込む陽光に目をすがめた。頭が、ずきんと一つ、痛んだ。度の弱い、小学生のころからずっと使っている眼鏡を掛けて、白い光を眺めた。沢を泳ぐ魚の、銀の鱗のように輝く光は、ただ眩しい。朝の光を浴びることで体内時計がリセットされるのだとわたしに話していた医者の声が脳裏に蘇ったが、顔は思い出せなかった。遠い昔のことだ。やはり直接、外に出て、この身体に光を当ててやる必要があるのだろうか、そうすれば目覚めもよくなるのだろうか、などと未だ晴れやらぬ頭の中で電流が交錯していくうち、夢の中身などなんでもなかったかのように、すっかり忘れ去られてしまった。しばらく光を凝視していた視界の真ん中には、何色とも呼べない、楕円の形をした障壁がずっと残って、頭をどれだけ動かしても、目玉をどれだけ回転させても、まるで眼球そのものにシールか何かが貼りついたかのように、視界には執拗しつこく濁った跡がへばりついていた。


 空気の冷えた地階に下り、洗面台の鏡を前に立つ。それだけで今日はずいぶん調子が良い、と思う。日がな一日、自室から廊下にすら出られず篭っていることも最近は多かった。顔を洗い、コンタクトレンズを装着して、歯を磨く。合間合間に、鏡には腫れぼったいわたしの顔が、人工的な照明によって明瞭に浮かび上がる。太陽よりも白い光は、白いものの輝きを十全に発揮させることはあっても、黄色い顔を照らすには適当ではない。磁器の白はより美しくつややかに、陰影の黒はより色濃く演出される。頬骨が出ていればそれよりも高く鼻梁びりょうが立ち上がり、目は低く彫りが深い。一方のわたしは、頬骨も目も飛び出ていて、その割に鼻は押しつぶされたようになっている。さてこの顔をどうしたものか、としばし思案した。マスクは印象が悪い。不細工な顔を晒すよりも、まるごと口元を隠してしまう方が顰蹙を買う。冷水に触れたせいか、頬やら額やら鼻の頭やら、どのパーツを取り上げても打擲ちょうちゃくされたように赤くなっている。しかし、化粧道具も持ち合わせがない。外に出てしまえば気にならなくなると経験から知っていても、こうして鏡を前にしたり、たまに首都に出たときに乗るメトロの真っ暗な窓に映る自分の顔を思いがけず目にしたりすると、咄嗟とっさに手のひらで顔を覆ってしまいたくなる。これは自分じゃないのだ、と言いたくなる。こころの中から輪郭を持たないまま何かが膨張していく。宛先はない。あるいは自分に向けた言葉かもしれない。このつらは、などと言い訳を並べるのは、わたし自身を慰撫いぶするための嘘っぱちかもしれない。

 今日は午刻ひるどきから出掛ける用事があった。そのために、億劫ながらも部屋を出て、身支度を整えているのだ。わたしは相手のことをどうでもよいとは思っているが、不細工な容貌では、印象が悪かろう。

 思い出して、玄関を出、数段の階段を上って路地に立つ。寝間着のままでも、外には誰もいないので気にしない。それに見知った顔しか辺りには居ないので、キオスクまでならばこの格好でも問題ない、とわたしは思っている。家を出て右へ歩き、突き当りの丁字路を右、左側のブロックが終わるところの角、家から歩いて一分ほどのところに、小さなキオスクがある。けれども、寝間着のままそこまで歩いたことはない。

 わたしが居候している建物に設えられた止まり木には、小さな洋封筒をくわえた鳩が立っていた。鳩の見た目はわたしの母国とこの国では、大きな違いはない。しかし役割はまったく違っている。郵便受けに入っているであろう新聞の朝刊よりも先に白い洋封筒を受け取ると、鳩はすぐさま飛び立っていった。遠ざかっていく赤の足環。鳩の両脚に巻かれた赤い輪っかは、差出人が郵便の費用を支払っている印。翼を激しく上下に運動させ、ぐんと加速して飛び去ってしまったあとも、その深紅の足環は、太陽の影——濁った楕円の代わりに、わたしの視界に刻まれていた。ここは天国でもなんでもない。


 新聞紙を包んでいる薄いビニールは破らないまま、食卓の上に置いておいた。わたしをずっと住まわせているこの家の主人はまだ眠りこけている。わたしは母国を——実家を離れてもなお、安眠などできず、数刻おきに目を覚ましては布団のなかに深く潜り、ぎゅっと目を瞑っていた。しかし物音をなんでも拾ってまない耳は、石造りの街路に固いひょうが降るのを聴いていた。そう、銃撃戦の夢を見ていた。今はしかし、それだけしか思い出せなくなっていた。夜中に雨と雹が降ったことを知っているのは、この国でわたしただ独りだけであるようにも思われた。

 わたしの受け取った洋封筒には、鳩のくちばしの痕を残さない目的も兼ねた留め金によって封がされていた。シオンとは、人の紹介で出会って、多少の立ち話をして連絡先を交換しただけだ。わたしならばその場限りの関係性だと決めて名前も顔も忘れてしまうところ、向こうは違った。こんな人とどこそこへ遊びに行った、美術館でたまたま目にした印象派の絵画がどうだった、などという取り留めのない、わたしにとっては意味のない手紙を寄越してくる。シオンの手紙には、要件というものがない。前置きだけを書いて送ってくるような、尻切れとんぼの手紙が、定期的にやってくる。

 前から会う約束をしていた。今日は適当に会話をして帰って、それだけ我慢すればいいと思っていた。しかし、掌の上の手紙に封をしている、この小さな金属片。この留め金を返さなくてはならない。


 わたしからシオンに会う理由が発生して、気分はさらに落ち込んだ。留め金を外してから、手近にあった鋏で市販の白い封筒の上辺を切り落とす。一枚だけ納められている便箋は、なんの衒いもない、罫線が引かれているだけの象牙色、シンプルな紙だった。実家にある余り物を使った、という感じがした。手紙の要件は、午前十一時に駅に居る、というだけ。そのためだけに相応の金銭を支払い鳩を使役するというのが、ばからしく思える。この国では一般的なことなのだろうが、しかし、ばからしい。わたしだって、もちろん向こうにわざわざ鳩を飛ばしてまで伝えるようなことはないのだけれど、かりにそうした用ができたとするならば、手段は鳩しかないのだ。

 シオンは男性にしては髪が長くて声が高いし、女性にしては体つきが逞しいから、どっちつかず。わたしからすれば一緒に出掛けて行動を共にする人の性別なんてどうでもよいのだけれど、「誰と出掛けたの、もしかしてボーイフレンドだったり?」なんて訊かれることもある。そういうゴシップが話の種になるくらいの、規模の小さい街。

 だけど、シオンと出掛ける場所は違う。シオンは、首都を案内してくれる。わたしの住んでいる寒村から鉄道で二時間と少しのあいだ揺られて見える街並みは、同じ国でも月と鼈くらい違っている。この国に来てしばらく経つまでは、どちらも「異国の街並み」として目に映ったが、今はそうでもない。首都に濫立らんりつする建物のうち、大通りに面していないものは、わたしの居る地域に比べても大した構造上の違いはない。確かに、建物自体の違いはないのだ。しかし、あの街では、いつでもどこかで建物の修繕工事をしている。この村を離れて首都に足を運べば、忽ち、鎚を振るう音、ドリルの駆動音、防音シートが強風にあおられて膨らむ音、鉄骨がぎいぎいとこすれ合う音。目を塞がずとも、この街が部分的に死にながら、また部分的に、新たに生まれ続けていることが知れる。

 そうだ、わたしはこの顔をどうにかしようと思っていたのだ。思い出すと同時に、右の頬に手を添えた。凹凸が手のひらに写し取られたような感触があった。

 術のないのが歯痒い。冷水に触れた顔の赤みはいつの間にか収まっていたが、気に食わないところがたくさんある。何といったって、肌がキレイじゃない。わたしは陶磁器のような、つるっとした肌がいい。できれば、白磁であればいい。周りはわたしの肌の色、明らかに黄色っぽい、異形を、なんとか見ないふりをしているか、気にしていない演技をわたしにしてみせているだけで、わたしはその、周りの隠し事、わたしに伝わっているからそれはもはや隠し事とは呼べないのではあるが、レイシズムは良くないから肌の色を論うことはないように、という腫れ物に触るような空気感が「白磁」の人達だけに共有されていることに、気づいているのだ。目下の問題はその点だった。郊外とすら呼べない寒村で感じる疎外感、それは、首都でも同じ。異なる人種、異なる環境で育った人が混ざりあうような場所でも、個人の内面に踏み込まない、まるで中身のない会話にこそ、劣った感じを突きつけられる。自分はあなたの異常性を論うことはないんだよ、と心の中で思っていそうな白磁の、余裕綽綽の整った顔。わたしはどうしても、肌の色について気になる。そして、それはいずれ、わたしのこころの内々で、諦めをつけて、それで片付く問題でもあると知っていた。ただ、肌の色だけではなく、そもそもの肌の滑らかさであったり、鼻の形状、角ばった顔の輪郭、ぱっちりと開いた大きな眼、そうしたすべてが、鏡に自分の顔を映すたびに、どうにかしなければ、と思うのだった。すべては、わたしの気持ちの問題なのだと考えるようにしても、やはり、落ち着かない。街中にはガラスがたくさんある。街を歩いていて、ショーウィンドウの中、着飾ったマネキンや洗練されたデザインのインテリアを覗き込めば、必ず、わたしの顔が映る。身体が映る。ガラスというのは一般的に、その向こう側を見通せるようになっているはずなのであるが、同時に見通す者の姿を映すのだから、冷酷だ。この世にある硝子が全て磨り硝子であればいいのに、と思う。あるいは、人間みんな、視力なんて失ってしまえばいいのに。もちろん、こんなのは実現しない望み。ガラス張りのタワーマンションのリビング。卓球ができるくらいに広い部屋から、街並みを見下ろせば、昼間はただ外の眺めが見えるだけでも、夜になれば、そこに自分の姿が映るわけだ。カーテンを閉めれば済む話、なのだろうか。わたしにはそうは思えない。いつだってそこにわたしはいるのだ。摩天楼にはぜったい住みたくない。蟻の群れのように、スカイスクレイパーの足元を歩く大衆を見ようとすれば、いちばん近いところに自分が映る。では、自分は外にいるのか、わたしは中にいるのか、などと、よく分からないことを考えてみる。ガラスを通した眺めも、自分の姿も、大差はないのだろう。


 手紙を受け取るというのは、ひとをどういう心持ちにさせるものだろうか。電信とは違った意味がありそうだ。まず、文字が印刷されたものであったとしても、その紙は差出人がその手に取った紙であって、他の人には中身を見られまいとして、封筒のなかに収めたのだ。それを開封するときの、わくわく。そういうものがあるかもしれない。だが、シオンから今朝、受け取った手紙には、そうした愛着は抱かなかった。手紙には、貰って嬉しい人と、貰ってもべつに嬉しくない人がいるようだ。わたしの母国では、年が明ける頃合いに、知り合いにはがきを送るという文化があったが、廃れつつある。わたしの母とか、父の世代はそこで近況の報告などをしているらしいが、はがき一枚に書き込める情報の量などたかが知れている。それに、お金がかかる。この点は鳩も一緒だ。電信で済ませてしまえば、たわいのないこと、たとえば子どもが生まれたとかそういうことばかり書きつけるのではなく、美味しいピザの店をみつけたとか、失くしていたボールペンが見つかったとか、意味のないことをいくらでも詰め込むことができる。それでもはがき一枚に執着して已まないのは、その小さな紙で、配達員に見られても構わない内容で、かつ、なるべく意味のあるもの、というふうに熟考に熟考を重ねることに何か意義があるようだ。取り憑かれたように、去年もらったはがきの束を引き出してきて、「去年出してくれた人には返さないと」なんて言っているのは、ばからしい。限られたスペースに情報を詰め込むこと。すごく手間がかかる。何を伝えるべきで、何を伝えないべきか。その取捨選択をするのが楽しい人と、楽しくない人がいる、というのは、分かっている。なぜなら、わたしにも想い人がいるから。あの人に何を書こうか、と思うと、胸が高鳴って、文机の前におとなしくちょこんと座るというのでさえ、容易でなくなるのだ。ペンを持つ手は、震える以前に持てなくなってしまう。どうにか利き手でないほうで支えながら、親指、人差し指、中指で万年筆を挟み、すると今度は、すらすらと文章が出てくる。そして、ひととおり書き終えて読み返してみると、なんだこれは、となる。こんなの読めたものじゃない、と思って、びりびりに引き裂いてしまいたくなる。千々に、ばらばらになってしまってから、あの言葉選びはよかったと思っても遅く、便箋はすでに屑籠くずかごの中。新品の便箋を一枚とって、どうにか震える手にペンを持たせて、再び文章を書き始める。

 そういう一連の、まったくもって唾棄すべき時間、けれども楽しくて、心が弾む時間。シオンも過ごしているのだろうか。しかしやはり、それを想像してみても、わたしの気持ちが掻き立てられるわけではなかった。わたしはなんの躊躇いもなく封を切ったけれど、わたしが想い人に手紙を宛てるときはもちろん、封をするときにも皺のつかないよう細心の注意を払うし、反対に、手紙をありがたく頂戴したときには、その封筒が想い人そのものであるかのように鄭重ていちょうに扱って、傷ひとつつけないように、爪も立てないように優しく扱うのである。封筒に入れるというのは、秘め事をこっそり共有するような感じ、そしてふたりの間の距離が縮まるような感じがして、なにか特別な感じがする。そのような感動、心の浮足立つ感覚は、電信でのやりとりは持たない。


 コーヒーとヨーグルトをなんとか胃の中に流し込んで家を発つと、冷たい風がびゅうとわたしの周りを撫でつけた。厚いコートの中にはセーターを着こんでいるから、まったく寒くない。寒さは肌でしか感じられないはずなのに、誰かと会う時に寒いと思っていると、その人の印象ですら、なんとなく寒々しいものになるような気がする。人と会うには、暖かい時期であるほうがよい。晴天で日差しがあっても暖かいとは限らず、むしろ曇りの日よりも空気が冷え込んでいる場合もある。今日は曇りだった。幸せの国は、一年のうち、八割くらいは曇っている。同じ雲がいつも空を覆っているわけではなく、地上よりも数倍は強いであろう上空の風が、つぎつぎに雲を流していって、また別の雲がやってくる。雲の形、陰影のかかり方などはひとつとして同じものはないはずだが、そうは言っても、同じに見えることも多い。だから、ふとしたときに空を見上げてみると、雲の形が変わらないように見えたときには、刹那の安堵が胸に去来する。もちろん、時間は過ぎていない、という体感だけ。ラップトップの右隅、部屋の壁掛け時計、そして何より、目を塞いでいても、嫌でも時間の経過するのを知らせてくる、教会の鐘の音。太陽の光は、案外、時間の目安にならない。けれども、影の位置。それに、適当な時間になると自動的に点く街灯や、飲食店の前に立て看板が出されて、屋外に並べられた机と椅子とパラソルなどを目にすると、わたしの与り知らぬところで過ぎ去っていく「時間」という何者かの恐ろしさを感じる。力動。そういう印象。誰かが腕力で重たいものを前にぐんぐん押し進めていくようで、わたしはそれにまったく抗えないまま、流されていく。地球が自転しているとか公転しているとか、それによって季節があったり風向きが変わったり天候が変わったり、それに対する恐ろしさというのは、まったく感じない。わたしは時間に対してのみ、底の深すぎる怯え、背後からずんずんと迫ってくる壁から逃げ続ける疲弊、息切れ、時には、もういっそのこと諦めてしまって、すべてを抛ってしまってもよいのではないか、などと思いかけては、いやいや、とかぶりを振って、再び前に向かって走り出すのだった。時間の性質として悪いのは、前というのがどの向きなのか分からない点にある。例えば何らかの目的地があったとして、そこにひたすら前進すればいいわけではないというのは明白で、建物に遮られていたりして、物理的な環境、わたしの身体が居る物理的な世界には、障害物が多すぎるために、遠回りをする必要だってある。現にわたしは、駅に向かって直進しているのではなく、最短径路といえども、いくつかの街区の輪郭に沿って歩いている。時間は何にも妨げられない。押しとどめておくことは不可能だ。いや、その不可能性よりも、時間の流れを避けて落ち着く物陰がどこにもないこと——まるで雲を貫いて地上を照らす陽光のようだ——自分の心臓が拍動して、幾千、幾万、幾兆の細胞に酸素を届けて、無意識のうちに肺を膨らませて萎ませて、それはつまり自分の身体が一秒先に生きようとしているのだと思うと、わたしのこころはどこに逃げればいいのか、戸惑い、混乱する。逃げ場所などない。前に進むしかない。いったい、「前」とはどの方向だろう。あちらへ進めばよいのか、こちらへ進めばよいのか、折に触れて、分からなくなる。けれども、駅は見えてくる。磁気カードを機械に押し付けて、改札を済ませる。傍から見れば、わたしはきっと、何も考えていないように見えるのだろう。黄色人種がプラットフォームに立っているという、ただそれだけ、わたしがこんなにもいろいろなことを考えては自分自身に殺されそうになっていることを、誰も知らない。

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