第13話 天使効果

 気づけば10月も半ばを過ぎようとしていた。今年は苛烈な猛暑がつづいたあと、台風がかすめたらいきなり秋をすっ飛ばして冬に近づいているという妙な気候だった。


 そんな中、水泳の先生はいろいろと誘ってくれた。


 そのなかで市の「10キロウォークイベント」に参加しよう、というのがあった。


 私はここ4年ほどリモートワークで働いていたので、布団から職場まで7歩、一日の歩行歩数が500歩もないという極端な運動不足状態にあった。夏の模型イベントの時には説明だのなんだので一日1万歩になるがそのあとは寝込みそうなほど消耗の回復に追われる。

 それが10キロ歩くのだ。ざっくり推測で2万歩である。これまでの1日最大の2倍も歩くのだ。目いっぱい「そんなの無理!」と思った。


 とはいえ先生の誘いを断るのも、いろいろと申し訳なく気が引けた。そして申し込み期限が近づいてるので、ええい、ままよとメールで参加を申し込んだ。ほどなくしてハガキの参加証が届いた。参加番号は222番だった。


 そしてあれこれとしているうちにイベントの日が迫ってきた。いつもの重たい革靴だと危ないな、と思った私は近所のスーパーで運動靴を買った。今どきの運動靴はめちゃくちゃ軽く、足に翼が生えたような気がした。大袈裟な言い方だと思うだろうが、そこまでの靴が重たすぎたのだ。


 思えば自分で靴を買ったのは初めてかもしれない。以前は親に、そのあとは嫁に任せていた。でも自分で自分の身につけるものを真剣に選ぶというのは大事だし、いいことなのだなと思った。




 そしてイベント当日になった。祝日ダイヤのバスに乗るのは久しぶりでその本数の少なさに驚いたが、それでもなんとか集合場所の中央公園につくことができた。


 先生は私の荷物も持つと言い出したが、私は感謝しつつ遠慮した。先生は本当になにこれと気遣ってくれる。

 周りには多くの参加者の人々。みんなスポーツが得意というわけでもないようだ。


 エントリー手続きのためにうろうろしていていつの間にかこのイベントのスタッフと話していた。バッグにはいくつものオリンピックバッジ。スタッフをやって集めているのだという。東京2020にもスタッフ参加していたと自慢していた。こういう人々にスポーツ界は支えられているのかと感心した。


 そして出発前のエントリー手続きを終えたころ、公園の木々が大きく振られるほどの強い風が吹き始めた。そしてそのあとパラパラと雨が降り出した。

 徐々にそれは強まり、水たまりにできていた雨粒の波紋もいくつも重なり始める。参加する人々はそれを避けるため、公園地下駐車場への入口の小さな屋根の下に逃げ込んだ。


 みんな吹く風の音もあって、少しどころでなく不安げだった。そんななかで先生が隣になった女性に自分のもう一つやっている珠算教室の誘いをしているのにはちょっとびっくりした。


 結局その風雨のせいで開会式はなくなり、そのまま10キロのウォーキングにスタートすることとなった。式はなくなったがスタートゲートでは議員さんがあいさつをしていた。地味な活動だけどこれも大事な仕事なのだ。


 歩き出して私はケータイの歩数カウンタアプリを時々見た。どんどん増えていく数字と、近づいてくる次の目標の地物、そして一緒に歩くおばさま方の他愛無いおしゃべりを傍受、と退屈せずに楽しく歩くことができた。


 一人でのウォーキングは退屈だし、かといって音楽を聴くと接近する自転車や車が怖いし、イヤホンも落としやすくて困る。だからこういうイベントはとてもよい機会になってくれるのだと理解した。もくもくと一人で歩くよりずっと楽しい。


 コースは5キロを過ぎたころに最北端となり、そこから南下してまたスタートの中央公園へ戻る。最北端をちょっとすぎると消防署があり、そのあとに市営の野球場があってそこで休憩をとる。

 そのときに私は足に違和感を覚えていた。あ、これはマメか何かできたな、と思ったが、我慢できる程度だったので言わなかった。


 野球場につくころには天気は程よく晴れ、穏やかな秋の晴天、スポーツ日和になっていた。半分をちょっとすぎての休憩、もうここからはゴールまですこしである。


 途中でまったく歩けなくなってスタッフに迷惑をかけるかもという危惧は杞憂に終わった。もう半分以上歩いてこれならゴールまで行ってしまおうと思った。


 そして中央公園に戻る道で、私は高校時代に何とか訪れた個人経営の模型店が店を開けているのを見てしまった。


 へええ!と思った。今はこういう店はなかなかないのだ。ちょっと外から見るだけでも古くて素晴らしいプラモが山積みで置いてある。


 というわけでゴールして、先生と別れると私はそこからさらに歩いてその模型店に戻って買い物をした。

 しかしそこはカード払いができないので、さらにコンビニATMまで歩いて現金を下ろして買い物を遂げ、そして帰宅することになった。


 結果その日、2万歩どころか2万5千歩を私は歩いたのだが、結局とても楽しい一日だった。

 

 もともと基礎体力がなさすぎて25メートルプールをバタ足で泳いでも20メートルで力尽きていた私なので、基礎体力向上は急務だった。私もあと5メートル泳ぎたかったし、そういう前向きのことを考えられるのも「天使」のおかげだと思った。

 途中いろいろあったが、スポーツもまたいいものなのだと感じた。

 体を動かすこと、体が思い通りに動くことはそれだけで楽しいのだ。そしてそれを楽しんでいる人を見るのも楽しいのだ。


 そのウォークイベントの半月後、11月のはじめに私は先生とまたプールに行った。

 あの「天使」はいなかったが、私はそれでも楽しかった。

 バタ足はげっぷが出そうになって21メートルで力尽きた。あと4メートル。でもそれもいつかクリアできそうな気がした。


 私はいつの間にか前向きになりつつあった。

 まさにそれは「天使」の効果だろうと思った。


 帰りにプールの売店で売っているアップルデニッシュをまた食べた。運動の後のこういうものは通常の何倍もおいしいのだ。


 私は、そうやってつかの間の幸せを持ち始めていた。収入もなく実家に借金する生活だが、それでも幸せで、そしてそれをもうすぐ失うのだなという気持ちをもっていても、今はその幸せを享受しようと思っていた。

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