第10話 偽りの天使
そんなこんなで意味なく多忙でそれなのに収入もぜんぜんない日々を私は過ごしていた。カードの支払通知に胃をやられたり、就職活動にメンタルを踏みつけにされて、ついに1月から毎月やっていた動機不純極まりない水泳のレッスンも5月は1回休んでしまった。
でも6月初旬に振替でレッスンすることになった。毎月1回のレッスンではあるが、少しずつ進歩している、と先生は褒めてくれた。先生も内心は忍耐大変だろうなと思っていただけにありがたかった。
また水泳レッスンのあいだに先生のマスターズ水泳の大会の見学に行くこともあった。
行ったのは遠くの街の小さなプールであった。どれぐらい小さいかというと、小学校のプールに近い大きさで、25メートルのたった5レーンというものだった。観客席もろくにないところで、タイムを見ようにもそのかろうじてあるプールの見える「部屋」からは表示板が見えない。
そこでの大会に出る先生はウォーミングアップをしたかったのだが、その休憩時間はその狭いプールは完全に「芋洗い」状態でろくに身体も動かせず、飛び込みの練習など全く不可能であった。
それで先生は飛び込み失敗したなー、といっていたが、年齢別の短水路競技で2位となり賞状を貰った。都心側の遠くの街の会場まで私は軽自動車で先生を送り迎えしたので、帰りの高速道路SAで軽い祝勝会かねて先生とご飯を食べた。先生は生徒の手前で少し良いとこ見せられたかな、と笑っていた。
6月初旬、5回目のレッスンとなった。いつものようにスーパーの駐車場で待ち合わせて私の運転する軽自動車で市民プールに向かう。はじめまごついた私のプールに入る準備も少しずつ慣れが出てきた。シャワーを浴びてプールに入るのもとくに困らなくなった。
そして私は水泳帽を私のラッキーカラーであるオレンジ色のものに変えた。私は割とこういう目だっても良いから自分らしい格好をするのがスキなのだ。だんだん自己主張も出てきたのだ。
レッスンはだんだん本格化して、鼻呼吸の確認からはじまると伏せ浮き、仰向け浮き、ビート板を使ってのバタ足などもやるようになった。私はバタ足はあい変わらず下手で太ももからしっかりできないのだが、それでも足首を柔らかく使うことを覚えてすこし前に進めるようになった。
息継ぎも簡易で行うようになったが、息が上がるよりも体力が尽きて25メートルプールの半分、13メートルほどでギブアップするしかなかった。
前回4月はその時点でもうクールダウンに移るしかなかったのだが、この6月ではそれでもそこから泳ぎを再開して25メートル進むのを5本やった。
ビート板を使った背泳ぎでは25メートルを完泳することも出来た。うれしかった。
少しずつ前進している。ほんの月一回のレッスンではあったが、そこまで全く運動していなかった私には効果があった。そりゃそうかもしれない。
前々から先生は来年にはマスターズ水泳の大会に短水路で出ましょう、といっていた。無理も良いところなのだが、その大目標の中で、大会の見学とかのおかげで私が知らなかった体育会系の文化圏の姿に触れることが出来て、私はとても面白かった。そして身体を動かすことにも興味が湧いてきた。
運動など身体に良いことをすると、脳内物質のバランスが変わるのか、自己肯定感が上がるのを感じることが出来た。私は夏に大きな毎年やっているイベントがあり、そのための体力作りの一環としてこのレッスンをやっていた。
イベントは工作とか創作のイベントで完全に文化系のイベントなのだが、それも完遂するには体力が大事だと気づいたのだった。
あと2カ月ちょっとでそのイベントがある。その参加のために入金せねばならないのだが私の財布はあいかわらずカツカツだった。それで何度も崖っぷちのメンタルになっていたのだが、それでもこの水泳のくれる自己肯定感はそれを押し戻してくれた。
このレッスンの日は土曜日だった。普段金曜日だったのだが振替なので土曜日。プールシーズンも近づいてきたせいか、人も多い。
とくに子ども連れの家族が多い。その家族にはお母さんらしき女性も多い。
私はいくら変態でもよその奥さんをどうこうしようなどというリスクは全く遠慮したいのだった。
それに奥さんたちはみなどっしりどーんの貫禄ついた身体で私のストライクゾーンからは外れていたのでとくに気にしなかった。
そしてなんとか25メートル5本をやって、息の上がった私を先生はジャグジーに誘った。
プールサイドを歩くのすら違和感があるほど足腰が弱っていた私だったが、このレッスンのおかげで膝も楽になった。
しかしいつのまにか五十肩になっていたらしく、肩が上がらなくなった。五十年も生きるとあちこちガタが来るのは当然であった。
それでも動かしているうちに少しずつやわらいできた。普段の運動がなさ過ぎますね、などと先生と話しているとき、
競泳水着の女性が一緒のジャグジーに入ってきた。ほとんどの奥さん方はスパッツタイプにあまり目立たない感じの水着なのに、彼女はなんと鮮やかなハイカットの水着だった。
水着の色も他は黒か紺色なのに、彼女のは緑色のランダム柄。
水着だけなら私のストライクだったかもしれない。
だが、私はその上の顔にひどくガッカリした。いや、顔が可愛いとか綺麗とか、そういうのではない。
私の心が目一杯の警報を発令していた。この女性はぜったいよろしくない。
いや、顔が整ってる整ってないとかの話ではなく、どう考えてもダメなのだ。ちかよってまともな結果にならないと感じたのだ。
この手の勘は割と当たる私であるので、私はスルーして目を転じた。
だが彼女はジャグジーに寝そべって身体を見せつけるような仕草をし始めた。
これが私の思う市民プールの天使なのか? 冗談じゃない。
天使はこんなくそだらしない顔をしたりしない。
どんなに不細工であってもこんな目つきは断じてしない。
そう思っていると、私はだんだん彼女に軽く苛立ち始めた。
正直、邪魔だった。
せっかく自己肯定感がめばえ初めていつものネガティブを押し戻しかけていたのに、それに水をぶっかけられたような不快感だった。
私が妄想した市民プールの天使がこれだとしたら、夢破れたどころの話ではない。冗談じゃない!
表情には少しも出さなかったが、私は不快だった。
彼女はそれにも関わらずのんびりと身体を開いてジャグジーに浸かっている。
まあ仕方ないや。深く考えてもろくなことはない。私は先生の方を向いて彼女をガン無視した。
そうしているうちに、土曜日で早く終わるこの市民プールの閉館の案内放送が鳴った。
先生と共に私はジャグジーをあとにした。気づいたらその彼女もいなくなっていた。
普段競泳水着好きのド変態の私でも、彼女の姿からはなんの魅力も感じなかった。
たとえ偽りの天使だとしても、申し訳ないがあまりにも不快だった。
先生と別れて家に帰っても、とくに彼女の評価は変わらなかった。やっぱりいやだった。
そして私はいつもの私の落書きの児湯英水着の女の子を見つめて戯れて眠った。
現実世界に天使など絶対に現れるわけがない。
私の確信はそう強まったのだった。
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