第8話 競泳水着の天使は降り立たない
25メートルプールを歩くことになった。恐らく障害のある人の水中歩行運動、リハビリみたいなものでの利用を想定しているのだろう。
そのプールには手すり完備のスロープを降りて入るようになっている。
正直リモートワークに暴飲暴食で身体に全く自信はないし膝関節にも不安が出ている私にとって、こういう施設のバリアフリー設計が有難く思えた。
そしてしっかり歩いたのち、いよいよプールの自由遊泳ゾーンに入る。
「泳いだことありますか」
2人で入ったプールで先生が聞く。
いえ、ぜんぜん泳ぎと言える泳ぎはしたことないです、真似事はしたけれども、と答える。
「じゃあ、真似事で良いので、とりあえずちょっとやってみてください」
そうなるのは当然だった。私はちょっと覚悟して、水に潜って手足をバタバタさせた。
当然のことだが、もちろんほとんど前に進まないわ息継ぎなんて夢のまた夢、すぐ息が苦しくなって足を付いて立ち上がるしかなかった。
「なるほど。わかりました」
私の乱れて上がった息の惨状を見て、先生は微笑んだ。
「じゃあ、まずこれから始めましょう」
先生は「ちょっとやってみせるので、同じことをして下さい」といった。私は注目する。
息を吸った先生は、そのまま水中にスイムキャップの頭を没し、息を吐いて、しばらくして頭を上げた。
「鼻から息を吐いてください。
口で吸って鼻から出す。鼻から出すのが水泳の基本です。
鼻で吸っちゃったら大変なことになるので、必ず水中では鼻から息を吐いてください」
先生は丁寧に指導してくれて分かりやすい。
私は早速やってみた。
なるほど、鼻から息を吐くのはやりやすくて楽だ。
でもこれ、ここまで他の誰にも教わった記憶がない。
だがここで知ることができて良かったと思う。なるほどなあ、と私はますます水泳に興味を持った。
何回かやった後、こんどは別の呼吸をすることになった。
息を吸って、潜って水中を歩きながら鼻から息を吐き、そして立ち上がって息を吸うのだ。
私は真剣に、夢中にそれをやった。
吸って、潜って、歩きながら鼻から吐いて、立ち上がって息を吸う。
リズムが取れるのでそんな難しくない、と思ったら、水中に潜ったところで私の姿勢が乱れた。
私は慌てた。
ごく浅い25メートルプール、規模的には小学校にあるようなものよりも更に小さいもので、水深も1メートルちょっとしかない。
しかし人間が溺死するには水深30センチあれば十分なのだ。
水と言うのはそれほど恐ろしい。
そこ迄思わなかったにしろ、私は少し慌てた。手をかいて崩れた姿勢を復旧しようとした。
そして姿勢が復旧する時、それに夢中になっていて……鼻から吐くのを忘れた。
それで鼻から吸ってしまった。
そして先生の言う通りに大変なことになった。
鼻がつんと傷み、あわてて立ち上がって水面から顔を出して息を吸った。
人間の頭蓋の中にはくつもの空洞があり、それは耳などにも繋がっている。
そこで鼻から息を吐くと、その空洞に陽圧の空気を与えることになる。
その陽圧の空気は空洞から水を排出し侵入させない効果があるのだろう。
私はそう理解していた。
しかし理解することとやれるかどうかは別だ。
そして私は同時に姿勢回復と鼻から吐くという2つのタスクを同時に処理する練度はなかった。
その結果、強烈な鼻への痛みだけでなく、耳にも水が入ってしまった。
先生の「大丈夫ですか」の声がひどく聞き取りにくい。
私は大丈夫です、と答えたが、内心は動揺していた。
でもこれで諦めるのは悔しすぎる。
「もうすこしやりましょう」という私の声は詰まった耳のせいで頭の中に嫌な反響をしていた。
結局ここで耳に入った水は帰りの車の中でもなかなか抜けなかった。
それでも奮闘しているうちに、先生が時計をみて、そろそろまた歩行コースに行きましょう、といった。
え、今日はそれだけ? と思ったが、思いの外体を動かしていたようで、少し喉も乾いていた。
「歩行を少しやって、それが終わったら、買っておいた飲み物を飲みましょう。多分そのころ休憩に入ると思うので、その時採暖室にも行ってみましょう」
先生は終始丁寧だった。お金を払っていても頭が下がりそうなほどの丁寧さだった。
私はそれなりにではあるが精一杯に工夫して歩行した。
水中での姿勢制御、子どものころは気にしたことはなかったが、今やってみると奥が深いなと思う。
抵抗の大きい流体の水の中で、体は重力と浮力を同時に受けるためにバランスを取るのは陸上よりも遥かに難しい。
先生は自然に安定していたが、それは先生は幼い頃から水泳をしている心得があるからだろう。
時間が来て、先生の指示でスロープを上がり、プールサイドにいってベンチに置いた飲み物を飲んだ。
その時放送と監視員の笛の音が流れ、プールは休憩時間に入った。みんなプールから上がっているが、一人、女性が水着でプールに入っていくのが見えた。
「あの人は監視員さんですね。水中に沈んでいる人がいないか、危険な異物がないか実際プールに入って確認してるんです」
なるほど、と思った。
今思い返せばその監視員さん、若い女性でしかもハイカットの競泳水着を着ていたと思う。
だが私はそれより水中での鼻呼吸と姿勢制御のことばかり考えていて、まったくそれどころではなかった。
そう、彼女はどうやってもプール監視員であり、残念ながら「市民プールの天使」ではなかった。
「天使」が降り立つのはいったいいつになるのだろう。
その見込みは、まったくなかった。
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