第6話 不純すぎる動機
水泳のレッスンが始まった。
まず最初は歩行プールでの歩行だった。水流がある浅いプールでの歩行だったのだが、それですらも普段運動しない上に足腰が衰えつつある不安を抱えた私にとっては、これでもすでに良い運動に思えた。
例のしっかりどっしりのおばあさんも同じプールを歩いていたのだが、それを先生と共に追い越す。
そして足首や膝を動かすことに留意しながら、後ろ向きになったり横歩きしたりしていく。
とくに先生に指示されたわけではないのだが、そういう趣旨だと思って励んだ。おばあさんが不審げにちらりとみたが、とくに気にしなかった。
しばらく歩いたあと、先生はジャグジーに行きましょう、と案内した。
この私の水泳のレッスンで、先生には申し訳ない小銭ではあるが謝礼を払うことになっていた。
とはいえこういうのに慣れない私にとっては、先生の気遣いがなんだか払っているのに申し訳ない気がする。
プールの水温は何種類かあり、ジャグジーが一番温かく、流水歩行用プールが続き、一番比較的冷たいのが25メートルプールである。
どれもバリアフリー設計になっていて手すりやスロープが完備されている。
25メートルプールはちゃんと25メートル泳ぐ人を温めすぎないようにしてあるらしい。
そこは鉄柵で仕切られて片方は水深の深い歩行用、もう片方はコースロープで仕切られて初心者の練習に使える区画と、25メートル泳ぎ切れる人のための完泳コースとなっている。
プールの脇の円形のジャグジーには、先客の子供連れのお父さんがいた。
子供たちは退屈なのか、ジャグジーに黙ってつかっていることができずに騒いだりバタ足をしていたりした。
私はそんなの子供だから当然だろう、と少しも気にしなかったのだが、お父さんは耐えられなかったようで、子供たちを連れて出て行った。
先生と私だけになったジャグジーにつかっていると、さっきのおばあさんがやってきて反対側につかった。
いくら寂しくてもおばあさんに欲情するほどではないので普通にしていた。
それなのにおばあさんはチラチラとこっちを見ていた。
よくわからないし私も対応する気もないので先生と水泳の話をしていた。
幼い頃、自衛官の父が水泳を教えてくれたが、ほとんど身につかなかったこと、それでも海上自衛隊・米軍厚木基地の士官クラブ(オークラブ)に深い池のようなプールがあり、それを泳いで横断できたら基地内のマクドナルドでビッグマック買ってくれると約束してもらって、それ目当てに何もわかってないのに無理矢理泳いだとか、その手のどうでもいい話をした。
そうしたら、おばあさんはいつの間にかジャグジーを上がっていった。
先生がプールの時計について教えてくれた。プールに時計は持ち込めないので秒針の大きな時計が置かれている。それと普通の時計を見て時間を考えるのだという。
そしてプールには時間割があり、一定時間ごとに休憩時間があり、全員をプールから出して溺れて沈んでいる物がいないかチェックするのだという。
先生は別のプールでプール監視員のバイトをしているとも言っていた。
ちなみに先生は昔から水泳をやっていて、フィンスイミングの世界大会で入賞して街の表彰を受けたこともある。背はそれほど高くはないが、腹筋が割れたスポーツマンである。
私は逆に運動大嫌いで半世紀過ごしてしまって、腹はでっぷりと出て足腰も最近ずっとリモートワークで働いていたため、弱り切って不健康そのものである。
もうしばらくしたらジャグジーをでて、25メートルの歩行プールに行きます、と先生は言った。まだ休憩には時間がある。
でも私は不思議と退屈はしなかった。身体を動かすのは悪くないな、と思う。むしろ身体を動かしたりするといつもの鬱の気持ちがすこし和らぐ。
もちろん深い鬱の底では身体を動かすなんて不可能だが、いったん動かせたらこうしてさらに運動することで気持ちを前向きにできる。
こういう機会は希だ。その希な時間を私は利用することにした。
正直、いつも生きてることに、全くいい気持ちを抱けない私である。
起きていると、四六時中過去の小さな失敗を絶えず思い出して苛まれている。
それから逃げるように創作をしてきたが、それも、どれをやっても鳴かず飛ばずだ。
そしてそのことが私をさらに苛み、その苦しさから逃れるようにして夜の眠りにつく。
そして目覚めたらまたその自分を責める感覚が始まる。
そんな人生を30年続けてきた。
それでできたものがわずかな商業で出せた本では全く割に合わない。ばからしい。
それでもこの水泳をしているときは、気を遣ってくれる先生に気を遣ってそれを忘れられる。
貴重な時間だ。
極めて不純で変態な動機で始めた水泳だったが、悪くないなと思えてきた。
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