3話 哲学対偶

 僕は、冷たい格子を両の手で握った。朝露に濡れた島の家の戸口を思い出させる冷たさがあった。地面は、洞窟をくり抜いたかのように固くゴツゴツとしていて、就寝の時に背骨を下から強く押す。朝に目が覚めれば、全身を鞭で打たれた時に似た痛みがあるものだ・・・


 地下にある牢獄に身を捕らえられた僕は、静寂に酔っていた。格子の外にはあと3つの牢があるのだが、どれも人が居ない。聞こえてくるのは、近くを流れるらしい水の音だけだった。普段はチロチロと細やかな流れを歌うのだが、天候が悪いらしい時だとザーッと大きな音で僕の眠りすら妨げた。


 いつまでこの冷たく寂しい牢獄に捕われるのだろうか。尋問を受けた時が思い出されるのだが、刑期とか、その拘束期間という話は兵士の口から語られることはなかった。何度も僕の顔や頭を殴りつけては、「帝国の裏切り者」「汚らしい盗人」と怒鳴りつけられた。時間が経って、その時の痣(あざ)は大分回復したのだが。


 僕は、深くため息をついた。


「はぁ・・・」


 ため息をついても、咳をしても一人。肌を撫でるキンと冷たい空気に僕が発した音がいつまでも小さく反響するようだった。


「夕食だ。」


 上の階段から定期的に下りてくる見張りの兵士は、一日に一回、僕に食事を運んでくる。内容は変わらず、豆が少しばかり入ったスープ。冷めていて、牢で冷えた体を温めるには不足がある。豆は味が皆無であって、濡れた味の無いパンの欠片を口にしているかのようでもあり、それよりも不味かったかもしれない。小さい木の器に注がれたそれを、数秒と掛からず飲み干すのだった。


 カビ臭い木の器を格子越しに兵士に返却して、また退屈で、鬱屈とした長い長い時間に全身を預けるのだ。常に空腹で、壁の石の模様を数えるのにも飽きて、今度は天井から僅かに滴る水の音を一つ、二つ、三つと数えるようになった。


 水滴がふと、僕の仰向けの額を叩いた。何のことは無かったはずだったが、その極小の衝撃が僕をハッとさせた。


 どのような苦境であれ、正しい心で臨み続ければ活路が見いだせると信じていた。そんな男一匹が、冷たい檻に捕われている。苦難に喘ぎ苦しんでいるという建前を突き出して、盗みを繰り返したではないか。僕は、遂に僕自身すら裏切った。いつかは【勇者】のような強く、立派な人間になりたいと意気込んでいたアレスという人間は、わずかだった輝かしさすら失って、黒の闇に飲まれてしまった。


 そうだ。こんな醜いアレスという人間は、こうやって牢獄に捕われたままで、体を腐らせればいい。誰かの役にも立てず、自らも無気力と憂いに苛まれるのみであるならば、そうなってしまうが良い。冷たく、無機質な空間で、静寂の内に沈み込んでいく様は、どこか儚く美しいだろう。


「なぁ、アレス。なんでいっつも溜息ばっかりついてんだよ?」


 牢獄の向こうから、声が掛けられた。声の主は、最近牢の仲間になった【ガルク】という男だ。正味、僕は彼のことが嫌いであったので、聞こえない振りをしている。


「なんだよ、無視かよ。暇なら、付き合え。」


「・・・わかった。」


 僕は、彼が石の地面をコツコツと指で打ち鳴らすのを聞いていた。そんな彼に、僕は反論を立てることできなかった。暇でないと言えば、それは嘘になる。壁の模様を指でなぞるのも、水滴の滴る音を数えるのも、非情な生産性の皆無であった。しかし、心地好い静寂の破壊者たる彼は、僕の気に入らないところなのだけれど。


 僕が返事を寄越してやると、石を指で叩く音は聞こえなくなった。


「おい、顔見せろ。お前がどんな顔してるのか気になるぜ。」


 ガルクは威圧的な声を牢獄の間に響かせる。彼が格子を突き破って僕の方へ来ることは無いと理解していながら、僕は、それに気圧されたらしく格子の前まで体を寄せた。


 闇の中に、ガルクという男の容姿をうっすらと見た。頭になにやら深緑の布を巻いていて、それを目深に被っている。黒の髪の間からは、目尻の垂れた左の黄色の瞳が覗く。艶のある顔に、その瞳が嵌め込まれていた。眉は細く整えられていて、妙に整った顔立ちを助長している。上下の若干並びの悪い歯を合わせてニッと笑う彼の口、煙草が一本、咥えられていて、煙を漂わせている。白っぽい煙は、空気の流れに乗って牢獄の間の奥へと吸い込まれていく。


「へぇ。お前、そんな顔だったのか。声の通り、ガキみてぇじゃねぇか。けど、聞いた通りの盗みをするような顔には見えねぇな・・・」


「・・・」


 僕のコンプレックスたる童顔を指摘された。でも彼に反論することもできなかった。もう21の歳になって、とっくに酒も飲める人間であるのだが、その顔立ちはどこか幼気を残して、過去を刻んでいるようだった。背丈も平均よりずっと小さいので、余計に幼い感じを助ける。


 そうして、ガルクは再び歯を合わせてニッとした笑みを闇の中にぼんやりと浮かべた。


「で、オレの顔を見てアレス、お前は何か思うことはねぇのかよ?」


 煙草の煙をまた吐いて、ガルクは僕の名前を呼んだ。僕は、ギュッと格子を掴んで、紡ぐ言葉を吟味していた。この牢獄の間は、音が恐ろしく反響する。


「ガルク、優しそうな目だった。」


 僕は当たり障りのない返答で彼の初見の印象を評価したのだ。


「そうだろ?そう思うだろ?この目だけで、何人も女を抱いてきたからな。」


 僕は、ガルクの返答に極小の溜息を漏らした。彼には聞こえないように。


 女は、僕の好む対象の人間ではあったが、例のいつまでも幼げな容姿が災いした。女に限らずとも、かつての学友たちは、背丈の低いことと童顔という、僕の醜い部分を徹底して蔑視した。僕は、そんな彼らとは距離を取ったので、女との出会いとは遠い縁だった。


 僕には無い経験を自慢げに話すので、彼のことをどこか嫌悪しているのかもしれなかった。


「なぁ、アレスは童貞だろ?オレが見る限りでは、そんな顔してるぜ。女を知らない、初心な顔だな。」


 彼は、要するに僕の性交渉の経験の有無を聞き出したいのだ。言うまでもなく、僕にそのような経験は無かったし、むしろそんな経験を若干嫌悪していた。どこか俗世っぽいし、明日の日を生きるうえではそのような経験は必須ではないからだ。必要だと思ったのは知と、食べる為のお金。だから、僕はあの時、女から衣服だけを奪ったのであった。吸い込まれるような白い肌には官能的な美を感じたのだが、それに手を触れようとは考えなかった。


「・・・」


 僕は、言葉が喉元で詰まって、結局沈黙を成すのであった。こういうことを言われたら、果たしてなんと返答するのが良いのだろうか。


「女の体はいいぞ。檻から出られる日が来たら、お前にも女のいい所を教え込んでやる。」


 女の体が美しいと思ったことはある。孤児院には年上の女が何人かいたが、寝食を共にしていたので、その裸体を臨むことがしばしあった。明かりの乏しい部屋に浮かび上がる白い曲線の美が、僕の目を盗んだ。そういった記憶は、未だ鮮烈に残っている。


 ただ僕にとって、ガルクの言うような官能的な感覚と、僕が美しいと感嘆した美とは、異なるものだった。僕が女の体に芸術的な美を感じているとすれば、ガルクは性対象としての官能美を感じているのだと思う。


「別に特段、興味は無いよ。」


 だから、自らの経験して感じた美と、ガルクの言うところに仕切りを設けるように、僕はきっぱりと言った。それとこれとでは、性質が異なるのだと。


「あぁ、そうかよ。折角、いい女でも紹介してやろうと思ったのに。勿体ないやつだな・・・」


 ガルクは、彼を拘束する格子の前でドンと腰を落とした。僕への落胆は、ここまで鈍重なるものなのか。僕が、女に対する情欲に欠けたことが、それ程まで落胆を生むものなのか。


「僕は、【勇者】しか信じられない。見ず知らずの女の人は、信じられないよ。」


 母は、僕を疎ましく思っていたし、学友たちは僕の醜さの象徴たる低い背丈を嘲笑した。誰も彼も僕を避けるのだったが、僕を満たす絶対的な存在は、教科書や新聞の紙越しに発見していたのだ。


 【勇者】は、僕がどれだけ醜かろうとも美しく逞しい姿を見せてくれたし、魔王軍に対する戦功は、僕だけでなく世界の人々の想像を超えた。


「勇者は、凄いんだ。どんな時もみんなのことを助けに行くし、魔王軍に怯むこともなく戦って、正義を守っていたんだ。そういう意味で、僕を、僕の期待をいつも裏切らないでいてくれた人なんだ、【勇者】って。」


 裏切ることのない絶対的な【勇者】という存在に対して、僕は尊敬の念を抱いていた。どんな時も正義の味方であって、いかなる状況でも勝利をおさめ続けた。そういう絶対性や正義の象徴として、僕は【勇者】という自己概念に縋り付いて生きてきた。それに対して、どんなに優れた知をもった学友や先生も、街中ですれ違う人々も、美しい曲線を有する女も、【勇者】の輝かしさの絶対性に及ばないところがあった。


___学友たちは、僕をいじめるし、街を行き交う人々は顔も知れないし、僕を裏切ってくるかもしれない。僕の銅貨を盗もうとしたあの女の盗人のように・・・


「勇者?この前、魔王に敗北したってやつか?」


 ガルクの言葉に、落胆した。やはり、【勇者】は魔王に敗北したのか。そういった事実が、ガルクという一市民にさえ周知されている現実を突きつけられて、鬱屈とした気分は、僕と引きずってさらに闇に沈んでいく。


 事実、帝国のいかなる新聞もこぞって、【勇者】が魔王に敗北して、行方をくらませたことを報じていた。僕は、島が魔王軍の手に落ちた後、帝国本土の学校と孤児院を行き来する生活を送っていて、よく本や新聞を読んでいた。それを通して、魔王が言ったように、【勇者】が敗北したのだという真実を嫌というほど認識させられていたのだ。


「【勇者】は剣に長けていて、誰よりも強かった。でも、そっか・・・勇者は、もう魔王に負けたんだ・・・」


 僕は、口先でそう説明するのだったが、実際の勇者は魔王に敗北した。僕は、魔王に勝利する【勇者】を期待していたのに・・・僕の中で、絶対性への信奉が揺らいだのだ。


「・・・魔王に負けたってのは、ある意味でお前を裏切ったんじゃねぇのか?」


「・・・」


「勇者だって人間だ。負けることも、あるんだろうな。」


 お伽話に似た盲信であったと、かつての忌まわしい存在は過去の記憶にて語らうのだった。「勇者は敗北した」と、あの暴虐なる魔王は言っていた。絶対に勝つ。絶対に裏切らない。それは既に、僕の中では妄信であったと反省されてしまう。


 嫌いな母も、あの村娘も死んでしまった。永劫続くように感じられた島の日常は、魔王の侵略によってことごとく破壊された。かつてから敗北を知らかった勇者は、魔王に敗北して世界から姿をくらませてしまった。僕は常に正しくあろうと思っていたが、実際は、檻の中に囚われている。


 絶対に変わらない、価値が担保されたのだと信じた形の数々が、既に崩壊してしまった。


「・・・僕は、勇者を信じて生きてきた。じゃあ、勇者のいない今の世界で、僕はどうやって生きればいい・・・?」


 【勇者】に深く縋り付いていたが故に、僕は心身を不安定にしていた。小指で突けば、すぐに倒れてしまいそうな僕が、未だこの【勇者が敗北した世界】で生きながらえている。しかし、支えを失って生きられる程に僕は芯が頑強ではない。


 だからこそ、勇者でない、他の何かに縋りたいと切望しているのだ。


「あー。だから気を落としてたんだな。生きるうえでの軸を失ったって感じか?」


「そう。」


「無学なオレには難しい問題だな。なんせ、オレは学校に行ったことがねぇから。生き方なんか、適当にその場その場で考えてきたな。」


 ガルクの話を聞く限り、彼は僕とは別の極に生きているように思われた。まだ出会ってまもないというのに下品で俗世っぽい話題を引き出すし、憧れとか、期待するものに差異が感じられた。


 彼は、刹那主義者ということか。眼前の利益にさえ縋れれば、心を落ち着かせられるのは、ある意味でちょっと、羨ましい・・・


「ガルクは、何を信じてこの世界を生きるの?」


 僕は、【勇者】を信じて、人生の支柱としてきた。しかし、魔王に敗北した事実によって、それは打ち倒されてしまった。未来永劫続くと錯覚していたらしい島でののどかな日常は、魔王軍の侵攻によってあっけなく崩壊した。


 信じて縋れるもの・・・あとは神とかが思い浮かんだが、あいにく母が熱心が「過ぎる」教会信者だったので、僕は神の福音に少々懐疑的であった。


「そうだな・・・女だな。明日にはもっといい女に出会えることを信じて、今日を生き抜くんだよ。単純だろ。そうやってたら、不安とかどうでもよくなってくる。目の前のデカい胸を求め続けて、オレは生きながらえてきたんだ。死んだら、女の胸揉めないだろ?」


「うん・・・」


 考え方と言葉選びが、いかにも彼らしい。僕も、眼前にぶら下げられた餌を追い続ける犬のような単純で、動物的な生き方を肯定できれば、少しばかり世界の景色は変わるのだろうか。


「だろ?憧れとか、人生の軸とか、面倒くせぇことを忘れてみろ。目の前の果実にかじりつく生き方ってのを、試してみるのはどうだ?」


 彼の大雑把な人生哲学に、僕は妙に納得の感を抱いていた。


 ガルクが言うところは、刹那的な生き方だ。僕の生き方とは、まさに対極の哲学だろう。実際、ガルクは未来に光を見ることも、憂うこともせず、眼前の女の胸に飛び込んで生きてきた感じだ、と話す。


「でも僕は・・・過去の自分自身が、勇者の輝かしさが・・・どうしても忘れられない。」


「あーもう、面倒臭ぇなぁ・・・牢からでたら、オレに付いて来いよ、ごちゃごちゃ言わぇねでよ。この世界の良いところを、お前にも見せてやるから。」


 果たして、この牢の外の世界には、光を見ることができるのだろうか。僕の内なる世界を照らす一閃の光たる【勇者】は、敗北してしまった。祖国サマリアル帝国は、今も魔王軍との血みどろの戦争を戦うだろう。僕自身は、生活のあてもなく、稼ぎのあてもなく、あるのは醜さとか、それから来る劣等感だけであった。


「・・・わかった。」


 僕は、ガルクに渋々と返答をした。


「それでいいんだよ。美味い飯食って、良い女抱いて、整った寝床で眠れば、全部忘れられるってもんよ。」


 ここまで堕ちてしまえば、あとは這い上がるのみか。


「・・・ガルクは、なんでここに居るの?」


「あ?そりゃ、悪いことしたからな。」


「何をしたの?」


「女を、殴った・・・」


 ここでのガルクへの公言ははばかられるが、僕は暴力を短絡的で刹那主義の最大たる堕落と考えている。力に訴えることは、結局悲劇と憎しみを再生産し続けるだけだと、歴史の講義を通して思ったのだ。だから、僕は力に訴えるような人間を忌避してきた。


 僕はそのとき、格子から距離をとって、少しガルクと距離を持ちたいと思った。やっぱり相いれない人間なのかもしれない、と思って。


「今付き合ってる【フレア】って女が居るんだが、そいつとつるんで歩いてる所を前の彼女に見つかってな。オレに向かってきて色々言ってくるから、黙らせる為にちょっと軽く殴ったら、帝国の憲兵の所にチクられた。それで、こんなクソみたいな場所にぶち込まれた。」


 僕は、窃盗という社会悪に手を染めたとはいえ、動機は食事にありつく為だった。こんな、下劣なる言動の男と同じような檻に閉じ込められている事実に、勝手ながら腹が立った。僕の、生きるための犯行と彼の短絡的な動機による犯行が、同じ天秤に掛けられたように感じて、心底納得のいかないものだ。


 まあ冷静に考えて、僕の思想は、全ての悪に正当性を持たせかねない危険だったと反省するのだけれど。自らが危機に瀕していれば、どのような行為も許されるだろうか?答は否、だろう。あの盗人の女には、悪いことをしてしまったと、今は良心の呵責に苛まれている・・・


「あいつがチクらなければ、今頃オレはフレアともっとイチャイチャできてたかも知れねぇのに・・・」


 しかし、ガルクの他人への責任転嫁、実に甚だしく目に余る。僕も十二分に醜い顔をしているが、彼のニッと笑う顔は、更に醜く僕の瞳には映った。彼が元の彼女を殴ったならば、やはり先に殴った彼の方が悪いような気がする。


「まぁ、とりあえず、早くこんな所出ようぜ。早く見逃してもらえるように、お互い頑張ろうぜ。」


「・・・わかった。」


 僕は、それから石の床の上に全身を預けた。額を、再び天井から垂れる水が打つので、格子からより距離を取って、僕は瞳を閉ざした。聞こえてくるのは、滴ったり、流れたりする水音と、ガルクの鼻を鳴らす寝息だけだった。

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