1章 赤いバラの下に
1話 西方に見た修羅
はるか太古、人類という種は二つに分かれた。人間と、魔族という二つに。彼らは互いの文化観や宗教観を巡って対立し、血みどろの戦争の歴史を綴った。遂に人間は勝利し、地上世界の覇権を握る。魔族は多くが、地獄へと通づる【アビス】へと追放された。
しかしながら、魔族の血は人間と絡み合って、複雑に多様な種族を地上に生み出すに至った。今の地上世界では、人間に似た見た目をした、魔族の血を引く者でありふれていると言える。
魔族に近しい血統を持つか、人間に近しい血統を持つか。それの分かりやすい指標は、血の色だ。赤い色が濃いほど、人間に近しく、青い色が濃いほど、魔族に近しい血統を持つ者ということになる。ちなみに、僕の母と父はどちらも純粋な人間なので、僕の血の色はもちろん、赤色をしている。
****
そんな世界に生きる僕は、名を【アレス】という。
僕は、魔王軍に占拠された島の奪還に向かった帝国陸軍の兵士によって、瀕死の状態で救出された。帝国の本土の病院に身を移され、奇跡的にも重度の火傷から生還した。
結局、僕の故郷の島の奪還は果たされなかった。後に知ったのだが、母は魔王軍の砲撃によって爆死し、体全てがバラバラの状態で発見されたらしい。父は陸軍兵士として、島の奪還作戦に従事したが、魔族によって殺害されたらしい。
行き場を失った僕は、孤児院に引き取られた。そこで、成人するまでの多くの時間を過ごすこととなった。しかし、僕が身を寄せていたそこは、後に潰れた。
「お腹空いたな・・・」
帝都の街を練り歩いて、最初に感じたのは、満たされない空腹感だった。孤児院を離れて最初の内は、僅かな有り金でパンを買ってしのいだ。それから二、三日で金は底を突いた。夜は、心優しいパン屋の店主から一切れのパンを恵んでもらって事なきを得たが、その後は各地のごみ箱を漁る限りで、まともな食事にありつけなかった。水は、民家の屋根から滴る雨水を確保して飲んでいたのだが。
食い繋ぐための金が必要なことを悟って、手短な商店に顔を出して、「雇ってくれないか」と頼み込んだが、魔王軍との戦争の下、雇用側にもそのような余力はないと一蹴された。
家は、故郷は失われて、拾われ過ごした孤児院を去ることになって、僕は居場所と生きるための金を持ち合わせていない状態に陥った。先ほど、再びパン屋の店主にパンを恵んでくれと懇願しに行ったが、「欲しければ金を払え。」と、至極当然の文言で追い返されてしまった。
数日食い物を口にしていない空腹に苛まれて、いよいよ悪い腹痛を抱えていた。帝都を一瞥して、僕は盗みを働こうと思考し始めた。これは生命を保つうえでの必要悪なのだと、自らに暗示を掛けるしか他になかった。
「皇帝を引きずりおろせ!!」
「戦争反対!!」
「魔族を帝国から追い出せ!!」
「仕事を求む」(そのように書かれた木板を首から下げて歩いている)
僕が歩く背後、帝都の中心の広場にて、人々の声が騒々しい。
行き交う人々は様々で、人間とは見た目が少々異なるエルフや、猫耳の特徴的な猫族(びょうぞく)、全身鱗で覆われた人と竜を合わせたトカゲのような見た目のリザードマンなど、様々な種族が見られた。もちろん、人間が多数派だが。その中には秀麗で、装飾に富んだ衣服や飾りを身にまとっている者もちらほら見られる。あれを盗んで売ることが叶えば、数日は食べるに困らない金が手に入りそうな予感がした。・・・煌びやかな衣服の輝きが、パンの表面の光沢に錯覚して見えた。
試しに、金色の腕輪や指輪をはめた貴婦人らしき人の背後を歩いた。彼女は、連れの男とともに、大通りの人混みを掻き分けていく。僕に対しては無反応で、気づいていないようだった。
しかし、僕は女が手に掛けている革の鞄に手を伸ばせなかった。内なる感情が僕の行動を阻害したらしく、諦めて薄暗がりの路地裏に向かってトボトボと歩いた。どっと疲れが圧し掛かって、体を石造りの民家の壁にもたれる。慣れない人混みで疲弊したのか、否、僕はある一種の正義感に苛まれたが為に、盗みをできずに、疲れを催したのだ。
(他人のものは・・・盗んじゃいけないよな・・・)
僕が踏みとどまったのは、失うことの痛みを思い出したから。故郷を失う痛みを、住むあてを失う痛みを、しみじみと思い出したからだった。それで、村娘の頭部の髪をワシ掴みにする魔王の姿も芋づる式に想起されて、僕は激しく沸騰する不快感を喉の奥から吐き出した。
「おぇ・・・」
喉の奥が酸っぱい感じがして、眼下の地面を見れば、その不快感の根源たる黄色っぽい胃液を散乱させていた。膝を地に突いて、口元を袖で拭う。ふらふらとしながら立ち上がって空を仰ぎ見れば、変わらず夜空に輝く星々は、あまりにまばゆく感じられて鮮明である。
僕の身に着けているは、薄汚れた下着や外套。もともと輝きを放つものではないが、僕はその時無心で、夜空の星の煌びやかなことと、自分のみじめったらしい風貌の対比の俯瞰に意識を奪われていた。
「はぁ・・・」
溜息をひとつついて、自らの黄色っぽい吐しゃ物を足で路地裏の隅の溝に落とし込んだ。袖の端で口元を拭って、周囲に人が居なかったことを確認した。こんな醜態と弱みを、他人に見られることを恥だと思ったので。その恥を背負って生きることは、とんでもないことで、想像できなかったので。
なんの考えもなしに、僕は路地裏を突き進む。袋に入れた銅貨が微かにジャラジャラと鳴る。
あたりの建物には、温かい色の光りがポツポツとあって、夕食を囲う声が微かに聞こえてくる。進めば進むほど、道が左右から狭まっていって、薄暗さの程度を増している。僕は、闇に紛れるように石の地面の固い上を歩く。顔を綿でなぞるような冷涼な風は、秋の清々しい香りを鼻腔に運んでくる。
無言で静寂を守り歩いていると、背後から何者かが歩く音が聞こえてきた。僕は、それをどこか不気味に思ったので、背後を見据えてから路地の壁に寄り掛かった。建物の石材の冷たさが背から伝わる。
「・・・」
「・・・」
若い女が、路地を無言で歩いてきた。容姿の感じが、僕よりも少し年上だろうか。月明りが、その美麗な顔や首元の白を流れる。しかし、それが勿体ないと感じるまでに、服装は貧相で、布の感じが粗雑であった。
僕は、彼女に無干渉を貫いて、下を向いていた。つま先の破れた自分の靴を見ていた。彼女は、僕から少しの間を取ったところで足をとめた。何か厄介ごとだろうか。僕は、そんな予感がしたので狸寝入りを決め込んだ。
「っ___」
女は、僕の腰にぶら下がっていた、なけなしのお金が入った袋に素早く飛び掛かり、それを奪取したのだった。視界にそれを捉えて、僕は女の手首を掴んでとっ捕まえようとしたが、存外に女の動きは素早かった。月明りの届かない、路地のさらに奥へと駆けていった。
「とまれ!!返して!!」
僕は、その盗人に向けて叫んだ。しかし、距離は遠くなる。
袋の中には、およそ300ガリア分の銅貨が入っている。本当に危機的な状況がやってきた時のためとして取っておいた節があるのだが、それを奪われては、本当に一銭なしということになる。
僕は、重い足を存分に振るって、盗人を追いかけた。
「待って!返して!」
カラッと乾燥して、冷涼な空気が僕の喉に押し寄せて、喉の内側の肉が張り付いた。息も切れ切れで、僕は無心に盗人の背中目掛けて脚を動かすのであった。
すると、しばらくして盗人の女の背中が、闇の中からぼんやりと浮かび上がって見えた。その場で立ち尽くして、逃走の脚を止めている。
なにがあったのかと思いながら距離を詰めれば、どうやらこの先は行き止まりだったらしい。建物の裏側の高いところが、盗人をこれ以上逃がしまいと立ち塞がっている。
「きゃっ・・・」
「もう逃げられないから、大人しく袋を返せ。」
僕は、盗人の手首を強く掴んで離さない。盗人は、じたばたと暴れるので、僕は思い切って彼女を蹴り倒した。盗人の女は、石の壁に頭を強く打って苦悶の音を発した。ナイフや小刀などの凶器を持っていることも想定されたので、僕は盗人の上に馬乗りになって、両の手首を石の地面に押さえ付けた。
「なんで、こんなことをしたんだ?」
僕の金が盗まれたこととは、また別のベクトルの激情が僕の奥底で燻っていた。僕は、思っても盗みを働かなかったのに、この女は躊躇いもなく盗みに走ったことに、一種の不満や怒りを抱いた。
盗人の女は、弱々しい声で、僕に話し始めた。
「これで美味しいものが食べられると思ったの・・・」
なるほど。盗みへの動機は、どうやら僕と同じらしい。彼女も、飢えて苦悶するうちの一人であったか。存外に答えが平々凡々で、残念だった。もっと悪逆の動機を語らうことであったならば、僕は躊躇いなくこの女を殴るに至ったかもしれない。
彼女の顔には、建物の影の黒が落ちている。その顔は、まさに端麗そのものであった。しかし、僕はどこか被害者面をする彼女に納得できなかった。紛れもない泥棒であるのに、どうして悲劇に見舞われた哀れな人間の顔をするのか。
「私、この前の魔女の空襲で家と家族を失って、どうしようもなかったの。苦しかったの・・・」
僕は、続く彼女の説得・・・否、言い訳を聞いて、手首を掴む力を図らずとも強めた。彼女の脈拍が、早い鼓動を奏でる感触が伝わってきた。
「苦しければ、何をしてもいい。そういうことだよね・・・?」
「・・・だって、悲しい上に苦しいなんて、耐えられないから・・・」
盗人の弁明が終わったらしい。僕は、それから左の手で盗人の女の襟首の辺りを捕えて、どこか高揚する気分を乗せた色の視線で一突きにした。
「じゃあ、僕もお前のこれを頂く。僕も、稼ぎとか住むところとかが無くて苦しい身なので。」
図らずも、僕の口角は釣り上がって、不適な笑みを作った。___初めて、人に力で勝利した。成人の男にしては背丈が低く、非力な僕にとって、それは初めての感覚だった。
僕は、再び四肢を振り回す盗人から、粗雑な縫い目の衣服を、全て剝ぎ取って奪った。それで、大通りの方へと僕は風を切るように駆け出した。ふと背後の盗人を見れば、官能をそそる白く端麗な肌の全てを露に、その場に転げていた。
「返して!お願い!」
盗人の哀れな悲痛が叫ばれる。
「おい、そこの君、待ちたまえ!」
路地裏の騒ぎを聞きつけて、住民たちがチラホラと顔を覗かせるが、僕はお構いなしに大通りのさらに向こう側へと駆け抜けた。追手はなく、僕の成人の男にしては小さい体が、夜でも賑わいある街の人混みの中に紛れていった。
僕は、腕に抱えた布切れを売却した金で、次の日の明け方には温かい、焼きたてのパンにありつけたのだった。
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