レッド・ローズ・ライン/RED ROSE LINE 

猫舌 夏輝

序章 WIEDERHOLUNG

0話 ラ・カンパネラ



 僕の人生における最大の不幸は、この世に生まれてきたことだと思う。



 僕はひたすらに草原を走って、隣村に駆けこんだ。村の中に、魔王軍の襲撃を知らせる鐘の音が響き渡る。


「早く逃げて!!」


「魔王軍の襲撃だ!!」


「殺される!!」


 村人たちが、阿鼻叫喚の巷を成した


 外は冷涼な風が吹き抜けていて、土の地面を蹴る度にそれを顔に受ける。白っぽい月が、空の高いところにあった。草の、鼻奥に渋く残るような香りと、血の鉄臭さがそれに混じって僕の鼻腔を殴るのだ。血の臭いは、砲撃によって上半身が爆ぜた人間から発せられていた。赤々とした血肉と桃色の内臓が外界に露出しているのを、僕は一見して身震いをした。僕は、あんな風に死にたくない。


 若干の小雨が頭を濡らして、前髪が水分を含んでちょっとばかり重い。また、ドーンと地面に砲弾が着弾する轟音を聞いて、背後を振り返った。村からは、残酷な赤をした炎が上がっていた。たぶん、魔王軍が撃ち出す砲弾には火炎魔法がこめられていて、それで火が木造の家々に移り広がったのだろう。生木の燻る、あるいは燃えて灰になる焦げくさい臭いがあちらこちらから漂ってくる。


「走って!そこの小さい金髪の子!」


 僕は、その炎の赤に、なぜか見とれてしまって突っ立っていたので、名前の知れぬ親切な村の娘が僕の手を強く引いた。容姿の特徴を叫ばれて、肩が外れかかるほどに強く腕を引かれて、ようやく僕は意識を現実に引き戻したのだった。


 魔王軍の砲撃から背を向けて走りながら、僕は村の炎を思い出していた。なぜ、故郷を焼き払わんと燃え盛る炎を美しく感じたのか。これが分からず、また、自分の美意識を疑った。あれは、人を殺める火だ。あれは、人の営みを壊す破壊者だ。それでもなお、あの炎の赤が眼球の裏に焼き付くようで離れなかった。


 炎に巻かれる住民、木造の家屋、教会・・・実に悪魔的。あの赤は、何の差別も区別もなく、すべてを焼き尽くすのだ。





 ___そして、無慈悲な破壊によって、島に唯一立てられた【勇者】マックスの像も、砲弾の着弾に伴う衝撃と振動で地面に倒れて、亀裂を走らせた。





 しばらく走ると、別の集落が見えてきた。僕の故郷の村とは繋がりのある村で、僕もこの村に古本を売りに出かけたりしたことがあった。遠方から轟く砲撃の音と鐘の音を耳にしていたらしく、その村の住民たちも慌ただしく家財や道具を手押し車に乗せて、あるいは腕に抱えて家を飛び出していく。



 僕が住んでいた村よりも人口の少ない村であったが、畑の大きさは引けを取らない。秋の収穫期だったので、土の中から葉を覗かせるニンジンが手つかずで残っていたり、辺りを黄金色に染める小麦たちが虚しくも冷たい雨風に穂を揺らした。それらは奇妙に踊るようで、右から左に見事に波を見せたのだ。しかし、これも本来の役割を果たすことなく炎で燃えて焦げて、黒くなって忘れ去られるのだろうかと、未来の姿を想像して、虚しい気持ちが湧昇した。しかし、その未来の静寂を思って、心は落ち着いたのだった。


 灰になったものは、これ以上燃えることは無いのだと思って、妙に胸を撫でおろしていた。


「みなさん、西に逃げてください!魔王軍が来ます!」


 村娘は、必死になって声を張り上げている。声帯を傷つけはしないかと心配になるほどに、彼女の声は喧噪たる村の叫喚を両断するのだ。


 僕はその時に未だ、風によって弓のようにたわんだ小麦の数々に目を奪われていた。ふと、村の小さい教会の方に視線を移すと、逃げ出す若い修道女を見かけた。教会の正装を身に纏っているということで、その服の秀麗さは目に余る。小雨に黒い修道服を濡らして、その布が、体の前面にせり出した胸にピタリと張りついている。あるいはその服が、泥をはね上げて黒っぽく汚れる様は、僕を不思議と感動させた。修道女の正装なぞ、泥に汚れることはありえなかった。しかし、魔王軍の侵攻という今の非日常が、それを強制させたのだ。


 その修道女が駆け出した教会の屋根に、砲弾が直撃した。コンクリートや石材が粉塵に帰して、同時、見上げるほどに高く炎の柱が立ち上がった。窓が甲高い声を上げて割れて、教会が内に抱えていた大きな十字が壁に倒れ掛かった。


 僕は、いよいよ命の危険なところを悟ったので、村娘に、さらにこの村から西へ逃げようと誘った。


「一緒に逃げよう!」


「あなたは先に逃げてなさい!私は、この村の人と一緒に逃げるから!」


 僕は至って冷静に、村娘の手を引いたのだが、その手を払い退けられてしまった。そうして、魔法による光が漏れる民家に入っていった。しばらくすると、足の悪い老婆の肩を支えた彼女が戻ってきた。僕は、それを遠目で見ていた。


 そんな老婆、見捨てるべきだ。老婆がよろよろとして村娘に支えられるばかりのその様子は、二人とも逃げ遅れるだろうという明白な蓋然性を語らうのだった。魔王軍の砲撃音は、刻一刻と地響きと轟音の程度を増している。


「早く!」


 僕は、村娘に叫んだ。


「うるさい!さっさと逃げればいいでしょ!私は、誰かを置いてなんか逃げられないの!」


 僕の焦燥とは裏腹に、村娘は僕を突き放すようだった。その時、僕の鼻先を強い風が撫でた。大きな雨粒が壁のように僕と村娘とを刹那隔てて、景色の輪郭をぼんやりと曖昧にした。


「いたぞ、人間だ!」


「ケケケ・・・見つけたぞ・・・」


 風雨の中から現れたのは、魔王軍に属している魔族だった。それも、数十という人間でない存在が、村から脱出せんとする僕たちを取り囲んでいる。ぐるっと辺りを一瞥したのだが、黒い翼をもった者、鋭い牙と耳をもった者、両手に巨大な剣をもった者が見える。あれはヴァンパイア系の種族に、あれは悪魔系の種族に見える。・・・八方塞がりだ。どうやら、逃げ場は無くなってしまったらしい。



 僕は、如何にしてこの難局を乗り越えようか思考を巡らせた。僕自身に、魔族を相手取れる力はない。魔法も剣も、僕は扱ったことがなかった。僕は、背丈も低くて非力な人間だ。それに、彼らに説得を投げ掛けることも無駄であろう。彼らにとっての害虫たる人間・・・つまり僕が如何に鳴こうと、彼らの不快感をにわかに煽るだけだろう。


「おいおい、結構逃げ遅れた人間がいるじゃねぇか。」


 魔族の一人が、舌なめずりをした。彼の双眸には、怯え震える多くの害虫(ニンゲン)が映っていることだろう。


「や・・・やめてくれ。俺たちを、殺さないでくれ・・・」


 村人の一人が、命乞いの文言を震えた声で発した。


 取り囲まれた人間は、僕や村娘を含めて50の数はあった。生まれて間もない赤子を抱いた主婦の姿もあれば、先ほど見かけた修道女も、杖をついた老人だって数人がそこで身を震わせていた。


 さて、状況が好転しなければ、僕たちは殺されるだろう。どのような惨い殺し方をするのか、僕は恐怖心に駆られて、すすり泣いた。視界が、ぼんやりと霞んで、夢なのではないかと錯覚する浮遊感を助長した。死という概念をある程度理解していながら、僕はそのような死に立ち会ったことはなかった。


「おい、早く歩け!」


 魔族たちは、僕たち人間を円形に囲い込んだまま、ある一つの牛舎の前まで行進させた。剣やら槍やら、人間界では類を見ない素材でできた武器を僕たちに突きつけて、歩かせる。足の悪かった老婆は、村娘が肩を支えていたから歩けたものの、杖を突いた別の老人は、ぬかるんだ地面に足を取られて倒れ込んだ。その老人を相手に、魔族の一人が魔法を詠唱した。


「第四階位火炎魔法、ヘル・ブレイズ。」


 泥の黒に染まった顔を上げた老人の足元に、赤く輝く魔法陣がグルグルと回転して出現した。そこを中心に風と熱が渦を巻いた。老人は、地面に転んだ杖を拾いあげようと手を伸ばしたが、その次の光景は、炎の赤で煌々としていた。


「ぐあぁぁぁぁぁ・・・」


 全身を炎に包まれた老人が、断末魔を叫んだ。渋声は次第に炎のごうごうと燃える音に掻き消えてしまった。皮膚が爛れて、眼球が溶け落ちるが、地獄の業火のためにすぐに灰に帰した。皮膚がもはや蒸発して、骨だけが力なく地面に転げて、ようやく魔法の炎柱は収まった。


「きゃあああああ!」


「ガハハハッ!言うことを聞けない愚か者は、コイツのようになるぞ!!」


 村人たちは、炎を巻いた老人の凄絶な最期を目撃して、発狂した。自らの頭の髪を自発的に引き抜いているのは、僕の隣の人間だった。村娘は、目を覆い隠しながら、黄色い吐しゃ物をまき散らしていた。


 僕は、その狂気を前にして、どこか冷静だった。人間の死の瞬間を、はじめてこの目に映したのだが、特段の激情が昇り詰めるということはなかった。バラの花の赤のような炎の色に、むしろ見惚れていたかもしれない。老人は、歳が60か70といったところであっただろう。積み重なった経験と記憶を、ほんの数秒の炎が全て焼き尽くしてしまった。


 そうか。人間の積み重ねたものは、赤子の手をひねるように簡単に崩壊させるに至るのか。そして、老人は黒ずんだ骨に変わって沈黙している。なんと虚しく、無力なことか。これが、滅びなのだということ、僕は知ることができた。


 魔族たちは凄惨の光景・・・いや、彼らにとっては、人間という害虫が焼失した愉快の光景にゲラゲラと笑うのだった。


「ほら、入れ!入らないと、さっきの老人みたいに焼き殺すぞ、ニンゲンども!!」


 僕たちは、魔族に押し込められるがままに、牛舎の中へ入った。数十という人間が入るには狭い牛舎だ。最奥に押し込められた人が、なだれ込む人の大波に呑まれて、苦痛を叫んだ。


 僕と村娘は、偶然にも隣にいた。娘は、何が起こっているかも分からぬようで、顔をしわくちゃにして目尻に涙を溜め込んでいた。


 村の人たちは、脱出のために牛舎の入口に殺到した。魔族たちは、牛舎の入り口の戸を力ずく閉め切って、外側に板材を釘で打ち付けたらしいかった。これで、僕たちは牛舎から出られなくなった。入口の方から、ガンガンとハンマーを振るう音が響いてくる。狭い牛舎の中は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図であった。草と牛の臭いが悪臭であることがたまらない。身動きが一つも取れないし、幾人もの人につま先を踏まれて、肩を押された。


 ある体の小さい少女は、人混みに押し潰されて、悲鳴を上げながら四肢をあらぬ方向に曲げた。ある少年は、魔族のこれから為す所業を悟ってか、失禁を晒した。


「出してくれ!!」


「壁を破れ!!」


「どけ、早くどくんだ!!」


 牛舎の中には、大人の手が届くか否かの高い場所に、小さな窓があった。そこからは、外の曇天と降雨の夜空が覗いている。しかし、その窓には鉄の格子が張り付けられていて、そこから外に脱出することは不可能だ。ある人間が、偶然持ち合わせていた鍬(くわ)で壁を強打している。何度も何度も、木製の壁を叩いた。しかし、その壁は、存外に頑丈にできていて、破ること叶わなかった。また別のある人間は、魔法で壁を破ることを試したらしかった。しかし、こうも人がせめぎ合っていては、魔法の発現のための詠唱もうまくできなかった。


 そうこうしていると、例の小窓から魔族の一人が顔を覗かせた。頭の後ろから黒い角を覗かせる、東洋に伝わる鬼を想起させる風貌であった。


「魔王軍のクソッったれどもめ!!」


「ここから出しやがれ!!」


 窓の周辺の村人たちは、魔族への恨みを晴らさんとばかりに、拾い上げた石を投擲した。僕は、窓から遠かったので、その光景を俯瞰していた。武器を持った魔族と、牛舎の中から石を投げる人々という、悲哀の対比がまた鮮明に哀れに感じていた。


「おいおい、痛てぇじゃねぇか。」


「やっぱり人間という種族は、卑屈で下衆だ。生きる価値無しだな。」


 魔族たちは、投げられた石を額に受けても、平然としていた。カン、カンと、魔族が身に着けている鎧に石が当たる、鈍く乾燥した音が微かに聞こえてきた。


「さて、この建物ごと丸焼きにしてやろうか?」


「そうしよう。面白そうだ。」


 僕は、叫び声の氾濫する牛舎の中で、魔族たちの嫌な会話を聞いた。僕は、少しばかり人より耳がよかったので、この後に起こるであろう悲劇のネタバラシを食らった。


 魔族たちは、窓からは見えなくなってしまった。しかし、彼らの濁った蛮声は聞こえたのだった。その声は、魔力を触媒とする大火を呼ぶ詠唱を語った。


「「中位階位火炎魔法、ヘル・フレイム!」」


 魔族たちの魔法の詠唱が、オルガンの奏でる主題のように重なり合う。魔力の発現により、太陽を思わせる熱を生み出した。それは、牛舎の外側からじわりじわりと程度を強めていって、張り合わせの甘い木材の隙間から炎が噴出した。


 木材でできた牛舎であるから必然、熱が炎を伴なって拡大する。閉じ込められた僕たちは、想像を絶する灼熱に抱かれた。


「ぐああああああ!」


「出して、ここから出して!!」


 叫喚が、いよいよ壁を割るのではないかという具合で反響する。鼓膜の痛みよりも、僕は耐えがたい熱に唸った。壁に密着していた人々の衣服にも炎は侵食して、黒色に焼き焦がすか、熱で体にぽっかりと穴を空けるのだった。


 入り口を、壁を引っ切りなしに腕で強打する人々。しかし、期待に反して開かない、木製の壁は破れない。


「ゴホゴホっ・・・」


 隣の村娘が、牛舎に立ち込める黒色の煙りでむせた。僕は、喉の焼ける感じを払拭するために肺に空気を思い切り吸い込んだ。しかし、熱と煙によって、体の内側からさらに焼けるようだった。


 僕は、熱地獄と化した牛舎の中で人の波に飲まれていた。耐えがたい。堪えがたい。死に瀕するとは、このような苦痛を伴うものなのか。僕は、人間は死ねば魂が天に昇るのだという希望的な考えを堅持していたのだが、これではあんまりだ。魂が昇る前に、魂が焼け焦げて灰になるようだった。


「我が・・・神よ・・・」


 あの時の修道女を視界の端に見た。両の手を合わせて、苦痛からの解放を願っているように見えた。しかし彼女が、誰が願おうと、皮膚を黒く焼き焦がす魔法の熱地獄からの解放は果たされない。神は、残酷にも沈黙を貫いている。


 僕の黒い学生服にも、遂に火が移った。僕はそれを手で払おうとした。小さな火は周囲の空気を取り込んで、遂には僕の全身を包み込もうと大きくなっていた。


「お母さん・・・大好き・・・」


「・・・私も。」


 僕は視界の片隅で、ある親子の愛情の交換が、魔法の炎によって焼き尽くされる瞬間を捉えていた。二人の親子は、炎の赤に巻かれて、全身を黒色に変えて動かなくなってしまった。




 永遠とも思えた熱地獄から、僕はなんとか這い出した。


 牛舎の壁が少しずつボロボロと崩れたので、黒くなって焼け死んだ人間の山をかきわけて、足元の隙間に滑り込んだのだ。僕は元から体が小さかったので、隙間を見つけ出した僕だけが炎に抱かれた牛舎からの脱出が叶った。


「う・・・熱い・・・痛い・・・」


 体に打ち付ける雨の冷たさが、剣先で突かれるかのような刺々しい激痛を伴った。肘から下を酷く火傷したので、特に痛みが強く感じられた。真っ赤に腫れて爛れた腕や胸に、雨の冷たさが突き刺さる。


 僕は、ふらふらとしながら、灼熱の牛舎から離れた。泥にまみれた地面を全身で這って行ったので、舌上には泥の苦みと不快感を転がしたし、もはや服の機能を失った布切れが体から引き剥がされた。


 僕は、どうにか立ち上がって、背後を見た。そこには、未だ燃え続ける牛舎を見た。もはや叫びは数人の声しか残っておらず、皆が魔法による業火に焼かれてしまったようだった。


 村娘を助けようか・・・刹那そう考えたが、それよりも魔族への恐怖心が勝った。僕は、左右に体をフラフラと揺らしながら、残る力の限りに走った。学生服は燃え尽きて、くたびれた布切れみたいになっていて、全裸も同然だった。降りしきる雨は、僕に火傷の痛みか、かじかむ冷たさを押し付ける。


 指先の感覚が、手足ともに失われていく。自分の体が水を満杯入れた樽のように重く感じられて、遂に支えきれなくなって自重で押し潰された。僕はその場に倒れ込んで、地面の泥の水を啜った。至極当然だが、不味い。苦い。それでも、なんらかの水分で喉の乾きを潤したいと思ったのだ。


 遠くから、またカーン、カーンと鐘の音が聞こえてくる。そこに、警鐘を鳴らし続ける人間がいるのだろうか。


 「あら、こんばんわ。」


 その時、僕は頭の上の方からの、幼さと妖艶の同居する声を浴びた。顔を上げることは火傷が酷くて叶わなくとも、なんとか横の方に首をひねった。


 僕の横に居たのは、人間の少女的な外見を持った存在だった。純白の髪を腰にまでたなびかせ、その間から長く尖った耳を覗かせる、深紅で猫のような瞳孔の瞳をもつ少女だ。右の瞳については、眼帯に似た黒い薔薇の飾りで隠されていて見えなかった。大きくない体を、胸元にフリルのついた黒のドレスで着飾り、それと同色の禍々しい翼を背中から伸ばしている。


 僕は、その秀麗たる美貌に見惚れることはなかった。それどころか、長く尖った耳と黒色の翼という特徴から、彼女が魔族であることを知った。


「うぅ・・・」


 全身に悪寒が走った。風をひいたときと似たような、気味の悪い寒気が僕を包み込んでいた。視界に入っているだけで悪寒を引き起こす少女から距離を取ろうと、腕を、脚を、体をよじった。


「ぐが・・・・・」


 火傷の患部のあちらこちらに、泥水が染みわたる。全身に針を刺されたような激痛だったが、喉の下の辺りになにやら詰まっていて、絶叫を上げることができなかった。それは肉の感触だった。あまりにも熱を含んだ空気を吸い込んだせいで、喉が焼けて爛れてしまったのだろうか。このような地獄の熱を味わって、痛みの感覚すら曖昧になっていた。


「アタクシは魔王【ヴィルヘルム】。そんなに怖がらなくてもいいかしら。」


 魔王!?魔王といえば、魔族を主として組織された魔王軍の頂点たる存在。それの姿が、こんなにも醜くて体の弱い僕のような死にかけた人間の前にあるとは何事か。魔王としての職務の怠慢か?彼女が魔王だというのならば、彼女を打ち倒すはずの【勇者】はどこに?


 僕は、喉に引っかかった肉の隙間から、かすれた声で、魔王を名乗る少女に向けて訴えかけた。


「勇者・・・助けて・・・」


 僕は、かつてから信奉を寄せる存在に助けを叫びたかった。悪を剣で断つ【勇者】の存在こそが、苦痛で喘ぐ僕をこの状況から救うことができるのだと思った。


 菓子を掴むような弱い力で、目の前の草を掴んだ。それでも、今の僕にとっては渾身の力であった。腕は鉛のように重々しく、頼ることなど馬鹿馬鹿しい地面に生えた草にすらも、今は縋りつきたいと思った。


 少しでも、あの禍々しい容姿の魔族あらため、【魔王】から距離を取ろうと自助努力に努めた。わずかな時間でも稼いでおいて、【勇者】が駆けつけるその時を待ち焦がれた。





「___勇者は、敗北したわ。彼は・・・【マックス】は、お仲間を失って、アタクシから逃げたわ。」





 僕は、砲弾が背中に直撃したかのような衝撃に襲われた。


 僕は、世界を魔王の魔の手から救わんとしていた勇者マックスに、羨望の眼差しをもっていた節がある。しかし、僕がうつ伏せになっている近くに腰を下ろしている魔王は、僕のそんな淡い希望を、泥で上塗りにしてしまった。


 魔王の言葉を理解するにしばらくの間を要した。勇者が、敗北することなど有り得るのだろうか。しかし、眼前の景色が夢でもなく、絵本の秀麗で耽美な作り物でないことを再度認めてからは、舌上の泥の苦みに苦笑した。


 僕は、勇者なる存在が苦悶する僕を助け出してくれるのだという、いわば妄信に囚われていたのかもしれない。勇者は負けないと、誰が証明、保証していた?勇者に敗北の二文字がないことは、結果論に過ぎなかった。弱き者の下へ駆けつけてくれる勇者は、おとぎ話の中だけの存在だった・・・


「アタクシがここに居るから、分かるでしょう?勇者は、助けになんか来ないわ。」


 魔王ヴィルヘルムは、目を細めて僕を笑っていた。


 かつて一度だけ、母国であるサマリアル帝国の都を母と訪れたことがあった。母は、大聖堂の聖母像を手で示して、僕にその秀麗たる様と威厳とを永遠に語った。しかし、僕のカナリア色の瞳の輝きは、むしろ広場の中央に堂々と立ち尽くす勇者の像に向けられていた。


 空を剣で指し示して、なにか希望に満ち溢れた言葉を唱えているように見えた。強さや人の道の象徴たる勇者・・・一種の憧れや尊敬の念を抱いたのは、この時が最初だった。


「アタクシは、力をもった強い人間が、地上から全て消え去ることを望んでいるかしら。なぜなら、そういう人間はわたくしが追い求める【永劫不滅】の存在を壊しうる存在だからよ。」


 魔王は突如饒舌に、僕の耳元でひたすらに囁いた。


「お前も、いつの日か追い求めたことはないかしら?永劫不滅の存在を。何が起ころうと、絶対に変わらない約束された振る舞いが、美しさが・・・欲しいと思ったことはないかしら?アタクシは、永劫不滅の世界に、愛する人と共に永遠にありたいと願っているのよ。だからこそ、永劫の美しさを脅かす人間は、アタクシにとって許されざる存在かしら。」


 永劫不滅の存在・・・ああ。強いて言えば、決して裏切らない、信じられるものが欲しい。僕は、振り返ってみれば裏切られてばかりだった。母に期待した愛に裏切られて、友情を期待した学友から裏切られて、自らに期待した強さに裏切られて、そして・・・たった今、僕の生きるうえでの支柱だった【勇者】に裏切られた。


「アタクシを見なさい!」


 魔王は、僕のチリチリになった小麦色の髪を掴んで、顔を上げさせた。猫のような瞳孔をした魔王の赤黒い瞳が、僕の眼前にあった。


「ごぇ・・・」


 首の皮が剥がれて、鋭い痛みで嗚咽を漏らした。


 魔王のもう一方の手には、いつの間にか少女の顔があった。それは、僕の手を拒んだあの村の娘だった。顔はすすや灰で黒く汚れているが、村娘の顔であると認識できるぐらいには、原形を保っていたかもしれない。あれ、首から下がない・・・


 村娘の頭頂部の黒髪を鷲掴みにする魔王。村娘の右の側頭部には手のひらほどの大きさの木材が突き刺さっていて赤黒い鮮血を垂れ流しにしている。


 頭部だけとなって言を発さない村娘。その姿を一見して吐き気をもよおすが、既に腹の底を突いていた。嗚咽して、涙を飲んだ。


「うぐ・・・」


「この顔の整った娘、一度味わってみたいと思ったのよ。焼いて殺すなんてもったいないぐらい綺麗な顔・・・だから、頭だけ取って持ってきたかしら。」


 そう言って、魔王は鋭利な八重歯を覗かせた。パンにかじりつくかのように村娘の顔に噛みついて、その八重歯で眼球を串刺しにした。


 村娘の顔面にあった右の赤の眼球は、魔王の八重歯に引かれて、白い神経や紅の色の血管を引き連れて、脱落した。黒瞳がはめ込まれていた場所は、黒いくぼみを作っていた。にわかに鮮血が噴出して、魔王の少女的な美貌を赤に染め上げた。


 動物的な捕食者の一端を見せた魔王の顔と、村娘の傷ついた顔など、見たくはなかった。しかし弱まる雨、雲の合間から覗いた月光が、魔王と村娘の顔を流れるので、より鮮明にそれを僕に見せつけた。


 魔王は、不敵に口角を釣り上げて、目を細めた。


「あなたも、この美味を味わってみたいでしょう?」


 魔王の、病的に白く透き通った肌の美貌が、僕の息がかかる距離に迫った。口元からは、血生臭い悪臭が零れ出る。村娘の眼球を咀嚼する、ブツリ、ブツリという妙な音がかすかに聞こえた。


「いや・・・だ。」


 かすれた僕の声を、魔王はまるで聞いていなかった。


 僕の唇に、魔王の、血の紅で染まった唇が重なった。舌を絡め合って、唾液を交換する。村娘の眼球らしき破片が舌上に転がった時、僕は頭の血管がぶつりと切れたような感じで、急速に意識を霧の中に追いやった。


「ん、えへへ・・・」


 魔王は、僕と冒涜的な接吻をしながら、人間の少女のように笑った。


 血液の鉄っぽい味と、魔王の唾液の臭みと、人間の眼球という不快感の塊の味を、一挙に味わって、僕は空の腹を絞り出すように嘔吐した。黄色や赤の色をした、もはや何かもわからぬものが、草の地面に広がった。


 気持ちが悪い。不快が極まる。


 そんな感想を音にできずに激しく吐いて、意識を遂に闇に葬る。


___勇者は敗北したのだ。絶対に敗北しないと、僕も含めて多くの人が信じたであろう【勇者】は、魔王を打ち倒すことができなかった。だから、こんな僕の目の前にいるのではないか。


「ウフフフフ・・・・・」


 魔王は、最後に僕に向けて微笑み、赤い瞳を見開いて恍惚の色を見せた。地面に仰向けで倒れた僕の腹の上に跨って、僕の腕に八重歯を突き立てて笑う魔王の姿が、最後の景色となった。


 これからは、魔王と魔族たちの、地上の浄化の時代がやってくるだろう。そうに違いない。生き残った人々も、この頭部だけの村娘や、村の人々と同じように、惨い殺され方の末に地上からいなくなるんだ。雄大な草花の自然の風景は焼かれて、帝国の輝かしい歴史は幕を閉じるだろう。僕は、ここから続く世界を酷く憂いた。待っているのは、光の未来でなく、闇に収束する終末だろう。





 鐘の音が、意識の途切れ際に聞こえてくる。それは、僕の内側でいつまでも残響を奏でた。



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