80 小さな手紙(2)

 結局、リビングからの大声は、盛大に殴られたあの日、そのまま友人の家に泊まりに行った事で腹を立てているという事のようだった。


 礼央が誰か居る時にリビングに入る事はない。

 そのまま通り過ぎようとすると、父がリビングからスーツ姿のまま廊下へ出てきた。


 仕方なく、

「ただいま」

 と言ってペコリと頭を下げた。

 特に返事はない。

 何も問題はない。


 成績表を一度でも見た事のない人達には、何も言われない方が楽でいい。




 本当の父は、子供の頃に亡くなった。


 身体の弱い人だった。

 優しかったけれどそれだけで、何か力があるわけじゃなかった。


 友人だと思っていた人間に騙され、借金を背負った。

 当時、パン屋を作るだのどうだのと言っていたと思うけれど、結局パン屋が完成する事はなく、父に何かの権利が渡される事もなく、ただ貧乏になった。

 病気で亡くなった後、母は、その借金を相続した。


 だから、母は全く逆の人間と再婚したのだ。


 身体が丈夫で金もあり、そして人間味のない人。


 前夫の忘形見の事など忘れて、新しい生活を謳歌している。

 ここに存在してはならない、僕という存在。


 静かに階段を上がる。


 2階の片隅に、礼央の部屋はある。

 家の大きさからいえば、あまり大きな部屋とは言えないが、ベッド、デスクといった生活必需品を並べても、余裕があるくらいには広い部屋だ。


 そしていつも通り、デスクには今日の夕食が置いてあった。

 誰かのものとは思えない、簡素な茶碗、簡素なお椀、白い皿。何の柄もない簡素な箸。


「……ふぅ」


 ひとつ息をする。

 窓際に置いておいた、ペットボトルの水に口をつける。


 喉が渇いたなんていう理由で、キッチンに入る事はできない。

 必ず、水と栄養食品くらいは準備しておいた。


 風呂は必ず、みんなが寝静まった後、他人の家を借りるように済ませた。


 洗濯は、時間もなく音もうるさいので、一時は部屋に溜めておいて時々コインランドリーへ出掛けた。

 いつの頃からか、部屋に置いておいた洗濯物は、洗われて戻ってくるようになった。

 僕は、高坂家の人間が、コインランドリーに通う事も許されないのだと、気付いた。

 そして、それに気付かなかった自分に嫌気が差した。


 時間があれば外に出る。

 幸い、お小遣いに困る事はなかった。

 月に一度、デスクの上に茶封筒が置かれる。


 それがなくなったらと思うと、大手を振って使える物でもないが、ゲームセンターへ出入りするくらいのお金には困らなかった。


 今日はまだみんなが寝静まるような時間ではないから、ここで静かに夕食を食べるしかない。


 何の感慨もなく、食事を始める。


 果たして、母さんの料理は昔からこうだっただろうか。

 思い出す事もできず、すっかり母とも距離が出来てしまった事に気付く。


 茶碗に手をかけた時。


「あれ?」


 茶碗を持った手に、何かカサカサしたものが当たるのに気付いた。

 何かゴミが……。


 結果的に言うと、それはゴミではなかった。


 付箋……。


 それは、小さな付箋紙だった。

 何か書かれている。


『今日の夕食は、コロッケ、サラダ、かぼちゃの煮物、お味噌汁、ご飯です』


「………………?」


 どういうつもりなのだろう。


 あまり嬉しくはない。

 ただ、意図が見えず、気味が悪い。


 あまり、母の事を考えられる余裕はない。

 正直、血が繋がっているはずなのに、僕を見捨てて自分だけ新しい生活に浸かり込んでしまった母の事は、あまり考えたくはない。




 けれどそれでも、それからもその小さな手紙は続く。


 数ヶ月後、返事を書く事になる。

 それから直ぐに会話が成り立つようになる。

 礼央は、謝罪や提案を、その小さな手紙で読む事になる。


 それは、そんな手紙の始まりだった。



◇◇◇◇



ここでれおくん編は終わりです。

突然良くはならないけど、そのキッカケにはなるという事で。

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