79 小さな手紙(1)

 ガチャ。

 パタン。

 ガチャリ。


 玄関の扉を開けて、静かに閉める。

 ただいまは言わない。

 聞いてくれる人はいない。


 いつだってそうだ。礼央の言葉を聞いてくれる人間は、この家の中には存在しない。


 リビングの扉の前を通るところで、中から怒鳴り声が聞こえた。

 父の声だ。


 礼央に関する小言を、父はいつだって母に伝えた。その際、言葉を荒げる事もあった。

「高坂家の恥になるような事をさせるんじゃない」

 こんなのは日常茶飯事だ。


 顔を合わせても、機嫌の悪い時に「勉強はちゃんとしてるのか」なんていう意味の事を、一方的に言ってくるだけなのに。母さんには、言いたい放題だった。


 母さんはもう言葉を交わす間柄じゃないけど、自分の事で色々と言われているのはいい気分ではない。





 だから、あの日はチャンスだと思った。


 あの日、父親が弟の面倒を見るように言った。

 夜、父親と母親が、二人で出掛ける直前の事だった。


「明日の夜まで広樹の面倒を見るように」

「え……、どこに……」


 尋ねた質問に返事はなかった。返事などないまま、車の音は遠ざかって行った。

 翌日は平日だった。

 学校を休まなくてはいけなかった。


 けど、突然任されたこの子守りは、もしかしたらチャンスなんじゃないかと思った。

 家族として、認めてもらえたんじゃないかと。

 もしかしたらあの人達と、家族のように振る舞えるんじゃないかと。


 まず、弟の部屋へ入った。

 入ったことのない部屋へ入るのは、なんだか悪い事をしている気分だ。

 両親が出掛けたのを知ってか知らずか、弟はすっかり熟睡しているようだ。


「…………」

 こんなにじっくり顔を見たのは、初めてかもしれないな。


 とりあえず状況を確かめに、キッチンへ行き冷蔵庫を開ける。


 食材は豊富だ。

 けど、料理が入っているわけではいようだ。

 レシピらしきものも見当たらない。


「え……」


 少し混乱しつつも、その日は弟の部屋に居た。

 2歳の子供を、目を離すのは怖かった。

 子供用のベッドのそばに、腰を下ろす。

 スマホで、必死で2歳児向けの食事を検索する。

 いつも、食事は別々だから、何を食べているのかはわからない。


 全てが手探りで、どうにかするしかなかった。


 朝ごはんは……、おにぎりとかでいいのかな。あと、バナナか……。

 あ、この人参のレシピなら作れるかも。

 うどんとか、苺なんかもあったし……なんとかなりそうだな。


 そんな事を考えているうちに、いつの間にかウトウトしてしまったらしく、朝日で目を覚ました。


 ……よかった、まだ寝てる。


 生きているのを確認する為、息をしている事を確かめる。


 弟が、自然と目を覚ますのを待った。


「………………?」


 起きた時に、母ではない人間が覗いていて、弟も混乱したようだ。


 やっぱり、今日いないの教えてないのかな。まだ2歳だから、忘れてしまったのかも。


 けれど、意外な事に、弟は泣く事はなかった。

「おー?」


 その日は、大変だった。

「えび、うぃる」

 や、

「おー、っちょ?」

 と、何か喋っているのだけれど、意味が掴めない。


「えぇ……っ」


 それでも、なんとか相手をしつつ、一緒に泣いたり喚いたり笑ったりしながら1日を過ごした。

 事前に調べたレシピで、なんとかご飯も食べさせた。


 上手くいっていると思った。

 あの二人が帰ってくるまでは。



◇◇◇◇◇



ここまでで収まらなかったです。礼央くん編、もう1話……。

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