第2話
青陽館は基本的に古めかしい日本家屋の割には、比較的に空調がよく効いていて、夏でも快適だ。なんでもパソコンで熱暴走に悩まされていた時代に、昔のままの空調が効きにくい環境じゃレポートや論文を書くのに不備だと、空調整備に力を入れたらしい。歴代の管理人はこうやって寮生の学生生活のサポートをしていたんだな。
それはさておいて、念のためバイト帰りの琴吹さんを玄関で捕まえて話を聞いてみたら、思いのほか幽霊の目撃情報が出てきて、こちらも驚いた。
「不思議なことに、今年の夏に入ってからやけに耳にするんですよね。春先は全然聞かなかったんですけど、熱帯夜が続くようになってから、変な音を聞いたとか、なんか光るものが見えたっていう話が」
「えー……ちなみに琴吹さんは?」
「なんでしょうねえ、自分はちっとも見たことないんですけど。でも七原さんだけじゃなくって、寮の子たちが皆見たことがあるってことは、なんかいるんでしょうねえ」
「……ちなみに、青陽館で、そんなオカルトな話はあったりする?」
聞いてみると、琴吹さんは「んー……」と首を捻ってみた。
「その手の話は自分が入寮してからもちっとも聞きませんよ。自分よりも詳しい子は、まあいますけど」
「え……もしかして紹介してくれる……?」
でも基本的に寮にいる子たちとはほぼ全員顔を合わせているから、もし寮の古い話に詳しい子がいたら、もう当たりを付けているよなと、今更ながら気が付いた。
ただ、俺たちが管理人として働きはじめてからも、一向に姿を現さない子がいるというのはたしかだ。いるらしいというのがわかっているのは、琴吹さんが普通に食事を運んでいるし、こちらが預かっている入寮生の帳簿にも、その子の名前があるからだ。
まさかとは思うけど、その子の存在そのものがオカルトってことはないだろうなあ……とは一瞬考えたが、琴吹さんの普段の言動から察するに、それはないだろうと思い直す。しっかり者な世話焼きの子だからなあ。
琴吹さんは俺の提案に、珍しく難しい顔をしていた。
「どうでしょうね、あの子も本当に出不精と言いますか、びっくりするくらいに人に会いたがらない子ですんで……」
「……ええっと、ここだったら共同生活送らないといけないけど、どうしてうちに入寮を決めて……?」
「どちらかというと、誰かが世話しないと、間違いなくどこかで倒れているからだと思いますよ。とてもじゃないですけど、ひとり暮らしは無理だけれど、学校と家の距離を考えたら通えないんで」
「なるほど……」
前に琴吹さんが言っていた、訳ありの子のひとりってことだな。
俺は彼女にお礼と管理人室からペットボトルのお茶を取って来て彼女にあげてから、管理人室へと引き返した。ちょうど掃除の終わった素子さんも帰ってきて、ペットボトルの麦茶をふたりで飲みはじめた。
「幽霊騒動のことで、なにかわかりましたか?」
「んー……それがさっぱりで。本当に春先には目撃例がなかったのが、夏に入ってからそんな話が増えたと」
「そうなんですか……でも困りましたねえ……夏になっていきなり増えたことってなんでしょう?」
そう言われても、ピンと来ない。
春先に早川さんにブラックバイトを辞めるようバタバタしたことはあったけれど、それ以外で大きな事件は起こってないからだ。だとしたら気候の問題か、と考えても心当たりがない。
「……雨の量とか? ゲリラ豪雨」
「たしかに増えましたねえ。考えられるとしたら、誰かが人をこっそり入れているとか」
「まあ、うちの寮はあんまり点呼とか取りませんしねえ」
厳しい寮だと入寮生全員に点呼を取る風習は未だに根付いているらしい。青陽館は基本的に、管理人室の小窓に挨拶をする程度だけれど。でなかったら早川さんや、琴吹さんが食事を運んでいる子にももっと早く顔を合わせていただろうし。
でもなあ……もしそうだとしても、玄関の靴の数、スリッパの数でわかるだろ。うちは古い板の廊下だから、スリッパなしだと足跡が付く。すぐわかるんだよなあ。
「……さすがに人を連れ込むっていうのは、うちの寮生に限ってはなくないですか?」
「まあ、たしかに。ここで隠し通すには無理がありますね。ふたり部屋ですし」
角部屋はひとり部屋とはいえども、広さやスペースを考えれば、本当に無理がある。だとしたら人を連れ込んでいるという線は消える。
琴吹さんから聞いてきた話を、俺は反芻してみる。
「人じゃないにしても、夏から変な音がするっていうのと、なんか見えるっていうのが気になるんですよねえ。あー……夜の見回りを増やしたほうがいいですかね」
「まあ、それだったらふたりで見回りしましょう。肝試しみたいで楽しいじゃないですか」
そう手を叩いてうきうきと提案する素子さんを、俺は思わず凝視する。
「……もしかしなくっても、素子さんはホラーが好きな人ですか?」
「だって。肝試しする経験ってなかったんで、一度してみたかったんですよね」
そんな、タダで楽しめるアトラクションみたいに喜ばなくても。俺はがっくりと肩を落として「そうですか……」とだけ言っておいた。
****
ひとまず消灯時間になってから、俺と素子さんは廊下を歩くことにした。そうは言っても夏休み中も大学でゼミに通っている子たちもいるし、論文を書いている子たちもいるから、共同スペースに出ていない限りは基本的に不問としている。
外の虫のジリジリと鳴く音や、空調の音以外は特に聞こえない。昼間はあれだけ賑やかだった青陽館もシン……と静まり返っている。
既に部屋にいる子たちを起こすことないよう、俺たちは懐中電灯だけ持って、廊下を歩いている。早川さんが腰を抜かしたという廊下の突き当たりも、懐中電灯で辺りを照らして回ったものの、特になにもない。
「やっぱり気のせいだったんですかねえ……」
「でも、その割には寮生の子たちの目撃情報が多いじゃないですか。幽霊が出る出ないはともかく、音や物影の正体くらいは探したほうがいいですよ」
素子さんにもっともなことを言われ、俺は溜息をつく。
まあ確認した限り、誰かが人を連れ込んでいるという線はなさそうだから、それは事務所に報告を入れなくてもよさそうだ。あとは、目撃情報の出ている影や物音の正体の確認、だけれど。
そう思ったとき。
ペッタンペッタンペッタンペッタン
床張りの廊下を裸足で歩いたような足音が聞こえてきた。床に汗ばんだ足が立てる物音は、ゆったりとした調子で続いていく。
「えっ」
何故か素子さんは嬉しそうな顔をした。この人本当に意外と物怖じしないな。俺はというと、物理的に対処できないことなんて好きじゃない。ホラーは嫌いではないけれど、驚かされるのは嫌なんだ。
俺はすぐに音の方向に懐中電灯を向けると、長い長い黒髪が揺れているのが見えた。
懐中電灯の光だけでもわかる、日に全く焼けていない青白い肌、今時どこで売っているのかもわからない真っ白なワンピース。それがゆらゆらと歩いているのだ。
「ひっ……ひいっ……!」
俺は思わず懐中電灯を取りこぼしそうになったが、素子さんはやけに冷静に、落としそうになった懐中電灯を受け止めて、その揺らめいているなにかに声をかけた。
「あのう、あなたはもしかして、ずっと姿を見せなかった
「……へっ?」
俺は思わずもう一度目の前の青白い子を見る。
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