第2話 久しぶりの外出
母親から合宿の話を聞いた翌朝。怜は8時半に起床した。昨夜は早く寝るように言われたが、合宿で出会うかもしれない人たちのことを想像してあまり寝られなかった。彼の場合はどちらかというとネガティブな想像だった。もしかしたら、いじめっ子がいて、いじめられるんじゃないか。学校に行っていないとばれたら馬鹿にされるんじゃないか。仲間外れにされるんじゃないか。次々に嫌なことが浮かんで来た。彼は小学校低学年で虐めに遭って、それから学校に行っていなかったから、同年代の男子の友達はいたためしがなかった。
夜中じゅう何度も寝ようとしたが、気が付いたらもう4時過ぎていて、結局ほとんど寝られなかったのである。
「よく起きれたね」母親が笑った。息子が張り切っていると勘違いしているようだった。朝、少しだけ朝食を取った。何を食べたか覚えていなかったが、合宿中は一人でいようと怜は決めていた。たった一日だから我慢しよう。
その日、彼は新幹線で〇〇県の〇〇という駅に行き、そこから私鉄の在来線に乗り換えることになっていた。最寄り駅まではトータルで4時間。そこからさらにバスに乗ると聞かされていた。
「移動時間長すぎない?」
「いいの。せっかくだから田舎体験してみなよ。田舎にはまるかもよ」
「無理だよ。田舎は虫地獄だし。暑いのやだし。閉鎖的で村八分とかあるかもしれないよ」
「合宿はみんな色んな所から来るからそんなのないってば」
合宿所の住所を頼りにマップで見てみたが、上空から見ても緑色の山が連なっているだけ所だった。どこが目的地か全くわからない。地図にさえ乗っていない場所に自分はこれから向かわされるのだ。怜はショックを受けていた。母が何を望んでいるのか全く分からない。自然に触れて精神状態を一気に好転させる。そんな荒療治を期待してるんだろうか。たった一泊で?そんなの無理に決まっている。
―――――――――
母とは新幹線の駅のホームでお別れだった。てっきり現地まで送ってくれると思っていたのだが、母親は駅のホームで「じゃあ、頑張ってね」と言っただけだった。そう言えば母親もリュックサックを背負っていた。怜はそれで騙された。
「来ないの?」
「交通費もったいないし、泊まるところもないから」母はあっけなく言った。
それなら、こんな宿泊のあるイベントなんか申し込まなければいいのに。怜は激しく動揺しながらも、何も言い返せなかった。
母親に力なく手を振って新幹線に乗り込んだ。行かないと駄々をこねたら母親がヒステリーを起こすに決まっている。怜の母親と言う人は周囲に人がいようと大声で怒鳴り散らす人だからだ。ただ、田舎に泊まって翌日家に帰って来るだけだ。怜は覚悟を決めた。
だけど、引きこもりで母親以外の人とはもう何年も喋っていない人間が一人で合宿?
怜はあり得なさ過ぎて笑いそうになった。
たったの一泊二日だし。明日になれば家に帰れるんだ。そしたら一万円もらえるんだから…悪い話ではない。母は何でも金に換算するから、こう言うだろう。もし、自分が付き添ったら交通費と宿泊費で何万もかかるから、現金で一万円上げた方がましでしょ?
これまでは親が付きそうイベントにしか行ったことがなかったが、4月で15歳になったから、これからは一人参加のものに切り替えるんだろう。そう言えば、もう何年も前から、母親からはあんたが家にいるせいでどこにも行けないと文句を言われていた。普通の中学生は部活や塾なんかで外に出ているものだ。よその母親たちはもっと自分の時間があるだろう。
怜は母親から文句を言われると、『別に一人で行けばいい』と返していたが、母は文句を言いながらも仕事が終わるとまっすぐ家に帰って夕飯を作ってくれていた。それが当たり前だと思って甘えすぎていたのかもしれない。
母親が一人で外泊するのではなく、自分が追い出されるとは思ってもみなかった。ママ、僕のことが邪魔だったんだ。怜はようやく気が付いた。母親とはうまくやっているつもりだったが、実は嫌われていたのだ。
母親は派遣で働いてる。年収はそんなにないだろう。本人がいつも派遣は駄目だと言っていた。特に母の場合は事務系の派遣で将来性がないということだった。年金だってそんなにもらえないと言っている。
自分が未成年のうちはいいけど、絶対このままニートではいられない気がした。YouTubeでよく見るような、気が付いたら中年になってた人たちみたいにはなれないのだ。ああいう人は、両親が共働きとか持ち家で経済的にはかなり恵まれているのだ。
彼の両親は五年前くらいに離婚していていたが、父親はすぐに別の人と再婚して子どもが二人もいた。離婚の原因は怜が不登校になってしまったことだったと思う。エリートだった父にとって、子どもが一人しかおらず、しかもその子が不登校というのはあり得なかったのだろう。いつも両親が喧嘩をしていて、最終的に母親は父親から離婚を切り出されたのである。母親は慰謝料も養育費ももらっているけど、生活に余裕はなかった。母親は自分という終身なくならない負債を背負ってしまったのだ。彼は自分はいない方がいいと常々感じていた。
新幹線の中ではずっとスマホを見て過ごした。何年もスマホを見て暮らしているから、もう見たい動画もなかったが、動画に飽きたらゲームをしたり、絵を描いたり、音楽を聴いたり。家にいるのと何も変わらなかった。ただ彼の周辺がいつもと違うだけだった。
最終的には生活保護しかないか。怜は思っていた。
彼の座席は二列シートの窓側だったが、隣には五十くらいのサラリーマン風のおじさんが座っていた。彼は隣に人が座っているのが嫌だったが、指定席だから仕方がない。その人がテーブルを下ろしてパソコンを広げていたから、トイレを我慢して座っていた。そうでなくても、電車の中のトイレは嫌いだった。狭くて揺れるし、臭い。
彼は目的地の駅に着くのを待ったが、降りる時に『すみません』と、声を掛けて前を通るのが嫌だった。彼が前を通るためには、パソコンをどかしてテーブルをたたまないといけない。彼はこういうのが苦手だった。降りる時まで、どうしようと考えていた。おじさんはずっとパソコンをやっていて次の駅で降りる気配はない。
しかし、怜が降車駅のアナウンスを聞いて早めに立ち上がると、その人は怜が何も言わなくても、パソコンを片付け、テーブルを上げて、通路に立って道を譲ってくれたのだった。怜は目を合わせないで前を通った。取り敢えずほっとした。
それから鈍行に乗り換えないといけないのだが、ホームの階段を上がって、その先どうしていいかわからなかった。きょろきょろ見回していると、在来線の乗り場がいくつもあって、その中に彼が乗る〇〇線と書いてあるホームがあった。母親が乗り換え案内をプリントアウトしてくれていたから、それを見て1時18分の電車があることを確認した。乗り換えまで20分以上あったから、彼はもらった小遣いからパンを買ってベンチで食べた。もう何週間も外出してないのに、一人で遠くまで来て、買い物して、昼食を食べている。自分がそこまでできているのが何だか信じられなかった。
母親はこういう経験をさせたかったんだろうか。怜は胸がいっぱいになった。
Lineから「〇〇駅に着いたよ」と、母親に連絡した。すると、すぐに返事があって、また「頑張ってね」と、書かれていた。
指定された電車は車両が二両しかなく、外側の塗装が錆びて古いかった。海沿いを走っているからだろうか。珍しいから写真を撮った。Twitterにあげようか迷ったが、身バレすると嫌なので断念した。彼は電車にはそれほど興味がなかったが、多分、鉄道オタクには有名なんじゃないかと想像した。
その駅は始発だったから、ホームで待っていた全員が車両に乗り込んでも、席を確保できていた。周辺には自分と同年代の子どもが沢山いた。怜は端っこに座ったが、隣になったのも同世代の子だった。女の子で隣にいる母親とずっと喋っている。話題は千葉にある例の遊園地の話だ。夏休み中に行くらしい。怜も昔父親と三人で行ったことがあるが、もう一生行かないだろう。父親を思い出してしまうからだ。
父親は不器用で物覚えの悪い怜に失望していたが、たまに優しい時もあった。休みの日に一緒にゲームをしたりした。愛されてないと思っていたが、まさか自分を置いて行くなんて思わなかったし、すぐに再婚した時はすごくショックだった。もう子どもがいるということも、さらに彼を苦しめた。自分が得られなかった幸せをその子どもたちが味わっているのだと思うとたまらなかった。父はその子どもたちと奥さんを愛している。自分のような出来損ないと、あの母親がいる家には帰りたくないとしても、あまりに残酷な現実だった。
怜は隣の家族を見ていて泣きそうになった。どこの家も大体は母親が付き添っていた。中には家族全員が一緒の子もいた。それぞれ大きなリュックを背負っていたり、大きなボストンバックだったり、トランクを持っていた。
しかし、怜は普段外出に使っているような小さなリュックしかもっていなかった。一泊だから着替えは下着と替えのTシャツ2枚だけだった。それから、スマホの充電器と財布と家の鍵と…普段から飲んでいる薬類が三日分。保険証。あとはゴミくらいしか入っていなかった。
スマホがないから余計に他人の会話が耳に入って来た。それによると、子どもだけの合宿があって、親は近所のキャンプ場でテントを借りたりして泊まるらしい。次の日の午後に合流して、子どもも一緒にキャンプ場で泊り、釣りや川下りなどのアクティビティを楽しむようだった。
何故母は来てくれなかったんだろう。怜は悲しくなった。ああ、そうだ。八月のお盆に母の実家がある九州に帰るから、これ以上、有休を取れないからだ。派遣だと休んだ分だけ給料が減る。だから、平日子どもに付き添える母親は、時間だけでなく、経済的にも余裕があるのだ。父が自分たちを捨てたせいで、随分心もとない生活を送らなくてはいけないんだと怜は改めて思った。
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