1-3. 東京都千代田区霞が関、警視庁内夜警課オフィスにて

 2134年六月、東京。


 人々は一極集中型の都市生活を選択した。小動物が身を寄せ合って生活するように、人々は密集することを選択したのだ。地方都市はほとんどが打ち捨てられ、今や全自動の農業機械だけが動く空間になっている。


 AM 2時34分。

「ビオトープ――生物生息空間」

 春海はるみけいは、LEDの蛍光灯が照らすオフィスの中で、水槽を覗き込みながらそう呟いた。水槽の中には青々と水草が生い茂り、その隙間を縫って小さなメダカが群れを作って泳ぎ、時折、底土をつついている。ガラス張りの壁面にはタニシが貼り付いている。

 ビオトープとは一種完成された空間だ。水槽の上部に取り付けられたライトは太陽だ。その下で水草は生長して酸素を産み出す。その酸素を消費して生命活動を行うのがメダカやタニシ達で、彼らはボウフラなどの虫やコケを食し、その排泄物は水草の栄養となる。底土のバクテリアも水の汚れを綺麗にしてくれる大切な役割を持っている。

「かわいいな……」

 慧が指から零した数粒の餌にメダカ達が群がってくる。こうして慧がメダカの餌を提供してやれば、この空間は循環して生命を維持できる。


 そのはずだった。

 だが、世界は変わった。


 一匹のメダカがぷかりと水面に浮かんだ。前々からこのメダカは健康状態が良くなかった。恐らく病気だろう。腹を上にして、もうエラも動いていない。死んでいる。

 慧は死んだメダカを網で掬い上げる。

 本来のビオトープならば、死んだ個体は他の生物あるいはバクテリアに分解され、土に還る。だが、簡易的に作られたこの空間ではそうはいかない。死体は腐り、ビオトープは汚れていき、病原菌が他の生物たちを冒していく。

 ゆえに、死はすぐさま排除しなければならない。

「後で土に埋めてやるか」

 今、この世界において死は終わりではない。メダカのような下等生物、魂を持たない生物ならともかく、人間のように生への強い執着を持った魂を持つ生き物は、死してなおこの世に留まろうとするのだ。人はそれを幽霊とか亡霊などと呼ぶ。

 今の東京は超高層ビルが立ち並ぶ一種のビオトープだ。人々は密集して生息している。そんなビオトープ内で成仏できない死人が出たら……。その死を速やかに排除しなければ、ビオトープは霊によって徐々に冒されていくだろう。ビオトープは死によって闇に染まる可能性がある。


「慧せんぱーい、遊んでないで仕事してくださいよー」

 小花衣舞香こはないまいかがデスクで呼び掛けている。慧はメダカ達に餌をやりつつ振り返りもせずに言った。

「遊んでねえよ。みんなのアイドル、メダカちゃん達の世話してんだろうが」

「いや、先輩のペットでしょ。私らが餌あげようとしたら、水が汚れるとかメダカの健康に悪いとか言って怒るじゃないですか」

「餌をあげる時間は決まってんだよ」

「自動餌やり機使ってください。まったく、オフィスにそんな水槽持ち込んで……」

「なんだよ、警察でも犬飼ってる奴らもいるじゃないか」

「警察犬をペットと一緒にしないでください」

「あいつら煮干好きだぞ」

「餌を勝手にあげない! ……もう、真面目な時はかっこいいのに」

「何か言ったか」

「何もー」

 舞香は溜め息をついて回転椅子の背もたれに寄り掛かった。後頭部でまとめられた茶髪がだらんと地面に向かって垂れ下がる。そして、天井に向かって大きな欠伸を放つ。

「はー……ねむ。やっぱこの職場辛いわ」

「夜勤が俺達の主務だろ。ちゃんと昼寝とけ」

「そうですけどー。夜ちゃんと寝ないとお肌に悪いんですよ。私、今年で二十三ですから。もうすぐお肌の曲がり角、日々のお手入れは欠かせないんですよ」

 そう言って舞香は手鏡を覗き込む。フェイスアップのためか、頬の肉を掌で押し上げている。

「今は皮膚移植も一般的だろう」

「天然肌が昨今の女子のトレンドなんですよ。慧先輩、そういうのに疎いから彼女がいつまで経ってもできないんですよ」

「お前はどうなんだよ」

「あっ、セクハラ発言!」

「お前も似たような主旨の発言したろ」

「私はいいんです。彼氏は随時募集中ですよ。何たってこの職場、夜が主な勤務時間帯だから出会いがなくって。女心の分からない男ばっかりですし」

 慧はオフィスを見回す。今、オフィスにいるのは、慧と舞香と、無言でキーボードを叩き続けている眼鏡の男だけだ。他にも人員がいるのだが、さっきからずっと喫煙室に籠りっ放しだ。

「おい、言われてんぞ、眼鏡」

「うるさいぞ、生き物係」

 眼鏡をかけた男性、志々島ししじま蒼司そうじは、机をバンと叩いて立ち上がった。

「お前らいい加減にしろ、勤務中だぞ。ったく、課長が不在だからといって……。いいか、俺達は警察官だ。いつ出動命令が下るか分からないんだからな。市民の夜間の安全を――」

 蒼司が警官の心構えを説こうとした矢先、オフィス中をつんざくようなサイレン音が鳴り響いた。

『緊急入電。新宿歌舞伎町にて通報。悪性霊体の被害確認。夜警課出動』

「あ、出動命令だ」

 舞香がぴょんと椅子から立ち上がる。馬のしっぽのようにポニーテールが跳ねた。

「ほら、蒼司、口開けてないで行くぞ。曾我部そかべのおっさんによろしく!」

 慧と舞香が続けざまにオフィスを駆け出していく。

「っ、お前達、帰ったら覚えとけよ!」

 蒼司もそれに続く。

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