1-4. 東京都新宿区歌舞伎町にて
死は恐怖。かつてより人はそれを恐れた。それは未知であったからだ。未知への恐怖。不可視のものへの恐怖。しかし、科学技術の進んだ現代、死は可視のものとなり、概念から観測事象へと昇華した。人類始まって以来の謎であった死後の世界の存在は数学的に明らかになり、死はより身近なものになった。
それでもなお、人は死を恐れる。見えるようになったことで死の恐怖はより洗練された。
そして、死は人間へと牙を剥くようになった。
「はあっ、はあっ、はあっ……!」
荒い息遣いが暗闇に響く。
「落ち着いて、呼吸を浅くするんだ。音を立てたら奴らに気付かれる」
ふたりの男女が倒れたテーブルの陰に身を潜めていた。男性の方は壮年、女性の方は二十台と思われる。男性はスーツ姿、女性はドレス姿であることから、どうやら客とキャバ嬢の関係のようだ。
「いい、
こくこくと麻友と呼ばれた女性が頷く。彼女はガタガタと震えている。その震えに合わせて懐中電灯の光も小刻みに揺れる。彼女の蒼白な顔が懐中電灯の光に照らされてより白く光る。
「安心して、僕がついている。通報はした。もうすぐ、夜警が来てくれる。幽霊なんかに――」
突如、空中を椅子が舞った。そして、男性客の近くに轟音を立てて落下する。椅子の脚が折れて床に散らばった。
「ひいっ?!」
「声を出しちゃダメだ! ただのポルターガイストだよ」
慌てて男性が麻友の口を塞ぐ。
「んーっ! んんーっ!!」
麻友が必死に男性の背後を指差している。
男性の額を冷たい脂汗が伝った。全身の肌が粟立つ。寒くもないのに身体が震え出す。喉が渇く。もう声は出ない。
寒い。寒い。寒い。寒い。
胃の中に氷でも溜まっているかのようだ。全身の毛が逆立っているのが分かる。
おかしい。先程までは明るい店内で楽しく麻友と飲んでいたはずだ。なのに、突然電気が消えて、客が逃げ惑い、多くは脱出できたが、自分達は逃げ遅れてしまった。電気が消えた瞬間、霊が出現してポルターガイスト現象で机やら椅子やらを吹き飛ばして出口を塞いでしまったのだ。何とか懐中電灯を一本手に入れたが、それも麻友に渡してしまった。
家族の顔が浮かぶ。愛する妻、娘達。夜遊びなんて、するんじゃなかった。
目の前が涙で滲む。
怖い。怖い。怖い。怖い。
「あ……ああ……」
男性はゆっくりとぎこちない動作で振り返った。
そこには闇があった。
人型をした何か。顔らしき何か。瞳のない
「う……うわあああああっ!!」
気付けば叫び声が口から出ていた。死を目前にして男性はパニックに陥ったのだ。その直後だった。
ドチャッ!
「ひっ?!」
鈍い音が響いた。暗闇でよく見えないが血や肉や臓物といったものが辺りに散らばったみたいだった。
「あ、ああ、あああ……」
麻友の顔にも熱い何かがベッタリと貼り付いた。
「た、助けて……お母さん……」
その時、懐中電灯の光が明滅した。
「うそ……ダメ……消えちゃダメ……!」
懐中電灯の光の中に何とか収まろうと麻友は身をより一層縮こまらせた。
目の前に霊がいる。蜃気楼のように、揺らめく影のように、人型の何かが、じっとこちらを見つめている。眼球のない瞳で彼女を見つめている。
その霊の中には恐らく未練と
「やめて……見ないで、こっちに来ないで……」
麻友は後ずさる。だが、背後にはテーブルがあってこれ以上、霊とは距離を取れそうもない。
「いや……!」
霊がニタリと笑った気がした。
「いやあああああっ!!」
***
明かりの消えることない街、東京。
日本の人口約6800万人のうちのおよそ80%が暮らすこの街に明かりの届かない場所はない。立ち並ぶ超高僧ビル群の全ての窓からは明るい光が漏れ出ている。ひとつとして明かりの消えている窓はない。今や東京は昼よりも夜の方が明るいと言っても過言ではなかった。
東京は新宿区。平均百階建てのオフィスビルとタワーマンションが立ち並ぶ一画から外れた歌舞伎町は今もなお「東洋一の歓楽街」と言われている。合法非合法入り乱れる雑多な歓楽街はネオンに照らされ、深夜でも人波が途絶えることがない。都内のほとんどが超高層ビル群で占められている昨今、高くても地上数階建ての建物の多い歌舞伎町はかつての日本の姿を留めている数少ない場所のひとつだと言ってもいいだろう。
今、街灯が煌々と照らす首都高速を二台のパトカーがサイレンを鳴らしながら疾走していく。一台目のパトカーの運転席には舞香、助手席には慧が腰かけている。二台目のパトカーの運転席には蒼司が座っており、後部座席では火の点いていない煙草を咥えた初老の男性――曾我部
「こちら志々島、現場へ急行中。
グローブ型多機能デバイス(通称、
『こっ、こちら、乙坂。対象は歌舞伎町内のキャバクラ「
無線から弱々しい男性の声が聞こえてくる。
「霊の発生原因は?」
『漏電です。それに伴い、キャバクラ一帯が停電しています』
『おいおい、ヤバいだろ』
慧が通信に割り込んでくる。通常、漏電などで電気が不通になっても、予備発電機などで瞬時に電力が回復されるような機構になっているのだが、歌舞伎町のような古い土地ではそのような体制になっていなかったのかもしれない。
『や、ヤバいです。停電地帯は半径50メートル。一帯には二百人ほどの民間人がいた模様です。現在、ドロイドが避難誘導を行っていますが、暗闇で身動きが取れなくなっている人がいるかも……。現在、歌舞伎町から停電を知らせる通報で電話が鳴りっ放しです』
『電力復旧にはどれくらいかかります?』
さらに舞香が無線に割り込んでくる。
『そちらも修理ドロイドが急行中。一時間はかかるかと……』
凛久の声が消え入りそうなほど小さくなっている。事態の緊迫度合いに緊張しているのだろう。
『一時間……その間、もしかしてずっと……』
舞香が不安そうに呟いた。
『泣きごと言うなよ。なーに、大丈夫、俺がしっかり守ってやる』
慧が舞香を鼓舞する。
「急ぐぞ」
蒼司はパトカーのアクセルを踏み込む。
『了解!』
グンとパトカーが加速する。時速は90キロメートルに達していた。
***
パトカーが歌舞伎町一番街の前で急停車する。タイヤが煙を上げ、車体が大きく揺れる。そして、慧と舞香がパトカーから降り立つ。さらに、蒼司が運転するパトカーが現場へと到着する。
現場では多くの警備ドロイドが出動している。見た目は白いドラム缶にパトランプがついたようなロボットだが、全自動で指定された行動を取ることができるため、人員削減や危険区域での活動などに役立っている。現在は人払いが済んでいるらしく、規制線の外側に数人の野次馬がいるだけだ。
凛久によると停電が起きているとのことだったが、見える範囲ではそのような様子はなく、辺りは昼と見まがうほどに明るい。
「夜警課、現着」
蒼司が乙坂に向かって報告する。
『げ、現着確認しました。武器制限は解除されています。突入してください』
「分かった。歌舞伎町は古い建物も多く地形も入り組んでいる。物陰も多い。速やかに民間人を救出し、都度現れるであろう霊に対処する。ツーマンセルで行動する。俺と曾我部さんは大通りから突入し、取り残されている民間人を探索する」
「……」
無言の曾我部は咥え煙草でパトカーのトランクからアタッシュケースを取り出し、中から警棒を取り出す。
「慧と小花衣はキャバクラ天狗だ。そこでは間違いなく霊との交戦が予想される。頼んだぞ」
「了解!」
慧が勢いよく返事をし、パトカーのトランクへと駆け寄る。
「装備確認を怠るなよ、慧、小花衣」
舞香もまたトランクに向かう。
「了解です。えーっと、暗視コンタクトレンズよし、RⅰCOMよし、あとは、これこれ……」
舞香はシルバーのアタッシュケースを開き、中から銀の銃身を持つハンドガンを取り出す。弾倉に弾を込め、安全装置がかかっていることを確認すると、銃身に軽く口付けをする。
「準備完了」
舞香の横では蒼司が同じくアタッシュケースから武具を取り出している。三本の棍(三節棍)をジョイントし、それが一本の槍となった。
「慧」
「おう」
慧がアタッシュケースから取り出したのは刀だった。慧が鞘から刀を抜くと、パトカーのパトランプが反射して銀の刀身が赤々と輝く。
「民間人の救出が最優先だ、行くぞ!」
「了解!」
***
警視庁夜警局夜警課、それが慧達の所属する組織の名だ。
夜警局とは、刑事局や公安局と肩を並べる警察機構のひとつで、現代日本の夜間の安全を担っていると言っても過言ではない重要な組織だ。刑事局や公安局が主に対人の事件を解決するのに対し、夜警局は霊絡みの事件の解決を行う特殊組織だ。中でも夜警課は局の中での実働部隊に当たり、主な活動時間が霊の発生時間である夜と重なるためそのような名が付けられている。
その組織の起こりは約八十年前に遡る。
2056年六月二十三日――世界に異変が起こった。それは、何でもない日常が闇に染まった忌むべき日だ。
その日のことを人は本来存在しないはずの
その日、この世はあの世と繋がった。輪廻転生の環がほつれ、生と死のバランスが崩れたのだ。
突如として、霊という存在が闇から生じるようになった。
霊とはすなわち死者の魂が現世に現れたものだ。霊はとある執念に基づいて行動する。それは生者への妬みだ。死者は常に生者を殺したい。悪意に塗れている。
人々に為す術はなかった。多くの者が霊に憑き殺された。なにせ、霊には一切の攻撃が効かなかったのだ。剣もナイフも銃も打撃も熱も水も電気も核爆発すら効果を及ぼさなかった。警察も軍も役に立たなかった。唯一、霊が苦手としたのが光だった。光のあるところにだけは霊は近寄ることができなかった。
ゆえに人々は暗い夜を恐れた。残った人々は発電所を増設して都市を発展させ、夜になっても明かりの消えない街を作った。
光のない地域の人間は死に絶えた。世界でも今なお都市機能を保っているのはアメリカや中国をはじめとした大国だけだ。
人々は恐れた。霊はどこにでも現れる。夜に部屋の電気が消えただけで霊が現れるのだ。死はより身近になった。
日本の人口は半減した。ほとんどが霊に殺されてしまった。科学者の中にはそれを人類への地球の復讐と呼ぶ者もいた。あるいは単に人類の
人類は闇を恐れて光へと逃げることしかできないと思われた。
だが、人々の中には特殊な能力を持つ者がいた。それは、霊を
そして、霊へ対処する機関が設立された。この日本国において、霊を倒せる才を持つ者で構成された特殊部隊、それが夜警局夜警課なのだ。
タン、とビルの上に慧が着地する。続いて、舞香も隣のビルの屋上から慧のいる場所へと飛び移ってくる。物陰が多く入り組んだ路上よりも、背の低いビルの屋上を渡り歩いてきた方が効率的と判断したのだ。
「乙坂、屋上伝いに例のキャバクラの真上に到着した。キャバクラは何階だ?」
ここまで霊との遭遇はなかった。深夜、周囲に明かりはない。どこに霊が発生してもおかしくはなかった。
『三階です。入口はポルターガイストによって塞がれているようです。窓から侵入できますか』
「了解」
言うが早いか、慧は屋上の地面にアンカーを打ち込みロープと結び付ける。
そのロープを掴んだまま、屋上から飛び降りた。
しゅるしゅるという音を立てながら、壁伝いに屋上から降下する。四階まで到達すると、慧はそこで大きく壁を蹴った。
慧の体がビルと離れていく。
そして、振り子運動の勢いを利用して三階の窓に向けて蹴りを放つ。
窓ガラスを蹴破り、慧はそのまま三階への侵入を果たす。
舞い散るガラス片の雨のなか、床で一回転し、受け身を取る。侵入成功だ。
突如、慧の身体を悪寒が走った。
「悪性霊体確認!」
霊だ。生者への妬みが行動原理のこの世ならざるもの。暗視コンタクトレンズでは捉えきれない。一般人には靄(もや)がかかった人型のようにしか見えないが、慧達のようにその存在を視ることのできる者には、その気配をしっかりと感じることができる。
「少なくとも三体!」
RⅰCOMに向かって叫びながら、慧は刀を鞘から引き抜く。
刹那、キャバクラに設置されていたであろうソファが浮かび上がる。ポルターガイスト現象だ。
ソファは勢いよく正確に慧目掛けて飛来する。
慧はそれを転がって避けると、別の角度から飛来したワインボトルを刀で打ち砕く。粉々に砕けたガラス片が辺りに散らばった。
「誰かいるか! 夜警だ!」
呼びかけるが返答はない。
「ひとまず、霊を倒すか……」
意識をこめかみのあたりに集中する。霊は普通の人間にはほとんど見ることができない。暗闇の中ではなおさらだ。だから、慧達、夜警の人間は霊を感じる。見るのではなく、視る。
「――そこか」
左前方、距離にして五メートル。そこに霊が一体いる。
「成仏しろや」
慧は一歩踏み出す。足元でガラス片が砕ける音がした。腰を落とし、床を蹴る。
刹那、慧は霊との距離を一気に詰めていた。まるで黒豹が獲物を仕留めるが如く素早い動きは、常人には再現できまい。日々の鍛錬が為せる業だった。
霊は抵抗を試みたのか、後退し、再びポルターガイスト現象を引き起こし、テーブルを投げつけてくる。
「おせえよ」
慧はそのテーブルの上に飛び乗ると、跳躍する。そして刀を真上に振り上げると、着地と同時に霊を切り裂いた。
手応えはない。霊は物体ではない。ゆえに、斬った感触を肉体的に感じることはできない。だが、慧には自身の刀が霊を確かに切り裂いたことが分かった。
慧の刀は特別製だ。慧が「力」を注ぐことで、ただの金属製の刃が霊体を斬ることができるようになるのだ。この能力こそが夜警を務めるのに必須の能力であり、人類が霊に対抗できる唯一の手段なのだ。
切り裂いた霊の顔は苦悶に歪んでいたが、それはだんだんと安らかなものに変わっていく。この世への未練から解き放たれて成仏するのだ。慧の力――死者をこの世に繋ぎ止める
「次!」
既に次の霊が臨戦態勢に入っている。どうやら直接、慧に取り憑いて呪い殺す算段のようだ。
先ほど振り下ろした刀を横に薙ぐ。
一閃。
暗闇の中、銀の刀身が一瞬輝いた。
次の瞬間、霊は声もなく霧散した。
「二体目も駆除完了。あと一体は……」
どうやら天井付近を高速で移動しているようだ。キャバクラ店内に取り付けられたシャンデリアがぎこぎこと不吉な音を立てる。そして、留め具が外れ、シャンデリアが慧目掛けて落下してくる。
「くそ」
飛びずさってシャンデリアをかわすが、足元が滑りバランスを崩す。
(血に滑って……!)
慧が足を取られたものはどうやらキャバクラの客の死体から流れ出た血だった。暗視コンタクトレンズで形ある障害物は見えても、床に零れた液体までは見えない。
霊がここぞとばかりに接近して来るのが分かる。
まずい。霊に取り憑かれた一巻の終わりだ。体を乗っ取られて、本来動かないような方向に体の関節を動かされ、そのまま捩じ切られる。そう、それこそ目の前に転がる男性客の死体のように無残な姿にされてしまう。
その時だった。
窓から転がり込む人影。
その人影が銃を構え、続けざまに発砲した。
銃弾がバランスを崩して倒れかけた慧の鼻先を掠める。
それと同時に霊の気配が消えた。見れば、黒い靄の中に大きな三つの穴が開いている。
「よし、全弾命中!」
舞香だった。
「せんぱーい。先行し過ぎです」
舞香はしゃがんだ姿勢から立ち上がると、くるくると指先で拳銃を回しながらそれをホルスターに収める。
舞香が得意げな顔をして尻餅をついた慧を見下ろす。
「おせえよ! 死ぬかと思ったわ!」
「えー、死んでも化けて出ないでくださいよ。っていうか、お礼のひとつくらい言ってもいいと思いますけど!」
「ありがとう」
「素直か! いやあ、ロープ伝って飛び降りるなんて乙女には難易度が高いんですよ」
彼女もまた夜警のひとり。霊を倒す能力を持った特殊な人間だ。彼女が力を注いだ弾丸は実体を持たない霊をも
「よっし、駆除完了! おつかれっした!」
舞香は尻餅をついた慧に手を差し出す。慧はその手を掴んで立ち上がり、納刀する。
「おう、お疲れ。さて、霊が三体か……。うち二体はまだ霊になりたてって感じだったな」
「はあ、酷いもんですね」
暗視コンタクトレンズ越しの光景は目を覆いたくなるような惨状だった。
物が散乱し、壁や天井は傷だらけだ。テーブルや椅子はひっくり返り、シャンデリアは地面にガラスの花弁を散らしている。食器やワインボトルもそこら中に散らばり、このキャバクラは閉店に追い込まれるだろう。
だが、何よりも酷い状態なのが霊に殺された人間だ。
千切れた四肢、飛び出た内臓、苦悶の表情を浮かべたままの壮年の男性の顔。零れ出た体液は酒と混ざり、生臭い異臭を放つ。
「死体はひとつだけですか……えっと、通報では、ふたりいたはずですが」
「キャバクラの電気が消えて霊が出現、逃げ遅れたふたりが一体の霊に殺されて霊化。それで計三体の霊を排除したんだと思ったんだが、もうひとりのキャバ嬢の死体はどこだ」
辺りを見回してみるが、それらしきものはない。
霊は霊を呼ぶ。今回のケースのように霊に殺された者は成仏できずにそのまま怨霊と化すことが多い。もし多人数がいるところに霊が発生すれば鼠算式に霊が増えていくことになる。日本の人口が半減したのもこの負の連鎖のせいと言っても過言ではない。
「せんぱーい……」
その時、部屋の隅で慧を呼ぶ舞香の声がした。舞香の声は嘔吐するのを必死にこらえているようだった。
「見付けましたー」
慧が舞香の呼ぶ方に近付くと、舞香が倒れたテーブルの下を指差す。
「と、言っても腕一本だけなんですけど」
そこには、千切れた女性の腕が落ちていた。肘から先しかなく、今もなお断面から血が滲んでいる。
慧と舞香は顔を見合わせた。
***
曾我部達郎は伸ばした特殊警棒を振り払う。目の前の霊の気配が消えたことを確認すると、咥えた煙草に火を点ける。肺に煙を満たし、吐き出す。戦闘中といえども、煙草は手放せない。隙さえあれば一服を試みる。
背後から焦りの滲む声が聞こえてくる。
「ったく、きりがない!」
今、志々島蒼司と達郎は背中合わせになっていた。
明かりの消えた歌舞伎町の中心でふたりは霊に囲まれている。達郎とツーマンセルで歌舞伎町に突入して十数分、
達郎の煙草から
「曾我部さん、それ何本目ですか。肺を壊しますよ」
「ちっ」
蒼司の問い掛けに舌打ちで返すと肩に警棒を乗せ、とんとんと肩を叩く。達郎は、焦りを隠しきれない蒼司に煙草を吸えるくらいの余裕を見せろと言いたくなったが、口を開くのが面倒だったのでやめた。
「しかし、暗いな……。暗視コンタクトがなければ何も見えやしない」
達郎が無口なのを知っている蒼司は、返答がないことを気にしない。イライラとした口調で呟く。
こうして停電した区画にいると夜の闇の濃さを思い知らされる。遠くのビルが唯一の光源だ。
近寄って来た霊を槍で突き刺し、
「くそ、何か打つ手は……」
霊の数が多過ぎる。このままではいずれ蒼司か達郎のどちらかが霊に取り憑かれて終わりだ。もちろん、その前に撤退を試みるが、できる限り粘る。それが民間人のための警察官というものだ。
今の日本には圧倒的に人手が足りない。その中でも才ある者しかなれない夜警の人員不足は顕著だ。本来なら人海戦術で以って霊の討伐や避難誘導をしたいところだが、現状、暗闇という危険地帯に生身で侵入できるのはドロイドか蒼司達夜警だけなのだ。
「乙坂、修理ドロイドはどうだ」
無線で凛久に呼び掛ける。頼みの綱は電力の回復だ。照光で霊を消滅させることはできなくても、退けることならできる。
『先程、修理ドロイドが漏電箇所に到着しました。現在、修理中です』
「急がせろ」
『はい。ただ、今ドロイドを通して漏電箇所を見ているんですが、気になることが』
「何だ」
『配線に切られたような跡が』
「それは人為的に、という意味か」
『暗くてよく分かりませんが、恐らく』
「霊が
『それは明日調べてみないことには……』
「まあいい、とにかく急いで配線を繋ぎ直せ」
『は、はいっ!』
凛久はおどおどとした口調で頼りないが、バックアップとしては優秀だ。戦闘は得意ではないが、霊も視えるし、頭脳も明晰だ。任せておいて大丈夫だろう。
「慧、そちらは」
『こっちは任務終了。キャバクラ内にいた三体の悪性霊体を排除。生存者はなし』
「そうか。では、要救護者を探しつつ、こちらに合流しろ。手が足りん」
蒼司は無線を切ると、目の前にぼやけて佇む霊達を睨み付ける。
「お前らはもう死者なんだ。この世から去り、あの世へ行け!」
言葉は通じない。だが、叫ばずにはいられない。ここは霊の居ていい場所ではない。自分たちの領域を侵すな。世界中の生存者が思っていることだ。
輪廻転生の環が回らなくなったあの日――
今では、かつて死生観と密接な関わりのあった宗教はなくなり、死は死生学という学問で扱われるようになった。
死生学において、生物は肉体と精神、そして魂で構成されているとされる。肉体と魂とを繋いでいるものが精神だ。そして、死生学において、死とは、肉体の損壊などによって精神が切れてしまったことを指す。肉体に繋がれていた魂は解き放たれ、大地へと回帰する。
大地――星の中心には(異次元であり観測することしかできない)、あらゆる生き物の魂を貯めるプール(ガフの部屋)があり、機が熟すと、そこから魂が飛び出て、また新たな命が生まれるという。これが輪廻転生だ。ガフの部屋に入れられる過程で魂は他の魂と混ざり合い、魂の情報は他の情報で上書きされるという。そして、全く違う生命として生まれ変わるのだ。
目の前の霊達は肉体から解き放たれたにもかかわらず、星へと還れなかった存在だ。
忌むべき日、2056年六月二十三日――
「曾我部さん、突破口を開きます。俺が突っ込むんで背中を頼みます」
「……」
達郎は、横目で蒼司の顔を見遣る。焦りは見られるが、決して恐れているわけではない。覚悟の決まった顔をしていた。達郎は無言で頷く。
「それでは……」
蒼司が槍を構えたその時だった。蒼司の目が暗闇の奥で動くものを捉えた。霊ではない。
「ちょっと待ってください、曾我部さん。あれは、人……?」
生存者だろうか。よく目を凝らしてみる。確かに人間だ。それもふたり。ひとりは暗闇の中を悠々とした足取りで歩いている。恐らく男性。もうひとりは、その人物についていっているようで、ふらふらとした足取りだ。女性だろうか。どうやら怪我をしているようで腕の辺りを押さえている。
「おい、そこの君達!」
蒼司は慌てて呼び掛ける。先頭を行く者が蒼司を振り返る。
「ここは危険だ! すぐに避難を!」
だが、蒼司の視界はすぐに霊によって遮られてしまった。
「くそっ……!」
ふたりの姿はもう見えない。
「助けに行きます。援護を!」
やはり、突っ込むしかない。蒼司は槍を構えて駆け出した。
「うおおおおっ!」
槍を突き、横に薙ぎ、振り回す。広範囲にわたる攻撃は霊達をばらけさせる。当然、蒼司の背後に回った霊が、彼を呪い殺そうと襲い掛かる。
だが、その霊は達郎の警棒に殴られ、霧散した。
「ありがとうございます!」
目の前の一体の霊にターゲットを絞る。腰を落とし、槍を中段に構え、力強く右足を踏み込む。その勢いを利用した槍による三段突き。脚部、腹部、頭部を突かれた霊は抵抗虚しく霧散する。
ふたりの生存者の姿を探すも、見当たらない。逃げたのだろうか。それならばいいが。
「慧、生存者をふたり確認した。新宿駅方面へ向かっている。怪我人もいるようだ、保護してくれ」
『了解』
町内を駆けているのであろう慧からの通信を確認すると、再び、霊と相対する。
「消えろ!」
今は少しでも周囲の危険度を下げることに徹するほかない。今度は槍を掲げるようにして持つと刃の部分を地面すれすれまで落とす。霊の行動は単純だ。警戒しつつも、蒼司ににじり寄ってくる。天地の構え――槍の長いリーチを生かし、
背後では、蒼司に近付こうとする霊を達郎が牽制している。
歌舞伎町に突入してからはや三十分が経過しようとしていた。
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