第15話 商品③ 殺人鬼からの手紙・Ⅳ


 「……ねえ、朝美」

 「なに?」

 「シャンプーを持ってくるの、忘れちゃったみたい」

 トモ子はそう言った。


 「私のシャンプー、使っていいよ」

 「あの、私さ、シャンプーは決めているの。

 だから、今からコンビニに買いに行こうよ」

 「えーー、もう十一時だよ。

 一日ぐらいがまんしなよ」

 朝美が面倒臭そうな顔で言う。


 「ダメ。行こうよ」

 トモ子は立ち上がると、朝美の手を引っ張った。


 「ちょっと、痛いって」

 「すぐよ。すぐに戻るからさ。

 ね、ね、お願い。

 一緒に行こう。一緒に」

 トモ子はベッドに背を向け、朝美の顔を必死で見ながら言う。

 ベッドの下から、蜘蛛のように這い出してきた男が、今にも自分の背中に斧を叩きつけてくるのではないかという恐怖で、全身の産毛が逆立っていた。


 「分かったわよ。

 わがままなんだから」

 迷惑そうな顔で朝美が立ち上がった。


 靴を履きかえ、外に出てドアを閉める。

 そこまでの時間が、トモ子には無限にも感じられた。


 朝美がガチャリと玄関のドアに鍵をかけた瞬間、トモ子は朝美の手をつかむと必死になって引っ張った。

 「ちょっと、トモ子!」

 「いいから、早く!」

 鍵を閉めたと言っても、男を室内に閉じ込めたわけではない。

 当然、室内からは簡単に開く。


 トモ子は「早く、早く」と言い続け、朝美をエレベーターではなく階段の方へと引っ張って行く。

 エレベーターが来るのを待ってはいられない。

 朝美が何か文句を言っているが、それを無視して階段を降りる。

 足はガクガクと震え、何度も転びそうになった。


 マンションから逃げ出し、人通りの多い場所に出たトモ子は大きく息を吐いた。

 緊張が解けて、座り込みそうになってしまう。


 「ちょっと、どうしたのよ、トモ子?」

 さすがに驚いた朝美が、心配そうな顔になってトモ子を支える。


 「顔色が悪いよ。部屋まで戻ろう」

 「ダメよ!」

 トモ子は悲鳴のような声をあげた。


 そして、ベッドの下で見た男のことを朝美に話した。

 最初は半信半疑の顔だった朝美だが、トモ子のただならぬ様子をみるうちに、その話を信用したようであった。


 「朝美。今から警察に行きましょう」

 「……分かったわ。

 でも、トモ子に迷惑がかかるから、警察には一人で行くわ」

 「迷惑なんか気にしないで。私も一緒に行くわよ」

 「心配ないって。

 日本のお巡りさんは優秀なんだから。

 手伝ってもらうことがあったら、また連絡するから」

 トモ子を落ち着かせようとするかのように、朝美が笑顔を作って言う。


 「でも……」

 「それより、トモ子は一人で帰れるの?」

 「うん。荷物は置いてきちゃったけど、サイフは持ってきたし……」

 「じゃあ、私は交番に行くね。

 荷物は一晩預かっておくわ。

 明日、電話をするから」

 「絶対よ」

 トモ子は不安になりながらも朝美と別れた。


    ◆◇◆◇◆◇◆


 しかし、翌日になっても、朝美からは連絡が無かった。

 電話をしても繋がらず、メールをしても返信が無い。


 心配になったトモ子は会社を早退し、再び朝美のマンションを訪れたのである。


 恐る恐るチャイムを鳴らすが応答は無かった。

 ためらった後、ドアノブに手を伸ばす。

 ドアノブは、カチャリと回った。

 鍵がかかっていなかったのである。


 ……どうしよう。

 回ったドアノブを握りしめたまま、トモ子は固まった。


 もしかして、私の言葉を信用しなかった朝美が、あれから自分で確かめようとして、一人で部屋に戻ったのかも知れない。


 部屋に戻った朝美に、ベッドの下から出てきた男が斧を振りあげて襲い掛かるシーンが頭に浮かんだ。


 「まさか……。

 でも……、確かめなきゃ」

 覚悟を決めたトモ子は、ゆっくりとドアを開いた。

 室内を覗き込む。

 何の物音もしない。人の気配は感じられない。


 朝美の部屋の間取りは2DKである。

 ドアを開けると、狭い玄関があり、すぐにダイニングキッチンとなっている。

 そして、奥の引き戸を開けると、ベッドのある部屋に続くのである。


 室内は静まり返っていた。

 トモ子は、すぐに逃げ出せる姿勢になりながら、思い切って室内に声を掛けた。


 「朝美」


 しかし、返ってくる声は無い。

 静まり返ったままである。


 ……誰もいない?


 トモ子は玄関ドアを最後まで開いた。

 カチリと音が鳴ると、ドアクローザーのストップ機能で、ドアは開いたまま固定される。

 これで万が一の時には、逃げ出しやすくなった。


 もう一度、「朝美、いないの?」と声をかけてから、トモ子は靴を脱ぎ、ダイニングキッチンへと入った。

 音をたてないように、ゆっくりと進み、半分閉じている奥の引き戸に手をかける。


 緊張で心臓が破裂しそうであった。

 ここに来て、警察に行くべきかと迷ったが、手の動きは止まらなかった。

 静かに引き戸を開けたのである。


 …………。

 誰もいなかった。

 部屋の中は、昨夜、朝美と過ごしたままの状態であった。

 着替えや洗面用具の入った自分のバッグが置きっ放しになっている。

 少なくとも、この場所で、朝美とベッドの下の男が争った様子は無かった。


 安堵し、緊張が解けると、トモ子は座り込みそうになる。

 しかし、それなら朝美は、あれからどうしたのかという疑問が湧いてきた。


 二人で外に出ている間、もしかしたら、男は逃げ出したのかも知れない。

 しかし、それなら、男などいなかったと朝美から連絡があるはずであった。


 「どうなってるの……」

 不安気につぶやいたトモ子は、念のために身をかがめるとベッドの下を覗いてみた。


 そこに男がいた。


 トモ子の息が止まった。

 昨夜の男がいる。


 まだベッドの下の狭い空間に、斧を抱えた男が隠れていたのだ。

 すぐ目の前だ。

 トモ子は、30センチと離れていない近さで、男と目を合わせたのだ。

 ドロリとした不気味な目であった。



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