氷の國のアビス

吉ヶ原ハヤブサ

第1章 氷の世界

第0話 遠い昔

 冷たい。扉を開くとひんやりと冷たい風が私を誘っている。軋む扉からどことなく怪しい雰囲気を感じた。

 扉から先に足が進まない。進まなければいけないのに進まない。足が言うことを聞かないんだ。

「怖い...のね」

 私は怯えているのか。自分で決めたことなのに。もう今更変えられないっていうのに。何を怯えているんだ。

 皆が待っている。足を動かすんだ、私。

 一歩一歩進む足が重い。重い足を冷気が包むせいか感覚がなくなっていく。

 地を踏む足が床に張り付いて皮膚が剥がれそうになる。感覚はもうない。もしかしたら足の裏の皮膚はないのかも。

 結晶の微かな光が部屋を照らす。扉からどれくらい離れただろうか。

 行き先は真っ暗。どこを目指しているのかですら曖昧になってきた。思考すら凍らす空間に意識が朦朧となる。

「はぁ、はぁ...」

 吐く息が白い。目的の場所はまだなのか。どこへ行けばいいのか。

 このままではそこへ着く前に死んでしまう。

「...」

 これじゃあ、皆が...。

「皆、ごめん...」

 頬が冷たい。もう一度起き上がる気力など私には残ってない。せっかくのチャンスが、最後の希望だったというのに。

「...」

 彼女が意識をなくした後、彼のピアスが微かな輝きを反射して、彼女を照らしていた。




 約1年前。

 皇帝が姿を消した。世界で最も強い皇帝が姿を消したのだ。暴虐に満ちた彼が玉座から姿を消した。


 大きな大陸にひとつの帝国が存在していた。膨大な力で大陸を支配していたという。皇帝の名は アルス=デルベート、若くして大陸を統一し、多くの屍の上に立つ絶対王者。デルベート帝国の現在の皇帝である。

 たった4年で大陸を統一した実力は世界最強と言えるだろう。その暴虐は反乱すら治める力であった。暴虐は悪魔の進行のようで、その力と王の名は大陸全土を奮わせた。

 進行に対し各国は英雄を向かわせたが自国に帰ったものなどひとりもいなかった。

 英雄ですら叶わない王に挑む者は次第にいなくなり、大陸は彼の進行をただ見ていることしか出来なかったのだ。

 彼の暴虐が大陸を支配し統一してから六年。


 彼は姿を消した。


 なぜ彼はそのような力を有していたのか。

 小国であったデルベート王国が大陸全土を支配する帝国にまで昇りつめた。


 なぜ、彼は消えたのか。




「大変です!エリシア様っ!」

「なにかしら...?朝から騒がしいわね...」

 眠い目を擦りながら彼女、エリシアは返事をした。

「アルス様がっ...皇帝がっ...」

 アルスが...?彼の身を案じたことなど数少ないが、統一してから何年。彼に挑むものなどおらず、病にすらならない彼の身に何があったのか。心配せずにはいられない。

「アルスに何があったの!」

「皇帝が、消えました...」

「消えた...?どういうことなの...?」

 たどたどしく仕いの者に聞く。脳の処理が間に合わない。

「今朝からお姿が見えなくて...探しているんですが...」

 彼女も言葉をゆっくりと、選びながら私に向ける。

「アルス様のいつも着けている、このピアスだけが玉座に落ちていて...」

 と彼女は手に載せたピアスを私に見えるように差し出す。

「これは...間違いないわ...アルスのピアスよ...」

 戸惑いが隠せない。この世で誰も敵わないと謳われた彼が、その彼が...。

「ヘンリ。皇帝が消えたことを知っているのは...他に誰が...?」

「仕いの中では...私だけです。それと秘書のメリエス様だけかと思われます...」

 エリシアは脳を震わせ、今何をすべきなのか思考を巡らせる。

「皇帝がいないということが知れ渡れば、この平穏は地獄に変わると思いなさいっ!」

 一言、彼女は言い放った。

「エリシアにも伝えて頂戴!私は少しこれからのことを考えます」

「はい。伝えてまいります」

 ヘンリが部屋から出た後、彼女は力が抜けるように腰を下ろした。

 どこにいるの。彼に、私は問いかける。


 帝国の主要人物が集められた。

 玉座の隣、彼女は自分のあるべき場所で言った。

「アルス皇帝は周辺都市の偵察へ出られた。そのため当面の間、皇帝の代理は私が努めます。異論あるものは名乗り出なさい」

 場がざわつく。この場には信用におけるものだけを呼んだつもりだが、アルスが消えたことなど誰にも言えるはずがなく。彼女は苦し紛れの対処をする。

「少しよろしいですかな...?べリム=ホッカス、軍の指揮を任されているものです」

 彼はアルスも信頼をおいていた指揮官。アルスがいない今、軍を指揮する彼にとって、私が皇帝の代理など不安要素でしかないのだろう。

「エリシア様が代理ということは承諾致しました。きっとそれは皇帝もお望みのことでしょう」

 彼が私の皇帝代理に納得していることに驚く。意図を聞かせろなどこちらを探ってくるに違いないと思っていた私は呆気に取られた。

「エリシア様、そう堅くせずに聞いていただければ。でないとこれから皇帝代理など務まりませんよ。王はいつなんどきも誰よりも偉大でなければならない。この場にいる全員があなたに従うのです。この言葉の意味を忘れぬようお願いします」

 彼の釘を刺す一言に心が重さを感じ、筋肉が強ばる。

「心しておくは、べリム」

「ご理解頂けてよかったです。本題ですが、私は軍をデルベートの王都、グリタニアに集めるべきかと思います」

「それはどういう意図があってかしら」

「皇帝が出かけている間、この国に攻めてくるものがいれば、無傷ではすみませんよ」

 軽く笑いながら言うべリム、いつ帰ってくるかも分からないことですし。と一言こちらを刺すように見つめていた。

 エリシアはこの男が怖かった。皇帝が消えたことはこの場にいるものは誰一人知らないというのに、彼は全てを見透かしたように私に言葉をひとつひとつ刺してくる。

「わかったわ...」

 きっと私の早とちりだといいのだけれど。彼がいない今、誰も信用できない状況に疲れているのだろう。

 皇帝はいつ頃帰るのか。これからの方針、政治云々、彼がやっていた仕事を引き継ぐ形で話をする。彼が王としての仕事をどれだけ全うしていたのかが身をもって分かる。

 話は終わり、皆バラバラに解散をしていく。解散し、終わったはずなのにべリムの言葉が肩に重く残り、安心ができない。


 これからのことを考えると気が気でない。もし皇帝がいないことが世界に知れ渡れば、私の命はそう長くはないだろう。彼が行った暴挙は沢山の命を奪った。この事実に変わりはない。

 何千何万という命の上に、この国はたっている。恨みや辛み、憎しみはどんなときも付いてきた。ツケが回ってきたと言うべきなのだろうか。

 今日はもう色々なことに頭を使い過ぎた。もう寝よう。


 皇帝が消えてから9ヶ月。世界は何の変化もないまま過ぎていく。

 私の生活は皇帝が消えてから一変した。王の許可が必要なことというのは、この国では沢山あった。書類に目を通していき、国の秩序を保つ。皇帝の仕事に慣れてきてはいるものの疲れは溜まっていく。

 気が抜けていた私のもとに、ひとつの手紙が部屋に置かれていた。何かに入っている訳でもなく、赤い紙がひとり。私の部屋にあるのだから私宛で間違いはないが、どこか禍々しい何かを感じた。

 息を飲み、手紙を手に取る。目に入る文字に私は手が震えた。

 どういうことなのか。私は理解したくなかった。理解してしまえば、彼の死を受け入れてしまうから。

「アルス...」

 手の震えが治まらない。手紙を持つ手が震える。手紙をもう一度、確かに見た。そこに違いはなかった。


『次はお前の番だ』


 手紙にはひとつの装飾品アクセサリーが破るようにして刺さっていた。

 これは間違いなく、誰が何と言おうと、私が彼にプレゼントしたものだった。

 彼はもう、この世にいない。もう彼の顔を見ることも声を聞くこともない。私は崩れた。

 足に力が入らない。最強で謳われた彼がいない帝国は破滅に進むのは時間の問題だろう。

 この9ヶ月、皇帝の死を噂する者が現れはじめ、幾度となく暴動をとめてきた。だが彼が戻る保証はどこにもない。私は何を頼りにすればいいのか。

 今まで彼が戻ると信じてきた。彼が戻ったとき、ただ玉座に戻るだけの国を目指し、支えてきた。戻る場所を作っていたというのに。

 彼の身に何があったのか。私は彼の妻として、女王として彼の側にいたかった。彼の声も聞けないまま、私は死ぬのだろうか。

 恐怖よりも孤独感に押し潰されそうでいた。


 手紙に刺さった装飾品アクセサリーを手にとった瞬間、眩い光が私を包み込むと同時に、彼の声が私の頭へ流れ込む。

「アルス...」

 無意識に涙が出る。頬からこぼれ落ちた涙。エリシアの顔に悲しみなどなく。目には光が灯っていた。




 あの手紙から数週間経った頃。皇帝の死は王都だけでなく、大陸全土にまで広がろうとしていた。皇帝の死を悲しむ者の声など聞こえるはずもなく、大陸は反旗で埋め尽くされていた。

 エリシアは王都陥落を恐れてはいたが、受け入れてもいた。時が来ただけのことだとどこか落ち着いていた。

「エリシア様。王都も囲まれてしまいましたね」

 軍の総司令であるべリムは最後まで私の見方であった。最後まで抵抗を見せたがあとは王都を囲む壁が最終関門といったところか。それもいずれ時間の問題だろう。

「べリム。ひとついいかしら」

「なんでしょう」

「彼は死んでなどないわ」

「そうですね、彼の強さは今後歴史に伝説として残るでしょうな」

「そうね...」

 きっとあと数時間もすれば、城に侵入してきた者に殺され、私の人生は幕を閉じていたことでしょう。

 だが、今の私は違う。彼から託された言葉を信じ、私は逃げない。この戦いを終わらす最後の切り札がある。

 今の私には、彼を信じるということだけしかできないけれど、私の希望なんてそれだけで充分なの。

「べリム総司令!」

 玉座の間に負傷した兵士が声をあげて入ってきた。彼もまた私、この国のために戦った者。彼らの命を無駄にするわけには行かない。

「頃合ね...」

 私は彼が言っていたある場所へ行かなければ。

「べリム」

 この場を去る前に一声かける。

「ありがとう。最後まで戦ってくれて」

 彼に背を向けながら私は足を動かした。

「まだ、終わっていませんから」

 と笑いながら言うべリムはどこか嬉しそうだった。私は振り返ることなく、その場所へ向かった。


 皇帝。アルスの部屋の前まで歩いた。彼の部屋に入ることは基本誰も許されていない。掃除係や世話係でさえアルスが直接呼んだもののみ許可されている。

 と言っても部屋に入ろうにもアルスがかけた魔法によって誰も入れないのだから関係ないのだけれど。

 今は違う。この部屋の魔法を解いているとアルスは言った。彼の部屋に私は入る。

 彼の部屋には数多の本が置いてある。昔から変わらないみたいだ。最強と謳われた皇帝は意外にも読書が好きな者だと知っているのは一体この世に何人いるのだろうか。

 私はそのうちのひとり。アルスに愛され、妻と認められた最初で最後の、たったひとりの女。この人生に後悔はないわ...。

 彼の言っていた合言葉を思い出す。あとは進むだけだとも言っていた。

「氷の門よ、開け」

 本棚が全て移動し、真ん中に地下への階段が現れた。薄暗く、どこか冷たい風を運んでいるような。

「外に...繋がっているの?」

 アルスは国を救う方法があると言っていた。

 まさか私を逃がすための逃げ道...。いやアルスを信じよう。

 私は逃げるわけにはいかない。この国の王として、私は最後まで戦うと心に決めたから。

 私は地下への階段を降り始めた。


 どれくらい降りただろうか。階段を降り続け気温も段々と冷たく、何かいけない空気が私を覆うようで、少し怖かった。

 先は真っ暗ではっきりと見えないが、何か扉のようなものを見つけた。

 アルスが言っていたのはこのこと...?妻をこんなにも歩かせて、今度会ったら殴ってやろうと心に決めた。会えるはずもないアルスを思い出す。

 楽しかったなと思い出に浸り心を落ち着かせようとするが、落ち着かない。正直怖かったんだ。覚悟を決めたとはいえ、死が目の前にある恐怖を鵜呑みにはできなかった。

 私は、足を震わせながら、悪魔が待つ扉をゆっくりと開け、進んだ。

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