第5話 世界に蔓延る緑について➄
僕は敷地の端から端をぷらぷらと歩いた。街全体がのっぺりとして見えた。プラモデルで出来た街のように立体感が欠けていた。立体感があって現実的なのは苔だけだった。生臭い緑の苔だけがしっかりとした質感を持って僕の前に現れていた。
散歩を続けていると灰色の塀を見つけた。もちろん辺り全体は苔で覆われていたが、一カ所だけ崩れて穴が開いている箇所がある。僕は辺りを見回してから近づき、覗き込んだ。心臓が早鐘のように鳴っている。どうしてここが区切られている、というだけでこんなに緊張するのだろう。目の前は小さな庭になっていて、女の子がパンジーの花に水をあげている。小学生くらいの年齢だろうか。ふっくらとした顔つきで真剣に花弁に滴る水滴を見つめている。こちらに気づくようすはない。やがてじょうろの水がなくなってしまうと彼女はステップをし始めた。春の訪れを想起させるように喜びに満ちたステップだった。彼女は右足を出す。回る。身体を捻る。それはとても自然な行為で、僕は最初なにが起きているのか理解できなかった。いや、彼女の動きがいったいなにと結びついているのか理解出来なかった。僕は心のなかに恐ろしい濁流が流れていくのを感じ、その場で立ち尽くした。どうして、僕が彼女のことを理解する必要があるのだろう、と思ったからだ。
そのとき、ポケットで携帯が震えた。感触を確かめているうちに二回止んだ。僕ははじかれるように歩き出した。三回目の電話は僕が歩道橋を歩いているときだった。僕はボタンを押した。
「ハロー。お兄ちゃん」
声の主は返事がないと分かると肘に当てていた手で鉛筆をくるりと回した。
「ハロー」
「……」
「もしもし?」
「聞こえてるよ」
「もしかして私の声も忘れちゃった?」
「いや」と僕は答える。歩道橋の欄干は寄りかかると今にも落ちそうな音がした。僕は妹と、一緒に飲んだレモネードのことを思い出す。橋の下では色とりどりの車が排気ガスをまき散らして走っていた。
「忘れるはずもないさ。ただ、電話で声を聞くのは久しぶりだったから」
「そうね」と彼女は言った。
沈黙の代わりに細かなノイズが聞こえた。ノイズは僕をざらざらとした気持ちに誘った。
「私たちの繋がりは血ではなく、思い出みたい」彼女は言った。
僕はじっと考え込んでいた。
「ああ、そうだね」
妹は通話を切る間際に兄と最後に顔を合わせたのはいつだったか思い出そうとした。おそらくは母親の葬式のはずだった。彼がまだ、まともだったことの話だ。記憶の中の兄は泣いており、葬式は花と煙草の匂いがした。
電話が切れるとまた車の喧噪が帰ってきた。僕はしばらくの間そこにいて、通り過ぎていく車を眺めた。そしてその数だけあるであろう運転手の人生に思いを馳せた。身体が冷えてくるとダウンのジッパーを上までぴっしり閉めた。分厚い雲が空を覆って、今にも雨が降りそうだった。帰りにコンビニでタンポポの花束とティッシュペーパーを買った。誰かにプレゼントするためだったが、誰にするべきなのか、どうしてそう考えたのかは既に三月の塵となってどこかへ行ってしまっていた。
世界に蔓延る緑について 魔法少女空間 @onakasyuumai
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