第4話 世界に蔓延る緑について➃

 僕は電気ポットでインスタントコーヒーをいれた。あっというまに部屋は半月ほど前まで働いていた職場のような雰囲気になった。僕は目を細めた。やはり、インスタントコーヒーだからといって、除け者にするのは良くない、と僕は思った。

 座椅子にもたれ、目を瞑ると、張り巡らされた原風景がさらさらと流れては消えていくのを感じた。猫についてだとか、森についてだとか、旅行先の電柱についてだとか、とりとめのない、でも誰かにとっては大切なものについての記憶について。それらがあるべきものがあるべき場所にあることをしっかりと確認し、ラベルが張られているのを知ると、僕は充足した気分で目を開いた。ようやく、一日が始まったような気分だった。ガラスの窓からは薄日がうっすらと漏れていたし、部屋を斑点模様に照らしていた。部屋は珈琲と雨と猫の小便みたいな匂いで充満していた。部屋の隅に霧のような影が出来た。どこからどう見ても金曜日の朝、という趣だったし、それを否定する材料はどこにもなかった。

 僕は視線を戻し、掌を見た。ほんと、なにげない行為。だけどそれは自分を断罪するための行為だったため、僕の目つきは渡された罪状を見る罪人のようになった。飲みかけの珈琲、電気ポット、散乱した大量のトイレットペーパーたち。まったく、俯瞰してみれば素晴らしいことこの上ない。画面には二人の女の子が優しく微笑んでいた。さっきまではとびっきりの笑顔だった。僕は細やかな電子たちを睨むように見つめた。一人は赤色の髪の毛で、もう一人は青色の髪の毛をしている。共通しているのは二人とも水着を着ていることだった。そしてまだ、微笑んでいる。そこにはもう、どうしようもなくなってしまった夢みたいな跡があった。思わず僕は音のない引き笑いをした。二人が、あなたはもう、私たちのそばからは離れられない、と宣言をしているような気分になったからだ。

 僕は立ち上がり、鍵を取った。自らの手で扉を閉め、泥のように混沌とする部屋から規律が降ってくる世界のなかを歩こうとした。街中苔ばかりでどこもかしこも生臭い匂いがする。パン屋も、肉屋も、電気屋も、目に映るもの全て。僕はとりあえず近所の小学校に向かって歩くことにした。小学校は僕の気が休まる数少ない場所だった。現在と過去を等直線上に線を引いて、それをまたずらしてくれる。その振り子の運動で、僕は見たかった可能性を見れるのだ。信号機の前に立ち尽くすと目の前に深い溝が出来た。その溝を跳び越えながら思うことは、またあの子に会いたいな、ということだった。

「いいかい。君は夢見がちだから」と医者は低い声で言った。「できるだけ楽観的になるんだ。くれぐれも世界をシャボンで出来ていると思わないこと」まったく、余計なお世話だ。僕は恋も出来るし、散歩も出来る。それを立派な人間を呼ぶんじゃないか。校門までくると僕の進軍は止まった。門には『関係者以外立ち入り禁止』の張り紙があった。鉄格子の門の上には、黒く、重々しいカメラが取り付けてある。僕はじっとそれを見た。カメラも僕を見つめているようだった。「出てこいよ」と僕は言った。返事はなかった。「聞こえているんだろ」と僕は怒鳴った。返事は聞こえなかった。僕は無性に腹が立ってきていた。

「別に君が入るなというのなら僕は入らない。僕だってどうしても学校に行きたいわけじゃないんだ。どうせろくなものがないだろうというのは僕にだってきちんとわかっているしね。

 ただ、『入るな』と言うのに紙切れ一枚でどうにかしようというそのことに僕は腹を立てているんだよ。分かるか。僕はこうして必死になって喋っている。その向こうで君たちは欠伸混じりに僕を見ている。それのどこに対話があるというんだよ。尊厳があるというんだよ。礼節があるというんだよ」

 言い切ってしまうと僕は背を向けて、歩き出した。すっかり泣き出しそうな気分になっていたが、ここで泣いてしまうわけにはいかなかった。それではいつもの繰り返しになってしまう。

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