【19】不吉な何か

「おい、待ってくれヴィオラ夫人!」


エデンは立ち止まらなかった。中庭から、一目散に駆け去っていく。


すれ違う侍従や女官が、驚いた様子でエデンを見ていた。それでも、エデンは止まらない。


(エデン、待って!)

心の奥から私が叫んでも、エデンは聞いてはくれなかった。


エデンは逃げ出したいのかもしれない。

でも……何から逃げ出したいの?

殿下から? 宮廷から? ……きっと違う。


エデンは酷く困惑している。

私も同じだ。

気持ちも考えもまとまらず、どうしたらいいか分からない。いつの間にか、目に涙が滲んでいた。


レオカディオ殿下に言われた言葉が頭に残響していた。



『エデンは爵位を得て、あなたに求婚するつもりだった』

『エデンはあなたを愛していた』



そんなの、思いも寄らなかった。

エデンは、ノイリス家への忠義心で私を守ってくれているのだと思っていた。

……でも、違ったの?

本当は、私を想ってくれていたの?


……私だって、エデンを恋しく想っていた。

ずっと、ずっと。

幼い頃、一緒に遊んでいた頃も。

護衛騎士として、支えてもらっていた頃も。

そして命を失ってもなお、一緒に生きてくれている今も。


本当は、ずっとエデンが好きだった。

でも、身分や立場が違う。

だから私は、想いを伝えるのを我慢していた。


まさかエデンも同じだったなんて……。

同じの体の中にいるのに、あなたの想いなんて、全然知らなかった。



胸が苦しい。

私はエデンに、どんな言葉をかけたら良いのだろう。


   ・


どこをどう走ったか分からないうちに、エデンは林の中を進んでいた。

このセルマ王国の王城は、城壁内の中心部に広大な自然林を有している――数百年前の建国の際に国内の魔力を安定させる目的で、この自然林を抱き込むように王城を建設したのだと聞いている。ここの木々は樹齢数千年とも言われていて、邪悪な魔力を鎮める働きがあるのだとか。



ようやく立ち止まったエデンは、ぜいぜいと息を切らせて林の幹にもたれかかった。

「申し訳ありません、ヴィオラ様。俺は……」

(いいの。もう、謝らないで)

「しかし、俺は勝手なことをしました。レオ、いえ、殿下の前で失態を……」

(あなたのせいじゃないわ……)


気まずい沈黙が続く。

いつの間にか日が傾いてきて、なんだか肌寒くなってきた。いつまでも、この場にとどまっている訳にはいかない。


(戻りましょう、エデン。レオカディオ殿下に非礼を詫びてから、公爵邸に帰らないと。……ルシウス様の顔を見るのは、気が重いけれど)

「……はい」


私は努めて明るい声で言った。


(気は重いけれど、きっとだいじょうぶよ。殿下もルシウス様も、うまくごまかして切り抜けましょう? ふたりで一緒に知恵を絞れば、きっとなんとかなると思うの。……エデンが一緒なら、私、がんばれるから)

「ヴィオラ様……」

エデンがさらに言葉を発しようとしたそのとき。


――ぞくっとする気配が、肌を刺した。

「(……!?)」

がくり、とエデンは膝をついた。心臓がばくばくと音を立て、冷たい汗が全身を伝う――常軌を逸した、おぞましい『何か』の気配に、エデンは気色ばんでいた。


この林の、さらに奥のほうから。

異様な『何か』の気配がしている。


(エデン! 大丈夫!?)

「はい。……しかし、妙な気配がします」

邪悪で残忍な何かが、この先で息をひそめている。しかし……何が?


身の危険を感じる。

逃げなければいけないような、逃げ出してはいけないような、理解不能な焦燥感が私の胸を満たしていった。

エデンは石になったかのように、身動きできずその場で膝をついていた。


――そのとき。

「ヴィオラ夫人!!」

後ろから声を掛けられた。

林の入り口のほうから駆けつけてきたレオカディオ殿下が、エデンを呼び止めたのだ。殿下は、こちらに駆け寄ってきた。


「よかったよ、ヴィオラ夫人。やっと見つけられた」

「レオ、……カディオ殿下。先程は大変な非礼を――」

謝罪するエデンに、レオカディオ殿下は言った。


「いや、非礼を詫びるべきは俺のほうだ。俺が不分別だったばかりに、ヴィオラ夫人を傷つけてしまった。……あなたが取り乱すのも無理はない」


レオカディオ殿下は、この『異質な気配』に気付いていないのだろうか? 気配への反応を見せる様子もなく、殿下はエデンに話し続けている。


「あなたが困っていることがあれば、俺はエデンの友人として助力を惜しまない。――俺が言うべき言葉は、本来ならそれだけだったんだ。馬車を出すよ、公爵邸まで屋敷まで送らせてくれ」


レオカディオ殿下に促され、エデンは林をあとにした。『異質な何か』のことを尋ねる機会も見いだせず、そのまま帰路についたのだった。

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