第三十三話 帰宅後の一悶着
師匠から今後もこの森に訪れるための約束を取り付けた俺は、それまで横たわらせていた身体を勢いに乗せて起き上がらせた。
地面はそれほどぬかるんだ場所ではないのでそこまで汚れてはいないが、やはり地面に横になっていたので多少は泥が付着してしまっていたようだ。
これは帰ったら、念入りに洗った方が良さそうだ。
そこまで考えた辺りで、隣で立っていた師匠から声を掛けられる。
「それじゃあ、今日はこれ以上ここに居座る理由もないしそろそろ帰ろうか」
「そうですね。俺も残りの時間は屋敷でゆっくり休みたい気分ですし」
やろうと思えばまだまだここで魔法の実験なんかをしたいところなのだが、そんな俺の意思とは反して身体の方は休息を求めている。
いくら何でも今からさらに無茶を重ねるわけにはいかないということは俺でも理解できているので、ここらが今日の限界だろう。
「なら【
「…はい。分かりました」
そう考えると同時に師匠からその美しい手がこちらに向けて差し出され、汚れてしまっている俺の手でそれを握るのは何だか憚られるような気もしたが、躊躇っていたところで仕方がないので割り切って握らせてもらう。
【
考えようによっては、それほどまでに凄まじい力を持っておきながら接しやすい人だとも捉えられることだし、一概に悪いことばかりでもないけどさ。
そんなくだらない思考に俺が耽っていると、その間に彼女の方も準備が整えられたようで周辺に魔力が集まってきているのが見て取れる。
それを確認すると同時に、俺たちの足元へと膨大な魔力は収束していき……それは発動させられる。
「しっかり掴まっててねー。【
【
数分前まで激闘が繰り広げられていた空間には、元通りの森の静寂が広がっていくのだった。
「はい、到着ー! やっぱり森もいいけど、この街の空気も捨てがたいねー」
「相変わらず移動は一瞬ですね。俺もいつか使えるようになりたいですけど……」
一瞬で切り替わった景色に追いつかない視界を落ち着かせながら、体感した魔法の利便性には惹かれるものがある。
ネックとなってくる魔力量の問題で自力での発動はできないが、いつか絶対に自分の手でこの魔法を使ってみたいと思うのは、目標としても悪いことではないだろう。
だがそれも追々だ。
少なくとも、今すぐにどうこうなるものでもない。
「そういえば、俺たちってどこに転移してきたんですか? 屋敷ではないみたいですけど」
「さすがに貴族の屋敷に直接転移したら不法侵入だと勘違いされることもあるからね。そうなったらお互いに面倒だし、ひとまず伯爵領都の中心部付近に飛んできたんだよ」
「なるほど………ん? 師匠、その言い方だとまるで前に不法侵入だと勘違いされたことがあるみたいな言い方ですけど…やったことがあるんですか?」
「……さぁ! あまり遅くなるとアクトも心配されるだろうし、早いところ戻ろうか!」
「…あからさまに話題逸らしてもバレバレですからね?」
現在の場所を確認しようと周辺を見渡して見れば、どうやらどこかの裏路地のような場所に飛んできたようだ。
師匠の言う通り、俺たちが暮らしている屋敷に直接向かうのはリスクが高いし、一般の領民に【
…まさか本当にやっているとは思ってもいなかったので若干面食らったが、この人ならばありえなくもないと思ってしまったことも事実だった。
俺から視線を逸らしながら全力でこの話題から逃れようとする師匠の姿は、何だか見ていて少々の情けなさすら感じさせてくる。
そんな雰囲気を醸し出しながらとっととその足を進めてこの場を後にしようとしているので、こちらも特に逆らうことなくその後ろ姿についていった。
思わぬ形で知った師匠の過去だが、ほんの少し覗いて見える赤くなった耳が何よりも雄弁に彼女の情緒を示しているのだろう。
それ以上は俺も追及するのは野暮かと思い、特にその話題に触れることもなく足を進めていった。
そうこうしている内にすぐに屋敷まで辿り着くこともできたので、門の前に立っていた見張り役に声を掛けてその入口を通してもらう。
門番も俺のボロボロになった様子に少し驚いた様子を見せていたが、やはりそこはベテランと言うべきかその表情は顔に出さず、そのまま素通りさせてもらった。
そこからは無事に帰ってきたことを一度父さんへと報告しに行き、軽く体に付着していた汚れを落としてから部屋へと戻っていく。
…さすがの父さんも俺が警報級の魔獣を討伐したと言った時には目を丸くしていたけど、それと同じくらい俺に無茶な目標を設定してきた師匠を軽く責めるようにしていた。
ただ、肝心の本人がどこ吹く風といった様子でのらりくらりとやり過ごすものだから、どこか疲れたようにその言及もいつの間にか止んでしまっていた。
あの父さんに対して、気疲れさせるとかうちの師匠の自由奔放さにはもはや感嘆の声すら出てくるが、もうこれに関しては俺たちの中でも周知の事実のようなものなので、父さんも本気で怒っていたわけではないんだろう。
あれでも父さんと母さんは師匠とも古い付き合いだと言っていたし、ああいった軽い言い合いのような光景もあの人たちなりのコミュニケーションの一つなんだ。
…まぁ、そんな中でも叱られているのが師匠というのはものすごく腑に落ちるものではあったけど、それは隅に置いておこう。
なんにせよ、特に大きな怪我もなく初の実践訓練を終えられた俺は意気揚々と途中で合流した師匠と屋敷の廊下を歩いていき……その通り道に立っていた彼女と鉢合わせた。
「……にぃさま。お久しぶりです」
「…フ、フーリ? どうしたんだ? そんな不機嫌そうな顔して……」
そこにいたのは、見間違えるはずもない最愛の妹であるフーリ。
その可愛らしさあふれる顔には、普段なら満面の笑みを浮かべながらこちらへと駆け寄ってきてくれるはずだが……どうしてか今日に限っては、ムスッとした表情をしながら俺と師匠の行く先を阻んでいるかのようだった。
フーリから放たれるいかにも不機嫌という様子と、これまでに見たことが無い反応に思わず戸惑ってしまい、そんな態度を取られる理由にも思い当たることが無いので動揺してしまうが……そんなことをしていると、彼女が固く閉ざしていた口を開いてきた。
「…にぃさま。こんな時間までどこに赴かれていたのですか?」
「えっ? どこって……さっきまで師匠と実戦訓練にダグ森林まで行ってたけど…」
俺が実戦訓練に赴いている間はフーリは教会に治療のボランティアへと出向いていたはずなので、おそらくそれを終えて戻ってきたところなのだろう。
しかし、そんな彼女が質問してきたことへの意図がいまいちつかめず首を傾げていると、予想外の言葉が放たれてきた。
「…むぅ! 私、そんなところまでにぃさまが行くなんて聞いていません! どうして事前に教えてくれなかったのですか!」
「……え?」
怒り心頭といった様子で自分に黙って出ていったことに対する怒りを俺たちにぶつけてきたフーリだが……その事実に、俺の方が呆気に取られてしまう。
何せ、俺は訓練に出る前から家族には俺が森に赴くことは伝えられているものだとばかり思っていたし、実際に師匠からは出ていく許可はもらっていると伝えられていた。
ゆえに当然フーリも訓練に行くことは知っていると思っていたのだが、まさか違ったのか?
(ちょっ、どういうことですか師匠! 俺はてっきり師匠の方からフーリに伝えてるものだとばかり思ってたんですけど!)
(…いや、私はガリアンたちに許可はもらって来たけど、フーリには何も言ってないからね!? そもそも私が訪ねてきた時にはあの子、もう教会に向かってたじゃん!)
(…そう言われれば、確かに)
フーリからの発言を聞くと同時に、俺と師匠は互いに小声でのやり取りを通じて情報共有を行う。
俺としては、師匠からフーリに対する伝達がなされていたとばかり思っていたのだが、言われてみれば彼女が屋敷にやってきたタイミングで既にフーリは教会に向けて出発していた。
そのすれ違いを考えれば師匠からフーリに何かを伝えるのは、それこそ魔法か何かでも使わなければ不可能であり、その魔法だって使われた形跡は見ていない。
つまり、俺たちはどちらもフーリに何も言わないまま出かけてしまい、結果的にではあるが彼女を放っておくような形になってしまったと………。
…うん。どう考えても百パーセントこちらが悪い。
いくら師匠から持ち掛けられた訓練のために必要なことだったとはいえ、やろうと思えば使用人に伝言を頼んでおくことだってできたのだから、それを怠って彼女の寂しい思いをさせてしまったのは兄である俺の不手際だ。
「ご、ごめんなフーリ? 俺もフーリを放っておくつもりはなかったんだよ」
「…本当ですか?」
「本当だ…って、そんなこと言ったところで信用なんてできないかもしれないけど…」
フーリを安心させるためにも放置しておくつもりはなかった、なんて言葉を口にしたが、どれだけ取り繕っていても口では何とでも言えてしまう。
本当の意味で彼女を安心させるためには、何か行動で安心させられるようなことを示すのが一番だが……あいにく、そんな都合のいいことはパッとは思い浮かびあがってこなかった。
何か良いアイデアはないか。
そんなことを思案しながらぐるぐると思考を加速させていくが……そこまで考えた辺りで、他でもない彼女本人から申し出が掛けられる。
「…なら、今ここで私を抱きしめてください。そうしたら今回のことは許します!」
「…え、そんなことでいいのか?」
「これがいいんです! …はい、お願いします!」
そう言うと、自身の両の手を大きく開きながら俺の行動を待ち構えるかのような体勢を整えるフーリ。
正直、抱きしめるくらいのことで機嫌を直してくれるのなら安いものなので、少し身構えていた分気が抜けてしまったが、他でもない妹からの要望なのだ。
断る理由もないし、俺も彼女との触れ合いなら大歓迎だ。
「なら…これでいいか?」
「…んふふ。やはりにぃさまの匂いは格別です」
「匂いって……あまりそういうことは外では言わないようにするんだぞ?」
「大丈夫です! 私がこうして甘えるのは未来永劫にぃさまの前だけです!」
「それはそれで心配になるけどな……」
フーリの全身を包み込むようにこの手を回してやれば、彼女は俺の胸に顔をうずめるようにしてその顔を緩めていた。
その中で何だか妹の新たな一面が顔をのぞかせてきた気がするが……そこは気にしたら負けだろう。
フーリが俺の前で甘えるのだって今に始まったことではないし、それがいつか改善するのかどうかは……まぁ、今は考えるのはよしておこう。
どこまでいこうと俺がフーリを最優先にするのは変わらないのだから、考えたところで無駄というものだ。
そんな思考を頭の中で巡らせながら数分、彼女の好きなようにさせているとようやく満足でもしたのか、抱きしめていた腕を緩めて距離を開けていった。
「…ふぅ。ありがとうございました。これでしばらくはにぃさまの体温を思い出して過ごしていけます」
「これくらいいつでもやってやるさ。さすがに時と場所は選んでのことだけどな」
「…いやいや、なんでフーリの発言をサラッと受け流せてるのさ。今明らかにブラコンが進行してる発言してたよね?」
「…? おかしなことを言いますね、レティシア。私がにぃさまが居なければ生きていけないことなんてわかり切っているでしょう」
「あー…もう駄目だこの子。完全に手遅れのところまでいってるよ。…これ、完全に愛情注ぎすぎたアクトの責任だからね?」
「……自覚はしてますよ」
俺たち二人が抱きしめ合っているところを黙って見守ってくれていた師匠だったが、さすがに今のフーリの発言は受け流しきれなかったのか口を挟んできた。
…うん。俺もフーリが相当にブラコンなことはなんとなく察していたけれど、ぶっちゃけ俺の方もフーリが居なければ生きていけないということに関しては全面的に同意なので、お互い様でもある。
既にどちらも手遅れのようなものだし、師匠の困惑も分からないではないが……言ったところで意味などないのだ。
その後も頭痛を押さえるように頭に手をやっている師匠の追求をそれとなくやり過ごしながら、三人での対話を楽しんだ。
あぁそれと、その途中で今後も訓練のために森に出かけることをフーリにも伝えて何とか了承はもらうことができた。
…その過程で再び機嫌を損ねてしまった彼女に、またもやご機嫌取りに注力することになったのはここだけの話だ。
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