第二十六話 訓練の手引き
師匠に実戦訓練をすると告げられて準備を整えてからやってきた屋敷の庭。
数秒前までは確かに俺たちはそこにいたはずなのだが……どうしてか、この目の前に広がる鬱蒼とした木々の香りはそれが本物だと俺に対して明確に伝えてくるようだった。
「無事に到着したみたいだね。座標がずれないかちょっと心配だったんだけど、上手く言ったんなら問題無し!」
「……『問題無し!』、じゃないですよ。まさか【
あまりにも唐突な展開が重なりすぎてこちらも聞きたいことが山積みだが、まず何よりも師匠が【
そもそも【
何しろ、交通手段がまだまだ未発達のこの世界において物理的距離が無視できるという事実は前世と比較しても比べ物にならないほどに高い価値を有している。
それは交易面といった物流という観点から考えても、それに加えて軍事面といった視点から見ても明らかだ。
…あまり考えたくはないことだが、この魔法の有効活用の仕方を追求しようとすればそれこそ、ターゲットとなる相手の部屋にでも直接赴いて暗殺にでも利用しようとすれば悪用し放題だ。
当然、そんなことをすれば犯罪者扱いとなって冷たい牢獄に送り込まれるだけだが、そういった方向でも転用できるということだ。
しかし当然として、その有用性に比例するかのように【
まずこの魔法だが、使用するためには圧倒的な魔力量を有していることが前提となっている。その消費量は尋常なものではなく、それだけでも使い手は相当に限られていると断言してもいいだろう。
そしてそこに重なってくるかのように、転移先の到達ポイントを指定するために細やかな魔力操作の練度が要求され、それもまた並のレベルでは扱えないとされているレベルだ。
以上の理由から、この【
…いやまぁ、別に使えたからと言って何も不思議ではないんだけどさ。
師匠の魔力量なら【
単に俺がこの展開を想定できていなかったから少し狼狽していただけのことで、冷静に思い返してみればそれくらいのことはできて当然なんだろう。
突然のことではあったが、俺の師匠の凄まじさを久しぶりに目の当たりにした気分だ。
あぁ。それとちなみにだが、俺はこの魔法は発動することができない。
魔力操作の技術方面は余裕で扱えるレベルに到達しているのだが、如何せん魔力量の方が圧倒的に足りていない。
もし無理に発動させようとすれば間違いなく魔力が枯渇して倒れるだけだろうし、こればっかりは仕方がない。
世知辛いばかりだが、いずれは解決策でも探ってみようか。
っと、今はそんなことばかり考えている時でもなかったな。
師匠が【
…だが、それと同じくらいに聞いておきたいことは現在俺たちがいる場所のことだった。
少し周辺を見渡して見れば一面は緑に囲まれており、明らかに数十秒前まで見慣れていた街の光景とはかけ離れた景色が広がっている。
俺もフィービル伯爵領に生まれてから数年は経過しているが、このような場所に来た覚えはないので、もしや別の領地だったりするのだろうか……?
そんな疑問を脳内で巡らせていると、俺が投げかけた質問に対して師匠が口を開いて解答してくれた。
「あれ、アクト知らなかったっけ? 確か名前は『ダグ森林』とかいう森だった気がするけど……」
「…思いっきり危険地帯じゃないですか………」
師匠から告げられたその森の名前は、俺たちフィービル伯爵領が治める領地の最南端に位置している巨大な密林地帯の名称だった。
そして、ここは数ある自然環境の中でも指折りの危険地帯として名が知れている場所でもあった。
その理由としては、ここが数多の魔獣が生息している場所であり、森のほとんどが彼らの縄張りと化していることが挙げられる。
ひとたび足を踏み入れれば方向感覚は狂わされ、油断していればいつの間には近づいてきた魔獣に身を食い破られるなんて噂がされるくらいであり、恐れ知らずの怖いもの知らずですら入るのには躊躇すると言われているくらいだ。
…そして、そんな危険なんて言葉では足りないくらいの場所に俺たちは今現在いるわけで………。
「わざわざ訓練場所をここにしなくてもいいでしょう……下手すれば命を落としますよ」
「だいじょぶだいじょぶ! 私が育てたアクトがこれくらいで死ぬわけないって。そんな柔な鍛え方をした覚えもないからね!」
「それはまぁ……そうですけど」
最初こそ自分たちが置かれている環境に思考が追い付かなかったが、確かに師匠の言う通り、この程度で死ぬと思うような生ぬるい鍛錬を重ねてきたつもりはない。
なんせこちとら、あの『炎舞の魔女』直々に指導を賜っているのだから、それを加味したとしてもそれなりに戦える自信はあった。
初めての実戦でもあるし、油断をするつもりは毛頭ないが……客観的に見たとしても俺の実力はそれなりのものに仕上がってきているだろうし、何より師匠から問題ないと太鼓判を押されているのだ。
ならば、俺が妙なミスさえしなければ大丈夫なのだろう。
「というか、ここに来ることは父さんたちに知らせてあるんですか? 無断だったら少しまずいと思うんですけど」
「そこに関しても問題ないよ! ガリアンたちにも許可は取ってあるし、『貴族として自治領内の治安維持活動も経験しておくべきだ』って言って誤魔化──ゴホンッ、説得してきたからね!」
「今誤魔化したって言いましたよね? 絶対無理やり押しとおってきましたよね?」
何やら不穏な言葉が師匠の口から飛び出してきた気がするが、それを追求しようとすると明後日の方向を向いて何も聞いてない振りをされてしまった。
…全く誤魔化せていないし、屋敷に帰ったら師匠が父さんたちから説教を受けている未来が幻視できたが、それに関しては俺の知ったことではない。
まぁ、ここまで来てしまった以上俺一人では屋敷には戻れないし、諦めて気持ちを切り替えた方が賢明か。
「い、いや、そんなことはないよ? 実際、普段はここの魔獣が森からあふれ出てこないようにガリアンが冒険者ギルドに間引きの依頼をしてるけど、私たちが訓練ついでに討伐しちゃえばそれをする必要もない! 一石二鳥だしね!」
「…明らかに今思いついた感じでしたけど、まぁ良いです」
どこか言い訳をするかのように目を泳がせながら言葉を続ける師匠に呆れてきそうになるが、彼女の言うこともあながち間違いでもない。
今彼女の口から何気なく出されてきたが、この世界では冒険者と呼ばれている便利屋に近い職業に就いている者達がいる。
いかにもファンタジー要素盛りだくさんなようにも思える言葉だが、その想像に漏れず彼らは貴族や民衆からもたらされた依頼をこなすことで生計を立てている。
その依頼の幅も相当に広いものがあり、魔獣の討伐や薬草の採取、果てには荷物運びなんて雑用のようなものまで存在している。
だが、その職業柄ゆえかどうかは定かではないが、冒険者というのは荒事を生業にすることが多いからか、冒険者ギルドに所属している者達は素行が荒い者が多かったり、その態度が粗野な人物がほとんどだったりする。
もちろん全てがそのような人物だというわけではないし、一部の中には礼儀をしっかりと重んじている者だっているので、決めつけるのは良くないが……そのような者が多いことも変えようのない事実だということだ。
それは今は置いておいて良いだろう。
そんな冒険者を数多く抱えている冒険者ギルドだが、基本的にギルドは所属している者達に対して放任主義というか、一定期間に規定の数の依頼さえこなしてくれれば問題ないというスタンスを取っている。
そんなんで大丈夫なのかと思わなくもないが、それでもしっかりとギルドは問題なく回り続けているし、上手く稼働はできているのだろう。
適当にも思える冒険者ギルドだが、あそこにも最低限のルールは一応存在し、一般人に無用な危害を与えてはならないだったり、依頼失敗時には違約金が発生するだったり、ギルドへの貢献度や当人の実力に応じてF~Aのランク付けがされたりと、組織として運営するために必要な規則は整えられている。
粗暴な人物が多い場所ではあまり規則で縛りすぎてしまうといずれ爆発するだけだろうし、そのルールの締め付けの甘さもどうしようもないことか。
それに、冒険者の中でもAランクという最高位に位置する等級にたどり着いた実力者はとてつもない力量を持っていると聞かされたことがあるし、いざという時には頼れる戦力として数えられることも間違いない。
冒険者というものに関してはこんなところだろうか。
そんなちょっとした雑事を任せるには最適な彼らだが、先ほど師匠が言っていたように俺たちフィービル伯爵家は定期的に冒険者に向けて、ここダグ森林に住まう魔獣の討伐を依頼している。
その主な理由としては、魔獣の繁殖性の高さにあるだろう。
やつらはその生態もよく分かっていない部分も多いが、数少ない判明している事実として繁殖率が非常に高いことが知られている。
細かい数値は種別によって変化してくるが、他の無害な生物と比較すれば圧倒的な成長率を誇り、放っておけばあっという間に群れを成して人里を襲い始めてしまうくらいだ。
それはこのダグ森林も例外ではなく、ほんの少しの期間放置しただけで膨れ上がった魔獣のほとんどが街へと襲い掛かってくることだろう。
そのようなことを起こさせないためにも、父さんは常に冒険者ギルドに魔獣討伐の依頼を出すようにしているが、それにも手間や時間はかかってしまう。
そんな中で持ち掛けられたのが、俺の実戦訓練だ。
森に潜んでいる魔獣の数を減らすついでに、俺自身の実力を高めるための鍛錬材料となってもらう。
…そう考えれば、悪くはない……のか?
何だか俺の考えも大分師匠に毒されてきてしまった気がしてくるが、これに限ってはもう手遅れだと思って諦める他ないだろう。
そうとでも考えなければ、この人の指導になんてついていけないし。
ともかく、突発的に始まった俺の初めての実戦訓練は、穏やかとは言い難いものになっていたのだった。
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