第8話 目的地

 川沿いに北西へ歩いて一日。川からそれて西に向かって進んで一日。宿場町をよけ、街道と原野、森、小高くなった山の中と巧みに進路を使い分けて比較的安全な場所を進み続けていた森太郎と由乃は、東和国を出てから八日経って、ようやく宮津子国みやつこのくにまであと四里(約15.7km)のところまでたどり着いていた。

 当初、危険視されていた急峻な山岳地帯を避けたおかげで、怪異に出くわすこと自体はあったが、それでも二人で対応できない程のものではなかった。多少の擦り傷はつくっていたが、それでも五体満足に生きてここまでこれた。

 ちょうど宿場町を避けて歩き、再び街道に戻ってきていた。街道沿いに東へ進めば、七町(約763m)先には宮津子国に最も近い宿場町。そして西へ進めば宮津子国である。

 森太郎は安堵の息を漏らし、書き込みと汗でボロボロになった地図を畳んでカバンにしまった。ここまでくれば、あとは道なりに進むだけ。街道の結界の中なら、弱い怪異は入れないし、強くとも結界を破るまで時間がかかる。街道の左右は、街路樹のようにまばらに木が生えているだけで、見通しの良い野原が広がっている。

「長かったね……」

 感慨にひたった由乃の声が横から聞こえてきた。

 本当に長かった。何度イラついたか、何度冷や汗をかいたか記憶にない。森太郎には気の休まる瞬間というものがなかった。

「本当にな」

「ありがとう、森太郎。あなたのおかげで、ここまでこれたよ」

「喜ぶのはまだ早いぞ。まだ宮津子国の関所をどう抜けるかって問題が残ってる」

「そうだったね。外遊、というか留学、みたいなことにするのはどうかな?」

「無理がある。そういった証明書は持ってないし、商人と言い張るには軽装過ぎる」

「そっかー……。どうしたもんだろうね……」

 街道を歩きながら二人で頭を悩ませる。せめて、関所まであと一里という場所までには方針を固めておきたい。

 しかし、国を一時出るための方便はどうにかできても、他国から来た身の上である自分たちが、中に入るための言い訳というのはそう簡単には浮かばない。

 正当性も身上も証明する手立てがない。こればかりは誰か証人でもいるか、はたまた行商の人間の同情を買ってなんとか国内に入れてもらえるよう交渉する以外に方法がないように思えてくる。

 ある程度の案を二人で出しあった後、押し黙って思案しながら歩いていると、隣から由乃の悲鳴が聞こえた。

 何事かと思って由乃の視線を追うと、その先には、一人の男が立っていた。

(馬鹿な……。そんなことがあるのか……!?)

 森太郎も思わず息を呑む。頬を冷たい汗が流れた。東和国とうわのくにを出る直前と同じ緊張がはしる。

 目の前にいたのは、あざみ有禅ゆうぜん。絹原家の執事である。

「どうも。久しぶりですね、お嬢様」

「有禅……」

 由乃が森太郎の袖を握る。これまで、問答無用に襲い掛かってくる灰猿にも、真意の読めない惟種にも怯えることのなかった由乃が、再び有禅を前にして恐怖している。手は既に小刻みに震えていた。

「それと、こちらもお久しぶりですかね?森太郎くん」

「ええ……そうですね」

 由乃が森太郎を見上げる。まさか面識があるとは思っていなかったのだろう。

 森太郎の居候する里中家と絹原家の別邸は隣同士。必然、近所づきあいもあれば、家長のお使いで絹原家を訪ねることもある。その折、毎度自分の対応をしてくれていたのが他でもない有禅であったのだ。

 由乃には話したことがなかったが、そこそこ会話は交わしている間柄である。だからこそ、森太郎は由乃から聞いた有禅の姿に、自分が相対していた執事の姿との相違を感じていた。

 そして、今目の前にいる有禅は、由乃から聞いていた方の姿であろう。顔は優しく微笑みをたたえているのに、目の奥が笑っていない。体からは、なにか色のついた靄でも立ち上りそうな雰囲気が醸し出されている。

 手を後ろ手に組んでいるのは、そこに暗器を持っているからではないかと思うくらいだった。

「あの後、大変だったんですよ?旦那様は取り乱すし、兄君も探しに出ると言って聞かないくらいで」

「そう……」

 由乃が消え入りそうな声で答える。何か言いたいことはあるのだろうが、有禅を前に辛うじて声を絞り出したようだった。本当にこの男が苦手なのだと、森太郎は思う。

 身動きも応答も出来そうにない由乃に代わり、森太郎が応えた。

「そうでしょうね。絹原のお家にとっては一人娘でしょうから」

「ええ」

「でも、これまで大切にされてこなかったと聞き及んでおりますが……」

「お嬢様からお聞きになったと?」

 有禅の瞳が険を帯びる。その険しさに、森太郎は一瞬呑まれそうになる。それをすんでのところで堪え、真っ直ぐに有禅を見つめ返す。

「はい。本邸ではなく、別邸に住まわされているのに、そこに会いに来ることもなかったと」

「そうですか」

「それに、あなたからもかなり手厳しい訓練を受けたようで。私はそれを聞いて、暴力を振るわれていると思いましたよ」

「ほう……」

 森太郎の精一杯の煽りであった。そんなことをしていた家に、誰が帰りたいと思うのか、と責め立てているつもりだった。一方で、有禅の方は微笑みを崩さないまま、指を顎にあてて思案するふりをする。そんなことは百も承知だと言わんばかりの姿勢であった。

「随分と都合のいいお家ですね」

「貴族というのはそういうものですよ」

 暖簾に腕押しとはこのことである。森太郎が何を言おうとも、有禅の余裕は崩れなかった。

「それよりも、森太郎くんの方こそ、随分と大胆になったじゃありませんか。まさか、貴族のご令嬢を勾引かどわかして他国に逃げ延びようとは」

「はっ!誰が好き好んでそんなことするもんかよ」

 森太郎の口調がくずれる。珍しく頭に血が上っていたのだ。

 森太郎はこれまで、他人に対して感情移入をすることはなかった。どれだけ大変そうにしていても、他人の事情は他人の事情と切り捨ててきた。実際、今回旅に出たのも、国内で誘拐犯にされたくなかったがための、延命のためである。

 しかし、この旅を通じて、森太郎は由乃に、自分の影を重ねていた。

 “やりたいことがある”。その事柄は、他のどの物事をおいても、成し遂げたいと思う願いだった。気付いた時には胸中をそれだけが占めて、他の事柄がぼやけていく、夢の中にあるような、熱病に侵されたような心持ち。

神経質で用心深い自分と、好奇心旺盛で何事にも臆せず突き進む由乃に、唯一存在した共通事項だった。

 その由乃の“やりたいこと”を阻害するのが絹原の家だ。“やりたくないこと”を強制するのが絹原の家だ。

 自分は運よく周りに恵まれて“やりたいこと”に触れることが出来たが、由乃にはその自由がなかった。十六年間生きてきて、初めて、彼女は自身の願った旅に出ることが出来た。

 それを邪魔されてなるものか。

 自分の感情を自覚こそしていなかったが、森太郎の中には初めて言語化できない怒りが渦巻いていた。

「はじめは自分のためだったし、今も多分変わらない。それでも、一緒に旅してきた仲間の行く末が、お家のためだなんて下らない理由で決められるのは腹が立つ」

「本当に、大胆になりましたね。絹原の忠実な執事である私に、その言葉を吐きますか」

「言わなきゃ、伝わらないんでね」

 森太郎の言葉に、由乃がハッとして見上げる。

「森太郎……」

 それと同時に、有禅が目をみはり、そして声をあげて笑い始めた。森太郎と由乃の呆気にとられるのも気にせずに大笑いし、落ち着いたところで二人には聞こえない声で小さく呟いた。

「まさか、ここまでとは……。大金星ですよ、惟種……」

 すぐにそれまでと変わらない姿勢に戻った有禅は、片手を二人に向かって差し出す。

「さぁ、青年の主張はこのくらいにして。そろそろ私と一緒に来てもらいましょうか」

「いまのを聞いて、分かりました、なんて言うと思うのか?」

「思わないですね」

 すっと片手を下ろし、後ろ手に組む。

 森太郎は身構えながら、袖をつかむ由乃の手に、そっと自分の手をかぶせる。

「森太郎……?」

「やるしかない……。由乃、腹をくくれ」

「で、でも!相手は有禅だよ!?そんなこと……」

「なに。こっちは二人だ。イチかバチか、賭けてみるのは、冒険的だろ?」

 森太郎が不敵に笑う。初めて見た森太郎の表情に、由乃は奮い立った。

 それまで全身を包んでいた恐怖の寒さが、一気に吹き飛んだ。同時に、内側から燃えるような熱が体中を駆け巡る。

「うん……うん!そうだね!これこそ、冒険の醍醐味だよ、森太郎!」

 由乃は、必死につかんでいた森太郎の袖を離す。森太郎は小刀を構え、由乃も法術が打てるように準備する。

 終わりましたか、とでも言いたげに肩をすくめる有禅。

 重心を落とすことで同意を示し、森太郎は有禅に向かって真っすぐに斬りかかる。逆手に持った小刀を少ない予備動作で斜めに振り下ろす。体重を乗せた一撃は、あっさりかわされる。それを想定していた森太郎は、続けて有禅の避けた方へ中段に振りかぶり、振りぬいたところで順手に持ち替えて幾度となく、素早く攻撃を繰り返す。有禅は、そのどれもを余裕綽々よゆうしゃくしゃくと避けていく。

 その最中、由乃は法術の火球を空中にいくつも展開し、いつでも発射できるようにしていた。横目でその様子を確認した森太郎は、最後に深く踏み込んだ一撃を放って大股に跳びすさる。刹那、森太郎がいた場所から有禅の方へと連続で火球が降り注ぐ。

 空を駆る流星のごとし。高速で放たれた火球が地面に連続でぶつかっていき、凄まじい轟音を鳴らす。

 自分の付け焼刃の剣術など、有禅には通用しないことは予想していた。せめて、それによって気をとられた有禅に、一撃でも当たれば、と思っていたが、火球によって巻き上げられた土煙が晴れると、そこにいたのは無傷の有禅だった。

(化け物め……!)

 森太郎は歯噛みをしながら、次弾装填までの時間稼ぎに、再び有禅へと斬りかかる。しかし、今度は避けることなく、繰り出された腕を思い切り弾かれた。

「な……!?」

「なかなかいい作戦ですが、私には通用しませんよ」

 微笑みをたたえたまま、有禅の拳が森太郎の鳩尾みぞおちに食い込む。

「ごほっ……」

 臓腑が全て口から飛び出るほどの衝撃に、森太郎は息ができなくなる。それでも、倒れる訳にはいかなかった。わずかでも隙を見せれば、いよいよ勝ちの目は無くなる。意識をとばしそうになるも、倒れてなるものかと足を踏み出してその身を支える。

 小刀を構えながら顔を上げると、既に視界には有禅の体の一部しか見えない。

(しまっ……!)

 出遅れたことに気付いた時には、有禅の手刀が森太郎のうなじを打っていた。

 頭蓋骨に衝撃があったわけでもないのに、目から火花が飛ぶ。目を開けているのが難しくなり、森太郎の視界は次第に闇に包まれていく。

(こんな、あっけなく……)

「森太郎!」

 森太郎の耳朶じだに最後に響いたのは、由乃の心配する悲鳴と、地面に倒れ込んだ時に響いた鈍い音だった。

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