第7話 凪の朝、不穏の影
夜更けまで語り合っていた森太郎たちは、気付いた時には眠りに落ちていた。
朝、まぶたを照らす陽の光と、そこかしこでさえずる小鳥の声に目を覚ました森太郎は、慌てて周囲を見回した。自分がいつの間に寝入っていったのか、記憶になかったが、自分の行いが危険なのもには違いなかった。
自分の不明を恥じるとともに、すぐさま荷物や由乃の安全を確認した。不用心に寝息を立てる由乃の姿を見て、ひとまず胸をなでおろす。そして、肝心の惟種の存在を探すが、目の前には燃え尽きて真っ黒になった焚き木の灰があるだけで、ぬぅりひょんも他の怪異の姿も全く見当たらなかった。
(本当に話がしたいだけだったのか……?)
いまだに
森太郎は
「ん……むぅ……」
まだ眠いのか、とぼけた声をあげながら由乃がゆっくりと身を起こす。
「あ、森太郎。おはよう……」
由乃は目をこすり、大きく伸びをした。
「やっぱり地面で寝ると体中が痛いね……」
「野宿の宿命だ。我慢しろ」
そういった森太郎も、三日目の朝にして既に背中や腰が痛くなっている。畳に敷いた煎餅布団でも、野宿と比べれば十二分に贅沢なものだったのだなと痛感していた。
「あれ?惟種は?」
「起きたらいなくなっていた」
「そっか。一緒に
「馬鹿言うな。行ったところで、アイツは街に入れないだろ」
「あ……そうだったね」
由乃は、せめてお別れの挨拶ができたらよかったのに、と寂しい顔をした。
「寂しがってる暇はないぞ。宮津子国までは、まだ距離があるんだからな」
今までみたいに無警戒な状態でいられないんだからな、と森太郎は釘をさす。暗に、これ以降は言葉を操る怪異と仲良くなるつもりはない、と言っていた。
「そうだね。よし!どんな怪異でもバッチ来いだよ!」
「来てほしくはない」
「でも、食べられるやつなら良くない?」
「弱けりゃな」
「そこは、俺が前衛で守るからお前は後方から確実に仕留めてくれ、とか格好つければいいのに」
「そんな性分じゃない」
「そうだったねー」
さすがに三日目ともなれば慣れたのか、森太郎は特に気にした様子もなく、由乃の軽口を受け流していた。
味噌汁を作り、軽い朝餉を食べた後、二人は荷物をまとめて、また宮津子国に向けて森の中を進み始めた。
「あ、川だ!川があるよ、森太郎!」
二刻ほど歩いた二人は、川に行き当たった。川底まで見通すことのできる澄んだ水が、さらさらと流れている。川幅は五間三尺(約10メートル)ほどで、中には魚が泳いでいた。見た目には、飲み水として最適にも見える綺麗な川だった。
「知ってる」
陽光を反射して煌めく水面に、海を見た時と同様にはしゃぐ由乃を脇目に、森太郎はいたって冷静に返した。自分とは対照的に極めて落ち着いた様子でいる森太郎に、由乃は肩を落とす。
「感動がないね」
「子どもの頃から見慣れているからな」
「私は、こんなに綺麗な川を見るのは初めてなんだけど」
「これまでも小川は何度か見ただろ」
森太郎の言う通り、この三日を通して、川幅の狭い川は何度か渡っていた。
「大きさが違うよ、大きさが!」
「あ、そう」
「うわっ、出ましたよ。森太郎の冷静ぶりっこ状態」
「なんだよ、冷静ぶりっこ状態って」
「言葉の通りだよ。つまんないなー。もっと一緒にはしゃいでよ!」
「なんでだよ」
仲間でしょ、と頬を膨らませながら由乃は不平をぶつける。森太郎の方は、どういう理屈なんだと、眉間にしわが寄っていた。それも僅かのことで、愚にもつかない会話に時間を割くなどごめんだと、森太郎は由乃を無視して川に近づいていった。
「あ、待って!」
由乃は慌てて森太郎の後を追う。
川岸に着いた森太郎は、その場にしゃがみ込み、川の水を手に汲んで口へ含んだ。小走りで追いついてきた由乃も、森太郎を真似て水を掬おうとするが、森太郎が片手と目でそれを制する。
それまでも、飲み水を確保するときには必ずやっていたルーチンである。
そのまま口の中で水をころがしていた森太郎は、納得したように水を飲みこんだ。
「大丈夫だ。飲める」
掲げた手を下ろして、由乃に向かって頷く。
「毎度思うけど、それでよく分かるよね」
「ああ。ま、分かるようになるまで、それなりに体は張ったけどな」
事もなげに言いながら、その場に荷物を降ろし、水筒を出して水を汲み始める。
由乃の方は、川に両手をつけて水を掬い上げ、口をつけてぐいと飲んだ。
「……おいしい」
「わりかし、水質がいいのかもな」
「疲れてるのもあるけど、この水、おいしいよ!これまでのよりもずっと!」
そういって由乃は、もっとたくさん飲みたいと思ったのか、今度は顔を直接つけて飲み始めた。
「……はしたないぞ、お嬢様」
「お嬢様呼びはやめて!」
口元に水滴を滴らせた由乃は即座に顔を持ち上げた。そして、文句を言うとまたすぐに川に口を直接つけた。
横目でその様子を見ている森太郎からは、由乃の姿が犬猫の水を飲む姿に見えていた。絹原の家の人間が見たら、卒倒しそうな姿である。森太郎は、そんな由乃の姿が滑稽で、思わず笑っていた。もちろん、由乃にバレると面倒なので、声をあげずに、ではあるが。
滅多に笑うことのない森太郎の笑顔を、由乃は見逃していたのだが、必死に水を飲んでいる彼女は知る由もなかった。
ようやく満足したのか、由乃が顔を上げて羽織の袖で口元を拭い、満面の笑みを浮かべる。
「ふぅ。生き返るね」
「まぁ、水質といい大きさといい、ここのは今までで一番かもな」
「あ、そうだ。ここなら水浴びも出来るんじゃない?」
「深さは確かめてないが、まぁこの広さなら出来るだろうな」
「やったー!さすがに肌がべたついて気持ち悪かったんだよね」
そういって羽織を脱ぎ始める由乃。
「気持ちはわかるが、嫁入り前の
あっ、と言って、目の前にいる森太郎が男であったことを思い出したように由乃が赤面する。
「あっち向いててくれない?」
「はいはい」
ため息を吐いて背を向ける森太郎。これまで歩いてきた場所と、これからの道程の確認のために地図を広げて、鉛筆であれこれ書き込んだりする。その背後では、由乃が着物を脱いでいく衣擦れの音が響いていた。
仲間としての信頼は、気分の悪いものではないが、それでも嫁入り前にもかかわらず、この警戒心のなさはそろそろどうにかならないのか、と呆れる。
「絶対に、こっち見ちゃだめだからね!」
「誰も見ないって」
「分からないじゃん!」
「少なくとも、僕は興味ない」
「興味が!?それはそれで傷つく!」
「いいから、水浴びするならさっさと済ませろ。それとも裸になる趣味でもあるのか?」
「あるわけないでしょ!」
悲鳴のような否定の声をあげると、水がはじける音が響いた。由乃が川に向かって勢いよく飛び込んだのだ。森太郎は自分の作業に没頭していたが、その背後では水で体を洗いながら、由乃がぶつぶつと何か文句を言っていた。
川の周囲は、やや木々の隙間が開いており、それまでの森の中よりは見通しが良い。由乃が水浴びをしている方は振り返らないよう、森太郎は地図の確認と周囲への警戒を同時進行で進めた。
風が吹いて木の葉がそよぐ音が聞こえた時に、そちらに首を向けると、由乃が慌てた声で、こっちを見ないで、と悲鳴をあげた。
由乃の裸体なんかよりも、怪異の姿が見えるか否かの方に心拍が上がる。いつ怪異が現れるか分からない以上、警戒は必要である。単に警戒のために目を向けただけだと伝えると、由乃は裸体を見たいだけなんじゃないの?とからかった。
馬鹿馬鹿しい話に付き合うのに疲れた森太郎は、由乃のいる側の警戒はそっちでやれ、と背後に向けて声を張り上げた。襲われても知らんぞ、とぶつくさ言いながら、苛立ちをぶつけるように、地図に書き込む文字が乱暴になる。
目的地である宮津子国まではまだあと数日は歩かねばならない。こんな調子で、その旅程を歩き切れるのか、というよりは、自分の心の平穏が保てるのか、と森太郎は煩わしい感情に胸中を波立たせていた。
「はぁ~。さっぱりした!」
水浴びを終えた由乃は、手拭いで髪の水気を拭いながら、森太郎の元へとやってきた。羽織だけは片腕にかけていたが、それ以外の着物は既に着用を済ませている。
「呑気なもんだな」
「森太郎も水浴びしたら?」
「後で手拭いで拭くからいい」
「え~?汚いよ」
「僕は
「私が露出狂みたいな言い方やめてくれる!?そんなんじゃないからね!」
「どうだか」
森太郎は肩をすくめながら言った。
「本当に違うから!ただ、街にいた時は毎日湯浴みをしてたから一日入らないだけでも気持ち悪くて……」
「旅ってそんなもんだろ」
「そうだけどさ……。ていうか、森太郎は気持ち悪くないの?湯浴みは難しくても、水浴びしておかなくて」
「庶民は毎日入れるほど裕福じゃないんだよ。三日に一回とかそんなもんだ」
「うわぁ……」
由乃が信じられないものを見る目で森太郎を見つめた。
「書生にそんな暇はない。湯浴みどころか飯を忘れる事すらあるんだぞ」
毎日二食は食べているのは由乃に合わせているからだ、と森太郎が呆れた声を出す。寝食を忘れて勉学に没頭することがある森太郎にとって、湯浴みや食事は優先度の高いことではない。他の同級生も似たような生活をしていた分、森太郎には寝食を忘れるのは当たり前のことであった。
この旅においても、十分な量の食事がとれなかったり、風呂に入れないことがあっても、慣れている分、森太郎にとっては大して苦ではなかった。
由乃は森太郎の生活習慣を、信じられないでいたが、森太郎は貴族階級との差をまざまざと感じていた。
「一緒にいてなんか嫌な気分になるから、水浴びくらいしてよ」
「心配するな。この先は北西から流れてくるこの川沿いにしばらく歩くことになる。お前が寝た後にでも浴びとくさ」
「それされると、自分が寝ている脇で全裸の男がいることになるんだけど?」
「見てないんだから別にいいだろ」
「気分の問題なんです!」
配慮が足りてない、と由乃は文句を言うが、非日常下においてそんなことまで気をまわしてられるかと森太郎は取り合わない。
「心配しなくても、誰も君のことを襲おうなんて思わない」
「配慮!こんなに腹が立ったのは初めてだよ!」
しばらく
川沿いを歩いていると、何体かの怪異と遭遇した。身の丈が五尺ある
灰猿を除けば、五尺鶏も剣鯰も好戦的な怪異ではないため、狩るのにさほど苦労はしなかった。それまでと同じように、森太郎がナイフを構えて前衛で由乃をかばい、後ろから由乃が高速の法術を放って怪異を仕留める。
三日目ではあるが、昨夜は惟種からもらった魚を食していた。解体作業は二度目となるが、森太郎の手で解体されていく怪異の血肉を見て、由乃は眉間にしわを寄せていた。時折、袖を口元にあてがっていたところを見ると、さばかれた怪異の肉体や底から立ち上る臭気に吐き気を覚えていたようだ。
やがて陽が落ち、その日は川岸での野営となった。
五尺鶏が一羽と、剣鯰が三匹。取れ高としては十分だったので、灰猿は狩ったあと、魚のエサ用にその身の肉はみじん切りにして団子状に固めた。とはいえ、人間にとってあまりにも不味い灰猿の肉が魚のエサとなり得るかは怪しいところではあった。
「今日もまともな食事になりそうで良かったよ」
五尺鶏の肉を串にさしながら、由乃が嬉しそうにする。その横では、森太郎が剣鯰をさばいてたたきにしていた。
「惟種からもらった味噌のお陰で、調理も何通りか出来るようになっているしな」
「本当に惟種さまさまだね。次に会ったら、ちゃんとお礼言わないとね」
不愛想な、かつ不躾な態度をとり続けていた森太郎をからかうように、由乃が言う。森太郎は、ん、と短く、同意したようなしていないような曖昧な返事を返しただけだった。
焚き火を囲んで
「なんとかうまくやっていけそうだな」
そう口の中でつぶやくのは、朝、姿を消していたぬぅりひょんの惟種であった。怪異として身体能力が優れている分、距離が離れていても二人の姿はつぶさに見え、会話の内容もはっきりと聞きとれている。
「宮津子国までくたばらないように、とは言われたものの、合流が遅かったらどうなっていたことか」
小さく息を吐き、木の幹に背を預けながら、惟種は空を見上げた。視線の先には、立ち並ぶ木々の
その光を瞳に移しながらも、どこか別の場所を見るような目をしていた。まるで、その星空の中に、心に浮かべた人物の顔があるかのような瞳をしている。
「坊ちゃんの方は頭でっかち。嬢ちゃんは無鉄砲。よくもまぁ外に出そうなんて気になったもんだよな、アイツも」
惟種は、声をあげずに笑った。
悠久の時を生きる中で、惟種が出会った異分子。怪異である自分を恐れず、それどころか仲間に引き込もうとした奇特な人間。頭も切れれば腕も経つという優秀さを持つ割に、その人となりは異常と言わざるを得ない。彼が思い浮かべていたのは、そういう人物だった。
「役目は果たした。後はそっちでケツを持ってくれ」
誰からも返答の帰ってこない言葉を中空へと投げて、惟種はその場を後にした。
もらった調味料で料理したまともな食材の美味さに、頬をほころばせている由乃と、それとは対照的に不愛想な表情をひっさげた森太郎は、無論、自分たちが惟種に見られていたことなどは露ほども知らない。
静かな森の中に、星の瞬きだけが降り注いでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます