第4話 海
翌朝。森太郎と由乃は、昨日獲った
灰汁をとったのだから、えぐみくらいは軽減されているだろうとふんでいたが、あまかった。味も食感も、塩焼きの時と大差はなく、昨夜と同じ苦悶の表情を浮かべる。野草で口直しを出来ることだけが、唯一の救いであった。
最悪の朝食を終えた二人は、また地図とにらめっこをしながら森の中を進む。山の中ほどはっきりとした傾斜がある訳ではなく、現在地をわりだすのは至難のわざであったが、森太郎の努力の甲斐あって、着実に宮津子国へと進んでいた。
一方で、地図を読めるわけではない由乃は、代り映えしない木々の林立した景色に飽き始めていた。
胸の躍る冒険譚を想像していただけに、初めて見る景色になれてしまえば、必然、新鮮さは失われる。なんとか面白いものはないかと、由乃は周囲を見回しながら歩くが、森太郎に比べれば知識がない。微妙に葉の形や樹皮の形状が違うだけの木々は、由乃には新鮮味を与えてくれなかった。
「なんか……似た景色が続くね……」
「森や山の中なんてこんなもんだ」
「そうなんだけど……でもこう、珍しい木とか、花とかさ。そういうの、ないのかな?」
「……人が必死に地図を見てるっていうのに、飽きたとか言わないよな」
「だってー!」
森太郎は大きなため息を吐く。道に迷わないよう、細心の注意を払っているというのに、このお嬢様は面白さばかり求めている。昨晩の繊細さが嘘だったかのような由乃の態度に、森太郎はいささかの苛立ちを覚えた。
気にしても仕方がないと、気を取り直して地図に目を落とす。すると、現在地の近くにあるものに気が付いた森太郎は、由乃を振り返る。
「森に飽きたなら、少し寄り道をするか?」
「え。いいの!?」
由乃が嬉しそうな声をあげる。
「
「大丈夫!急ぐ旅じゃないし、平気平気!」
そして軽い足取りで、森太郎の前を歩き出した。しかし、すぐに森太郎の方を振り返った。
「で、どっちにいけばいいの……?」
森太郎の眉間にしわが寄る。呆れた表情を隠しもせず、森太郎は由乃の先に立って歩き出した。
「おお~!」
本来のルートからそれて半刻(約一時間)ほど歩いた二人は、森を抜け、海に来ていた。
街道から南の森は、海に隣接するように広がっていたのだ。森太郎がそれを地図の上に見つけ、飽きがきていた由乃をこうして連れてきた。
「これ、海?海だよね!?湖じゃなくて!」
「ああ、そうだよ」
気のない返事をする森太郎。由乃はその返事を待たず、既に海に向かって走っていた。由乃のよく手入れされたブーツが、白い砂浜を巻きあげながら進んでいく。巻き上がった砂粒が着物の背中のあたりに降りかかるのもお構いなしに、あっというまに波打ち際まで近づいていた。
本当に外界を見たことがないのだな、と、はしゃぐ由乃の背中を見ながら森太郎は思う。とはいえ、森太郎も本物の海を見るのは久しぶりであった。
頬を撫でていく海風に、潮の香りを感じる。
水面は波打ちながら陽の光を反射し、あちこちに宝石でもばら撒いたようにきらきらと光っている。
外界を全く知らずに育った由乃でなくても、思わず嘆息するほどの光景が広がっていた。
「森太郎~!」
由乃がこちらを振り返って手を振っている。森太郎は、顔色一つ変えないまま、由乃の方へと歩き出した。
「すごいよ!きれいだよ!」
「はいはい」
「海って浮かべるんだよね?ねぇ、泳いでみてもいい?」
「着替えもないのに、男の前で裸になるつもりか?」
「あ」
「露出の癖があるというなら止めないが」
「そ、そんなわけないじゃん!むしろ、森太郎の方が私の裸を見たいんじゃないの?」
そういわれて、森太郎は鼻で笑った。
「なにその態度!?」
「色香もなにもないような奴の裸を?誰もそんなもの見たかないよ」
「な……!こう見えても私、着やせする方なんだからね!」
そう言って由乃は顔を真っ赤にしながら羽織を脱ぎ、着物の襟を緩めて見たりする。しかし、当の森太郎は、由乃のことなど興味がないかのようにカバンからあれこれ道具を取り出して作業を始めていた。
「なにも君の好奇心のためだけに海まで来たんじゃない。こっちはこっちでやることがあるから、海を楽しみたいなら勝手にしてくれ」
由乃は襟から手を放し、ふくれっ面を浮かべる。恥じらいはあるし、裸を見られたいわけでもないが、こうも興味がない素振りをされてしまうのも腹立たしかった。劣情を抱かれるのは不快だが、自分に魅力がないと言われているも同然の態度も不愉快であった。
近くの砂を握りしめ、森太郎向かって投げつける。ぶっ、という森太郎の悲鳴を聞きながら、羽織を拾い上げて、森太郎とは反対側に向かって走っていった。やや離れたところで、文句を言いたげににらんでいる森太郎に、由乃はべぇ、と舌を出して見せた。
「森太郎の
「うるさい!」
仏頂面ばかりの森太郎が、珍しく幼い子供みたいにむきになった表情を由乃に向けていた。
由乃は、そのやりとりに、初めて人と
とりとめもないやりとりの後、由乃はひとしきり浜辺を歩き回り、時にはブーツを脱いで海水に足をつけたりしていた。海を満喫しきるには時間がまだまだ足りないくらいであったが、離れた位置で何か作業をしている森太郎のことが気になった。
鍋を火にかけ、時折他の食器や紙の上に海水を垂らしている様子に、何をしているのか興味がわいたのだ。
由乃は、素足のままブーツを指でつまみ、森太郎に近づいていった。
「何をしてるの?」
由乃が尋ねると、森太郎は首を持ち上げて由乃を見上げる。しかしすぐに視線を鍋の方に戻した。
「塩を煮だしてる」
「塩?」
「ああ」
「いまあるのじゃ足りないの?」
「足りなくなるかもしれないから、補充してるんだ」
へぇぇ、といいながら、由乃はしゃがみ込んで鍋の中を覗き込む。
「海水から塩を取り出すのって、このやり方でいいんだね」
「ろ過した後の海水ならな」
「え、ろ過?どうやってやったの!?見たい!」
由乃は目を輝かせて森太郎に詰め寄る。森太郎は説明するのが面倒くさくなったのか、仏頂面をしたまま片側の口に手拭いをかぶせた竹筒を出してみせる。これに入れて落ちてきたのがろ過された海水だ、とだけ言った。どういう構造になっているのかと訊かれても、あれやこれやを詰め込んで手拭いをかぶせただけだ、としか言わない。
「教えてくれてもいいじゃん!」
「お勉強してたんならなんとなくは分かるだろ」
にべもない森太郎に、由乃はまた頬を膨らませた。
その後はどれだけ由乃がしつこくしても、森太郎はただ作業を続けるだけで質問には答えようとしなかった。せっかく実際に作業をしているのだから、教えてくれてもいいのにと由乃は不服だったが、煮だす作業の方にも興味をひかれた。森太郎に言って追加の塩を煮だす作業を手伝わせてもらうと、そのこと自体が楽しくなって、それまでの疑問は忘れた。
ある程度の量が溜まったところで、森太郎は作業を引き上げ、再び進路に戻ろうと提案した。
「せっかく海に来たんだし、せめて夕日を見てもいいんじゃない?」
「その心は?」
「水平線に沈む夕日は綺麗って、冒険譚に書いてあった!」
「却下」
「なんでー!?」
由乃の悲鳴を無視して、森太郎は既に森に戻る準備をしていた。
「あのなぁ。何の準備もなく、宿場町にも入れない身の上なんだぞ。食料も水も現地調達。そんな状況下で
「そんなこと言ったって、心の平穏も大事じゃん」
「腹が減っては何とやらだ。飲食は何をおいても重要なことなんだよ」
分かったら準備しろ、と冷たく言い切った。森太郎の言うことは道理ではあったが、由乃は諦めたくはなかった。
旅を続けていれば、いつかはまた海にくる機会もあるかもしれない。しかし、いま、この場所の夕焼け空はここでしか見られない。
森の中の景色に飽きた自分が、他の場所で見る夕景との違いを見出せるかなんてわからないが、それでもその時々の新鮮な気持ちをないがしろにしたくはなかった。
「分かってるよ。けど、それでもさ……!」
「
不意に声が聞こえてきた。
はじかれたように森太郎が声の方を向くと、そこには男が立っていた。すぐさま腰帯に差した小刀を抜き、臨戦態勢をとる。
それまで全く気配などなかった。それどころか、砂を歩く足音すら聞こえなかった。この男は、一体いつから自分たちを見ていたのか。森太郎の頬に冷たい汗が流れる。
森太郎と由乃からは、七間(約12.7m)ほど離れていた。二人からすれば等距離に離れており、三者を結べば三角形が出来る位置に、男は立っていた。
整った顔立ちに、街でよく見かけるような地味な色の着物と袴。足は、素足に草履をはいていた。ただ、その瞳は東和国ではまず見ない、淡い青色をしていた。
(異国人……いや、それ以前にこいつは人なのか……?)
森太郎の頬を冷たい汗が流れる。
対して、由乃の方は、この人は誰だろう、程度のとぼけた顔をしている。
二人から離れた位置に立った男は、着物に手を入れたまま、にこにことほほ笑んでいた。
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