刺客

 里美と彼の関係が徐々に距離を置くようになっていた時、里美の生活に新たな波が押し寄せた。彼女は、韓国人女性と結婚している既婚の日本人男性、桐島遼介に出会った。桐島は表面的には魅力的で誠実そうに見えたが、彼のアプローチは計算されたもので、里美の心の隙間に巧みに入り込んだ。

 里美は桐島との関係を始めた当初、彼が既婚者であることを知らなかった。彼の注意深い言葉や行動が、彼女が抱える孤独感や不安を一時的に忘れさせてくれたからだ。桐島は里美の弱点を見抜き、自身の魅力を武器に彼女を惹きつけた。彼女は桐島の強引なまでの自信に心惹かれ、やがて彼に身を任せるようになった。

 事態が明らかになったのは、桐島の妻が里美に接触してきたときだった。彼女は桐島との不倫関係を冷静に指摘し、里美に現実を突きつけた。この事実を知った里美は深く傷つき、自らの選択を疑問視し始めた。彼女は桐島に対して裏切られた感情と、自分自身の価値観に対する失望を抱え込んでしまう。

 和也にこのことが伝わったとき、彼はショックと失望を隠せなかった。彼は里美が抱えていた内面の闘いを理解しようと努力していたが、桐島との出来事は彼の想像を超えていた。和也は里美に対して深い同情とともに、彼女が再び自立し、自分自身を取り戻す手助けをしたいと強く願った。彼は自分の感情を抑え、支えるべき時にはそばにいることを決意した。

 この一連の出来事は、里美にとっても和也にとっても深い教訓となった。里美は自分の選択により慎重になる必要があること、そして和也は人が直面する複雑な感情や状況をより深く理解しようとする必要があることを学んだ。二人の関係はこの試練を乗り越えて、新たな段階へと進むことになるだろう。


 里美からの電話が、和也の日常に突如として割り込んできた。久しぶりに鳴った彼女からの電話に、和也は一瞬で胸が高鳴った。受話器を取り相手が里美からだと分かると、和也はいつものように軽い冗談を交えて里美を笑わせたが、彼女の笑い声にはどこか影があるように感じられた。

「どうしたの?何かあった?」

和也は慎重に尋ねた。里美は一瞬沈黙した後、小さな声で

「うん、ちょっとね…」

と言葉を濁した。和也の心は緊張で一杯になり、何とか彼女から話を引き出そうとした。

「もしよければ、話、聞かせてもらえないかな」と和也は優しく促した。

数秒の沈黙の後、里美の声が再び響いた。

「実はね、妊娠してるの。」

和也の心が止まるような衝撃を受けた。彼は驚きのあまり一瞬何も言えなかった。そして、彼女の次の言葉がさらに彼の心を揺さぶった。

「子供は、桐島さんじゃなくて、彼の子なの」

と里美は静かに語った。

 和也はその瞬間、全てが繋がった。里美が桐島との関係を持ちながらも、彼との関係を完全に切れずにいた理由、彼女が精神的なバランスを保とうとしていた葛藤。彼は深く息を吸い込み、冷静を保とうとした。

「そうか。それは、確かに相談しにくいよな。」

和也の声は静かだったが、心の中は激しい感情に揺れていた。

「まだ、決めかねているの。本当はね、あなたともっと早く話したかったんだけど、勇気が出なくて…」

 里美の言葉に、和也はさらに心が痛んだ。彼は彼女を責めることなく、支えようと決意した。里美がこの状況を乗り越えられるように、彼は可能な限りのサポートを提供することを誓った。

「何を決めても、俺は里美の決断を尊重する。一人で抱え込まない方がいい。親にだって相談しずらいことだから」

と和也は力強く言った。里美は電話の向こうで涙を流しながら、

「ありがとう、和也。本当にありがとう」

と繰り返した。

 この会話は二人にとって新たな関係の始まりを告げるものだった。過去の過ちや痛みを乗り越え、新たな未来への一歩を踏み出す勇気を彼らは共に見出したのだった。

 里美の涙声が電話越しに和也の耳に届いた。彼女の泣きじゃくる声に、和也の胸は痛みでいっぱいになった。

「和也、本当にごめんね。こんなことを和也に話すなんて…」

里美の声は絶え間なく震えていた。

 和也は深く息を吸い、彼女の言葉を遮るように話した。

「里美、謝る必要ないよ。大切なのは、これからどうするかだけだ。僕は里美が決めたことを何でも支える。」

「でも、私がこんなにも自分勝手で、和也にこんなに迷惑をかけているのに…どうしてこんなに優しいの?」

里美の声は泣き崩れそうになりながらも、和也への深い感謝と申し訳なさが込められていた。和也は静かに話を続けた。

「里美が自分を責めないでほしい。誰にでも人に言いにくい過去はある。大事なのは、それからどう立ち直るかだよ。俺がいることだけは忘れるな。」

「本当にありがとう、和也。あなたのような人がいてくれて、私は本当に幸せだよ。こんな私だけど、これからもそばにいてくれる?」

里美の声はまだ不安で一杯だったが、和也の支持により少し安心している様子も感じられた。和也の心の中では、彼女への無条件の支持と同時に、彼自身も葛藤があった。里美のいう「一緒にいる」が恋人としてではなく、一人の人間としてという意味であり続けている事実が、和也の心を一層ずたずたにした。しかし、彼は里美の心の支えであり続けることを選んだ。

「もちろんだよ。俺は、里美を尊重する。全人類が里美を非難しても、俺とだけは逃げられるから安心していい。」

 この会話は、彼らの関係に新たな深さをもたらし、里美が自分自身を許し、未来に向けて前向きな一歩を踏み出す助けとなった。和也の無償の愛と支持が、彼女の回復と自己受容の過程に不可欠な要素となるのだった。

 和也は里美に対して、彼女が直面している難しい選択について、どんな決断も支えると改めて強調した。里美の声は嗚咽に震えていたが、和也の言葉に少し安堵を感じた。

「産むとなれば、親に話さないといけないだろう。もし産まないことを選ぶなら、俺がその子の父親だと言って一緒に病院に付き添ってもいい。自分の今の感情と将来の自分を見つめて、自分の結論をまず出さないといけない。」

和也の提案に対して里美は重い沈黙を続けた後、小さな声で

「うん」と返した。和也はさらに尋ねた。

「このことは、里美の彼と桐島には、もう伝えたの?」

「うん」

と里美は言ったが、その声はほとんど聞こえないほどだった。

「二人は何て言ってるの?」

和也の声には緊張が感じられた。里美は泣きながら答えた。

「彼は、暫く会っていないのに、なんで俺の子なんだって、否定してる。遼介は、自分の子だと認知したがってるの。」

 和也は、この複雑な感情の渦に苦笑いしながら、

「そうか。桐島は、今の奥さんと上手くいっていなくて別れる口実を欲しているように感じるな。彼氏の方は、ユミにこのことが知られるのはまずいと思っているんだろうな。里美は今の時点ではどうしたいと思ってる?結論でなくていいんだ。今の心理状態でどう思っているかを話すだけでいい。」

 里美はしばらく間を置いてから、

「産めないよ、育てられない。遼介は奥さんとの間で子供ができないから、自分の子だと主張したいんだろうけど、周期を逆算してみても、私と彼氏との間の子で間違いない。これは女には分かるのよ。」

和也は、冷静さを保つのが難しくなったが、続けた。

「分かった。里美としては、堕ろしたいってことなんだね。」里美は泣きながら

「うん」

と応える。

「病院には、早めに行った方がいい。俺がついていこうか?まずは、落ち着いて腹が決まったらまた連絡して。その子の父親の役として、一緒に行くよ。」

 里美は、嗚咽を繰り返しながら

「分かった。そうする」

と言って電話を切った。この会話は、里美にとっても和也にとっても、極めて重いものだった。二人はこれからも未来に向けて、多くの困難を乗り越えていかなければならないと感じていた。

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