期待

 和也は普段、一人で行動することが多く、他の同期生とは偶然会うことで交流を深めていた。彼は自分から積極的に連絡を取って集まるタイプではなかったため、キャンパス内での友人との出会いも大抵が偶然だった。その日も、ラウンジで一息ついていると、予期せずに拓真に出くわしたのだ。

「あっ、拓真さん!」

和也が意外な再会に驚きを隠せず声をかけた。

拓真はにっこりと笑いながら応じた。

「和也か、久しぶりだね!最近どうしてる?」

和也は

「ええ、いつも通りですよ。授業で忙しいですけど、なんとかやってます」

と答えた。拓真が話を続けた。

「そういえば、今度、我々の同期である高橋遼が自宅で小さな飲み会を企画しているんだ。真由を含む数名が来る予定だけど、和也も来ないか?」

「へえ、遼さんのところでですか?面白そうですね。ぜひ、参加させてください」と和也は快諾し、少し興奮した気持ちを隠せなかった。

「それで、遼さんのアパートってどうやって行けばいいんですか?初めてなので、ちょっと不安なんですよね」と尋ねた。拓真は優しく微笑んで、

「遼のアパートは地下鉄で行けるから、一緒に行こう。乗り換え一回で着くから、そんなに難しくないよ」と提案した。和也は安心し、

「それなら心強いです。ありがとうございます。何時にどこで待ち合わせしますか?」

と聞いた。拓真は計画を詳しく説明し始めた。

「じゃあ、飲み会の前にキャンパスのメインゲートで待ち合わせしよう。そこから一緒に地下鉄に乗る。飲み会の開始は7時だから、6時には出発しようか。それでちょうどいい時間に到着するはずだよ。」

「了解しました。6時にメインゲートで待ち合わせですね。助かります、拓真さん」

と感謝の意を表しながら、当日の準備に心を切り替えた。和也はこの飲み会を通じて、新しい交友関係を広げ、同期との絆を深める機会として楽しみにしていた。

 飲み会当日、和也は拓真と共に遼の家へと向かった。遼はカクテル作りの才能を持ち、その繊細で丁寧な手仕事で知られていた。遼の家に着くと、和也はその熟練されたカクテル作りを目の当たりにし、感心した。遼は静かだが、その控えめな話し方で場を和ませることができる人物で、和也はその空間でのひと時を心から楽しんだ。

 会話が弾む中で、和也は、真由の彼氏は飲み会には出席しないこと、彼が比較的非社交的であることを知った。それでも、このような小さな集まりでは、真由もリラックスして楽しんでいる様子だった。和也は、少人数の集まりが予想外に心地良いものであることに気づき、新たな友情と交流の可能性に心を開いていった。

 和也は真由が集まりで明るく振る舞っているのを見て、少し驚いていた。彼女の周りには常に人が集まり、会話が途切れることがなかった。真由の見た目は、純粋なお嬢様のようで、品があり、どこか澄んだ雰囲気を持っていた。それが、和也の中での彼女のイメージだった。しかし、彼女の社交的な様子を見ていると、その印象とは少し違う一面が見えてきた。

 和也は気づいた。真由が話す相手は、ほとんどが男性である。同期や先輩、後輩の女子とは表面上はよく話しているように見えるが、実際にはその女子たちは真由と非常に仲が良いという関係にあるわけではないと口を揃えていた。真由は女性の友人よりも、男性との付き合いを好むようだった。その事実が和也には少し意外に感じられた。彼は自分が知っている真由と、他の人が見る真由の間にあるギャップに戸惑いを覚えた。

 彼女がなぜそのように振る舞うのか、その理由を知りたいと思いつつも、和也は彼女に直接尋ねることはできなかった。真由の社交的な面が彼には新鮮で、同時に彼女の人間関係の複雑さを示唆しているように思えた。彼は、真由がなぜ多くの女性とは距離を置いているのか、その理由を探るよりも、彼女がどのようにしてそれぞれの関係を築いているのかを理解しようとした。

 この飲み会での真由の様子は、和也にとって多くの考察を促すものだった。彼女の真の性格や、彼女がどのように他人と関わっていくのか、これからの交流で徐々に明らかになっていくだろうと和也は思い、それを見極めることに静かな興味を抱いていた。

 飲み会が終わり、和也と拓真は帰りの地下鉄に乗っていた。二人は車内で隣に座り、日常から離れた楽しい一時を過ごした余韻に浸っていた。

 拓真が和也に向かって少し真剣な表情で話し始めた。

「和也、明日ちょっと時間ある?」

和也は拓真の表情から何か重要な話があることを察し

「はい、大丈夫ですよ。何かありましたか?」

と快く応じた。

「実は、ちょっと相談があってね。」

拓真は少し躊躇しながらも続けた。

「真由のことなんだけど、詳しくは明日、じっくり話したいと思って。」

和也は真由の名前が出てきただけで心が少し動揺したが、

「分かりました。何時にどこに行けばいいですか?」

と冷静を装いながら尋ねた。

「じゃあ、ラウンジでお昼にしようか。12時にそこで会おう」

と拓真が提案した。

「了解です、12時にラウンジですね。じゃあ、そこで」

と和也が答え、二人はその日の計画を確認し合った。

 駅に到着すると、和也と真由の寮は隣同士に立地していたので、和也は真由を寮まで送り届けた。そこで簡単に「またね」と別れを告げ、自分の寮に戻った。寮に着いた時にはすでに夜中の12時を過ぎており、和也はその日一日の出来事を思い返しながら、ベッドに横たわった。

 拓真がラウンジに入ってきて、和也がEメールのチェックをしているのを見つけると、少し慌ただしく近づいてきた。

「おー、和也、もう来てたのか。いいタイミングだね」

と拓真が話し始める。和也はメールをチェックするのを一旦中断して、拓真に向かって

「はい、ちょっと早めに来たので。それで相談っていうのは?」

と聞いた。拓真は少し困った表情を浮かべながら、本題に入った。

「実はね、真由のことでちょっと相談があるんだ。真由の彼氏が、もうすぐ家業の手伝いで日本に一時帰国することになったんだ。3ヶ月間もいないから、その間、真由が一人で夏学期を過ごすことになる。彼女、退屈しそうなんだよね」

と拓真が説明した。和也は少し驚いたが、興味を持って聞き続けた。

「彼から真由をちょっと気にかけてやってほしいって頼まれたんだけど、俺には長く付き合ってる彼女がいるから、真由のことだけを気にかけるわけにもいかないんだ。和也、君と真由は寮が隣同士だから、何か同期で出かける時があれば、真由も誘ってみてくれないかな」

と拓真が頼んだ。和也は心の中で複雑な感情が交錯した。里美への思いと、真由への同情、そして拓真からの依頼が重なって、少し戸惑ったが、口に出しては

「分かった、なるべく気にかけてみるよ」

と答えた。

「ありがとう、和也。それにしても、君はいつも誠実だね。真由もきっと安心するよ」

と拓真が和やかに言った。この夏休み、和也にとっては予想もしなかった挑戦が待ち受けていた。里美への恋愛感情を抱えつつ、新たに真由への気遣いも求められることになり、彼の心情はさらに複雑なものになるだろう。この夏が、和也にとってどのような影響を与えるか、まだ彼自身も知る由もなかった。

 

 和也は一人部屋にいると、静かな夜が彼の心に重くのしかかった。寮の他の部屋からは同期たちの笑い声や話し声が聞こえてくるが、彼の部屋だけがまるで別世界のように静まり返っている。彼はベッドに座り、窓の外を見つめながら、自分の中で渦巻く感情をどうにか整理しようとしていた。

 その中で、一際強く心を突く感情があった。それは里美への強い想いだ。彼女の声を聞くたび、和也の心は高揚し、同時に不安にもなる。彼女の明るく、時には心配りが感じられる言葉遣い、笑い声。それらが和也の日々を支える光となっていた。

 今夜、和也はその光を求めていた。彼は自分でも驚くほどに里美に電話を掛けたくなっていた。部屋の中の時計の針の音が、彼の心の動きを象徴するように刻一刻と進む中で、彼の指はもう自然と携帯電話に伸びていた。

 「ただ、声が聞きたいだけだ」と和也は自分に言い訳しながら、里美の番号を画面に映し出した。彼の胸は期待と不安で一杯になりながらも、何かを変えるため、また何かを感じるために、彼は電話のボタンを押した。

 その瞬間、和也は自分の中で何かが動き出すのを感じた。これはただの友情以上のものか、それとも彼自身が作り上げた幻想か。和也にとって、里美への電話はただの日常の一コマではなく、自分自身の感情と向き合う大切な瞬間となっていた。

 和也は心を決めた瞬間だった。電話を掴みながら、彼の胸の内に渦巻く感情が言葉となって溢れ出る前に、彼は深く息を吸った。


 電話が繋がると、里美の明るい声が聞こえてきた。

「もしもし、和也?こんな時間にどうしたの?」

和也はいつものように明るく応えようとしたが、心の奥で渦巻く感情がそれを許さなかった。

「あ、里美、元気にしてる?ちょっと、声が聞きたくて。」

「何かあったの?」

里美の声には心配の色が滲む。和也は話を進めながらも、自分の中で煮えたぎる感情に気を取られていた。

「いや、特に何も…ただ、ちょっと最近、忙しくてね。里美は今何してた?」

里美は和也の話題転換に気づかず、何気なく日常の出来事を話し始めた。

「ごろごろしてた。そういえば、この間、新しいカフェを見つけてさ、すごくおしゃれなんだよ。和也も好きそうな感じだよ。」

 和也は里美の話に耳を傾けようとするが、心のどこかで告白するべきかどうかの葛藤に焦点が向いてしまう。「そうなんだ、それはいいね。俺も行ってみたいな…」彼の声は少し震えていた。

「里美、今、ちょっといいかな。」

和也の声には、いつもと違う緊張が含まれていた。里美は少し驚いた様子で応じた。

「うん。どうしたの?」

「実はね、箱崎からのバスで初めて逆隣に座った時から、里美のことが忘れられなくて。DCへ行く飛行機に乗る前に、どうしても声をかけたくて。その時から、ずっと里美のことばかり考えるようになっちゃって。」

里美は沈黙した後、静かに言葉を選びながら答えた。

「和也、それは…本当にありがとう。私も嬉しいよ。」

里美は、その言葉の後で、沈黙に入る。和也は緊張で胸が締め付けられるのを感じながら、彼女の続きを待った。でも、沈黙を破ったのは和也の方だった。

「俺と付き合ってくれないかな」

里美は、黙ったままだった。その瞬間、付き合えない何かがあることを直感で和也は感じた。里美は、きっとその真実を口にするのに勇気がいるのかもしれない。和也は、そう思い、

「もしかして、既に付き合っている人がいるとか?」

しばらくの沈黙のあと、漸く聞こえるようなか細い声で、

「うん、実は彼氏がいるの。」

里美の声には、葛藤と恐れが交じり合っていた。

 和也は一瞬言葉を失った。彼の心の中には失望と共感が同時に湧き上がり、どう対応すればいいのか分からなくなった。

「そうか、それは驚いたよ。でも、君が正直に話してくれて嬉しい。それで、里美の気持ちはどうなの?」

 里美は少し間を置いてから答えた。

「和也のことは大事に思ってる。友達として、とても尊敬してる。だけど、今の彼とは真剣に付き合っていて…」

 和也の心は重く沈んだ。しかし、彼はできるだけ落ち着いて答えた。

「わかった、ありがとう、正直に話してくれて。それでも、これからも友達でいてくれるかな?」

 里美は少しホッとした様子で、

「もちろん、和也とはこれからも良い友達でいたい」

と応えた。

 この会話は和也にとっては竜巻に直撃して吹き飛ばされて、落ちてきたところをもう一度竜巻に吹き飛ばされたような会心の挫折だったが、同時に彼と里美の関係に新たな一歩を築く機会でもあった。彼らの関係はこれからも続くが、和也の恋心はひとまず静かに蓋をされた。


 里美に彼氏がいることを知った瞬間、和也の心は深い混乱に陥った。彼女の笑顔や優しさが、いつの間にか彼の日常の一部になっていたことに、改めて気が付かされる。それが、ただの友情ではなく、恋愛感情であったことも。里美の「彼氏がいる」という一言は、和也にとって冷水を浴びせられるような衝撃だった。

 自暴自棄になりそうな気持ちを必死に抑えながら、和也は何とか日常を送ろうとする。しかし、一人の時間が多い彼は、心の中で里美のことを考えずにはいられなかった。友達として笑顔で接していた彼女が、他の男性と恋人として過ごしている姿を想像するだけで、胸が苦しくなる。

 「どうして気付かなかったんだろう」と自問自答する毎日。彼の感情は、失った未来に対する悔しさと、まだ心の中に残る希望の間で揺れ動いていた。それは、一朝一夕には消えることのない炎のようで、夜空を見上げる度に、星のようにきらめいては彼の心をかき乱す。

 しかし、彼は自分の気持ちに正直であり続けたかった。里美への感情を完全に断ち切ることはできないかもしれないが、少なくとも彼女が幸せであることを心から願うように努める。和也にとって、里美の幸福は彼自身の幸福とは異なるかもしれないが、それでも彼女の笑顔が見れるだけで、少しは救われる気がした。この複雑な感情の糸を解きほぐすには、時間が必要だと感じている。

 里美の彼氏がいるという真実が和也の心を痛めつけていた。その中で、拓真からの「真由を気にかけてあげてほしい」という頼みは、彼の心に繰り返し響いた。最初はこの言葉が、彼の失恋による苦痛を和らげる転換点になるかのように感じられた。それは、他のことに集中することで自分の傷を忘れようとする試みだった。

 しかし、里美のことが頭から離れない中で、真由に対する気遣いは、和也にとってさらなる精神的負担になっていく。真由を気にかけるという行動が、彼自身の感情の整理を邪魔しているようにも感じられた。和也は内心で葛藤し、自分が本当に他人の感情に寄り添える状態にあるのか疑問に思い始める。他人を思いやることで自分の痛みが癒えるのか、それともただ単に自分の感情を抑え込む手段に過ぎないのか。

 このジレンマは、和也にとって重くのしかかる。真由への気遣いが、里美への未練と交錯して、彼の中で複雑な感情の綾をなす。拓真の言葉が彼の心に何度も問いかける度に、和也は自己否定と自己同情の間で心が揺れ動く。それでも、和也は少しずつ前に進む努力をしようと心に決め、真由への思いやりを通じて、自分自身を再構築する道を模索し始めた。この過程は彼にとって、自己癒しと成長の機会となるかもしれない。

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