里美

 和也はペーパーに追われていた。学期も中間期を迎えると、中間試験と社会科学系や文学系など、読み物主体のクラスを受けている人には、軽い論文形式の宿題があったりする。心理学を専攻している和也は、心理学のクラスでペーパー、社会学のクラスでプレゼンテーションを控えており、プレゼン作成に必要な資料集めと読み込みを図書館でする必要があった。予習以外にやらなければいけない課題が溜まっていた。心理学部は、読み物が多い。教科書としては1冊なのだが、読んでおかなければならない範囲は広い。そんな時間の合間に、いつも里美のことが頭をよぎった。


 和也と里美の間では、たまに30分もの長電話をするようになり、その間にお互いの心の距離はぐっと縮まっていた。もはや互いを呼び捨てにするほど親密になっていたが、和也の恋心は更に深まる一方であった。

 電話中、和也は里美のことをよく気遣う言葉を選び、「里美、今日はどんな一日だった?」や「ちゃんと食べてる?」といった、彼女の日常に寄り添うような問いかけをすることが多くなった。そして、時々、彼の声にはわずかながら恋愛感情が滲み出ることがあった。例えば、「里美の声を聞くと、本当に心が安らぐんだ」と照れくさそうに言うのだった。

 里美は和也のそんな言葉に気づいていながらも、自分の感情をすぐには開示しなかった。彼女は、感謝の気持ちを表しつつも、個人的な不安や過去の経験についてはほとんど話さずにいた。

「ありがとう、和也。あなたと話すと時間があっという間に過ぎるわね」

と返すものの、話の内容はいつも明るく表面的なものに留めていた。

 このように、里美は和也からの好意を受け入れつつも、自分の内面や心の奥底を明かすことには慎重であり、なんとか適切な距離感を保つ努力をしていた。彼女は和也に自分を完全にはさらけ出さず、少しずつ彼との関係を築いていくスタンスをとっていた。この微妙な距離感の中で、二人の交流は続いていた。

 和也は電話の中で、将来の夢について熱心に話し始めた。「里美、実はね、将来は心理プロファイラーになりたいんだ。難解な殺人事件を解決して、多くの人を助ける一役を買いたいと思っている。」

 里美はその話に興味深く耳を傾けながらも、自分の心に抱える重い闇を感じていた。「すごいね、和也。人の心の奥深くを読み解く仕事って、とても難しそうだけど、和也ならきっとできるよ。」

と彼女は応援の意を表しながらも、彼には見せられない自分の感情を隠していた。

 和也はさらに熱を込めて語り続けた。

「うん、簡単な道ではないけれど、真実を明らかにして、正義を守ることができればと思っている。里美も何か夢はあるの?」

と質問を返した。

 里美は一瞬言葉を失ったが、心の中では「あなたのようにはっきりとした夢を持てない自分が情けない」と感じていた。しかし、彼女は表面上は冷静を保ちながら、

「私?私はまだ具体的な夢が見つかっていないの。和也のようにはっきりとした目標を持っている人を尊敬する。」

と答え、自分の不安や恐れについては話さなかった。

「それでもいいんだよ。里美が自分のペースで進んでいるならね。」

と和也は優しく応じた。

 里美は和也の言葉に救われながらも、「今はまだ彼に全てを話すことはできない」と心の中で固く決めていた。彼の情熱に惹かれながらも、自分の内に秘めた闇を隠し続けることに苦しみながら、彼との関係をゆっくりと築いていこうと思っていた。

 里美は外見的な魅力から、いくつかの複雑な人間関係に巻き込まれていた。一年目の中間試験が迫る頃、彼女は何人かの日本人男性からの関心を集め、そのうちの一人と肉体関係を持ってしまっていた。しかし、その関係は深い感情に基づくものではなく、やがて彼女は別の男性とも同様の関係を持ってしまう。最初の男性はこれに嫉妬し、里美との間で口論に発展してしまったが、結局彼女は後に関係を持った男性と交際を始めていた。

 このすべてを和也には知られたくないと里美は思っていた。彼女は自分の過去を隠し、和也との純粋な友情を保ちたいと願っていた。そのためには、和也との会話をいつも明るく軽いものに留め、深い個人的な話題には踏み込まないよう心掛けていた。

 ある日、和也から突然の電話があり、食事に誘われる。

「里美、今度の週末、時間ある?ちょっといいレストランを見つけたんだけど、一緒に行かない?」

里美は少し驚いたが、彼との距離を保ちつつも関係を維持するためには、このような友人としての活動も必要だと考えた。

「ええ、いいわよ。どこに行くの?」

「ちょっとお洒落なイタリアンのレストランがあるんだ。評判がいいから、試してみたいなと思って。」

「それは楽しみね。ありがとう、和也。何時にする?」

「今週土曜の7時くらいがいいかな?僕が迎えに行くよ。」

「うん、それで大丈夫。じゃあ、その日を楽しみにしてるね。」

 里美は、彼と鉢合わせてしまうのはまずいので、里美の大学の最寄りの駅に和也が迎えに行くことで落ち着いた。

 このやり取りを通じて、里美は和也との間にある一定の安心感と距離を保ちながら、自然な関係を築こうと努めていた。彼女は和也とのこの無邪気なやり取りが、自分の複雑な過去を少しでも癒してくれることを密かに願っていた。


 和也は、里美との食事の日を心待ちにしていた。彼女と話すたび、彼の心の中で彼女への思いがより深く、より熱くなっていくのを感じていた。彼女の声を聞くだけで心が高鳴り、彼女の笑顔を見るだけで一日が明るくなる。和也は、自分でも驚くほどに里美のことを考えていた。

 待ち合わせの日、里美が現れたとき、和也はその装いに息を呑んだ。彼女は胸元が強調されたノースリーブと黒のルーズなパンツを身にまとい、一見すると洗練されたキャリアウーマンのような佇まいだった。その大人っぽい装いから、和也は里美が年上の男性との経験が豊富なのではないかと直感した。それは彼にとってはやや複雑な感情を呼び起こした。彼は自分が里美に対して抱いている感情の純粋さと、彼女が持つかもしれない世界経験とのギャップに心を揺さぶられた。

 しかし、和也はその感情を押し隠し、彼女との時間を最大限に楽しむことに集中した。彼は里美の魅力に引き込まれ、同時に彼女が持つ謎めいた部分に対しても興味を持っていた。食事の間、彼は意識的に話の内容を明るく保ち、彼女が心地よいと感じるよう努めた。

 和也は里美との距離を縮めたいと強く願いつつ、彼女が抱えるであろう複雑な背景に思いをはせながら、彼女の答えや反応を慎重に見守った。彼女の言葉一つ一つに耳を傾け、その中に隠された意味を探ろうとした。この日、和也はただ単純に彼女と過ごす時間を楽しむだけでなく、彼女の深層に触れる機会を求めていた。

 和也は里美と対面すると、その日のために選んだレストランの上品な料理が何とも喉を通らないことに気づいた。彼の胃は緊張で縮こまっており、平常心を保とうと努力しても、里美の存在がそのすべてを難しくしていた。

「この料理、すごく美味しいね?」

和也は会話を続けながら、なんとか普通の様子を装おうとした。彼の声はわずかに震えていたが、笑顔で里美に目を向けた。

「ええ、とっても美味しいわ。和也が選んだレストラン、本当に素敵ね」

と里美が応じると、和也はほっと一息ついたが、内心ではまだ安堵できなかった。彼女の笑顔と声が、彼の緊張をさらに高めていた。

 食事が進むにつれて、和也の緊張はさらに増していった。彼は何とか料理を平らげようと努力したが、最終的には我慢の限界に達し、トイレに行くふりをして席を立った。トイレの個室に駆け込み、嘔吐してしまうほど、里美への情熱が彼の中で頂点に達していた。

 トイレから戻った和也は、顔を洗い、深呼吸を何度も繰り返して自分を落ち着かせた。再びテーブルに戻ると、彼は里美に向かって微笑みを浮かべながら、

「ごめんね、ちょっと体調が…でも、大丈夫だよ」と弱々しく言った。

 里美は心配そうに「大丈夫?無理しなくていいのよ、和也」と優しく言葉をかけた。和也はその優しさにさらに心を動かされつつ、彼女との時間を大切にしようと心に誓った。彼はこの瞬間を逃すまいと、緊張を抑えつつも、可能な限り里美との会話を楽しむことに集中した。

 里美は和也とのディナーを通じて、彼に対する印象が大きく変わり始めていた。彼女の過去の恋愛経験では、多くの男性が自己中心的で、彼女を深く理解する努力をしないことが多かった。しかし、和也は異なっていた。彼はいつも丁寧に里美の話に耳を傾け、彼女の意見を尊重し、真摯に接してくれる人物として、彼女の中で信頼が築かれつつあった。

 里美は、自分が何を求めているのか、どういう関係を望んでいるのか、まだ完全には理解していない自分がいることを感じていた。過去には、少し強引なアプローチをされるとそれに流されやすい自分がいた。それは、感情的な高揚を求めるある種の刺激への渇望からだったかもしれない。しかし、和也のような紳士的で慎重な態度は、彼女が今まで経験してきた関係とは明らかに異なり、新鮮で心地よい驚きを提供していた。

 一方で、和也のこの遠慮がちで繊細な接し方が、彼女を安心させると同時に、彼女がこれまで慣れ親しんだ関係のダイナミクスとは異なっていたため、どこかで彼女を戸惑わせてもいた。里美は、もし和也が少しでも積極的なアプローチを見せたなら、自分もそれに応じてしまうかもしれないと感じていた。彼女の心は和也の誠実さに惹かれつつも、どこかでその繊細なバランスが崩れることを予感しながらも、それが何を意味するのかを完全には理解していなかった。

 この夜、里美は和也との関係がどのように進展するかを考えながら、彼の存在が自身の内面にどのような影響を与えているのかを静かに探り続けていた。


  和也と里美はレストランを出た後、偶然にも同じ敷地内にあるビリヤード店を見つけた。和也は、大学の先輩である高橋遼からビリヤードを教わっており、それなりに腕前もあった。彼は、日本でも定期的にビリヤードをしていた経験を活かし、里美にも優しく基本的な技術やルールを教え始めた。

 里美はビリヤードをあまりやったことがなかったが、和也が教えることに興味を持ち、少し挑戦してみることにした。彼女は初めは戸惑いながらも、和也の指導のもとで少しずつコツを掴み始めた。この新しい体験は、彼女にとって新鮮で楽しいものであり、和也と共有する時間がさらに特別なものになっていた。

 「こんなに楽しいとは思わなかったわ。ありがとう、和也。」

と里美は笑いながら言った。ビリヤードを通じて、彼女は和也の新たな一面を見ることができ、その穏やかで気遣いのある性格にさらに心を惹かれた。また、ビリヤードが緊張を解いてくれる効果があったことから、和也のリラックスした様子を見て、彼女自身も安心感を覚え始めていた。

 この活動を通じて、ディナー時に感じていた緊張が自然とほぐれていくのを感じ、里美は和也との時間をより心から楽しめるようになっていた。この日の経験が二人の関係をさらに深める一歩となった。

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