真由
和也と同じ大学の同期は13名で、それぞれがばらばらの寮に入寮した。和也は「オークヒルズ・タワー」に一人で入寮し、他の同期は「リバーサイド・ホール」、「グリーンウッド・レジデンス」、「メイプルビュー・ドーム」という寮に複数名ずつ入った。和也は英語が話せなかったし、聞き取りも苦手だった。
ルームメイトのカイル・スミスとマシュー・デイビスが話す綺麗な発音の英語すら理解できなかった。近くの日本人に助けを求めたくても誰もいなかった。逆に、隣のアメリカ人の同期は気前よく話しかけに来てくれたが、和也は高校までに習ってきた英語と違う英語ばかりで、正しい受け答えもできなかった。誘ってくれる隣人の優しさに応えられないことに罪悪感を感じていた。
周囲のアメリカ人は、出会いがしらに「What’s up?」と声をかけることばかり。その受け答えが「Not much」であることを知ったのは、何か月も後のことだった。それまで和也は「Fine」と答えていた。日本では、「How are you?」と教科書で習うが、実際に「How are you?」と言われたことは一度もなく、多くが「How are you doing?」で、その答え方も「Fine」とは一度もなく、殆どが「I'm alright」か「I'm okay」か「I'm doing okay」だった。教科書に載っていた英語は、どこの何時代の英語なのだろうか。和也は「What's up?」の受け答え方が「Not much」であると分かってから、出会いがしらに「What's up?」を使うのが常になった。
とある日の朝、朝一のクラスに向かうため寮の入り口を出たところで、日本人の女の子とばったり会った。お互い日本語で挨拶を交わしたが、その子が真由だった。和也はその時は真由の名前も知らなかったし、真由が朝彼氏の部屋へ行くところだったことも、彼氏が日本人で偶然にもオークヒルズ・タワーの別の階に住んでいることも知らなかった。この朝の偶然の出会いが、和也と真由の初めての出会いとなった。
和也は真由と挨拶を交わした後、朝食のためにカフェテリアへ急いだ。アメリカの大学のカフェテリアはビュッフェ形式で、好きなものを自分で好きなだけ取って食べられるが、お世辞にも美味しいとは言えなかった。だから彼は毎朝シリアルとフルーツ、そしてジュースかコーヒーで済ませた。
大学一年目の留学生は、英語圏ではない国から来た場合、大抵ESL(English as a Second Language)のクラスに通う。和也も例外ではなく、一浪して英語が得意だったにも関わらず、クラス分けテストでなぜか下のレベルに分類された。世知辛いと感じながらも、クラスを受けてみると内容は実に簡単だった。しかし、和也は自分のリスニングが全くダメだったため、下のクラスに入って基礎からしっかり学ぶことが、将来的には自分のためになると考えた。
日本では授業で手を挙げて発言することが小学校以来ほとんどなかったが、アメリカでは積極的に発言しない生徒はやる気がないと見られるため、印象が悪くなる。集団研修でそう教えられたのを思い出した和也は、毎授業積極的に手を挙げて発言するよう心がけた。
正規のクラスを受講する前の留学生は、実に暇な時間が多かった。ESL関連のクラスはほぼ午前中で終了し、午後にはさほど重要ではないクラスが入ることが多い。読解やライティングのクラスは通常午前中に集中しており、ESLで学ぶ内容も午前中に集約されていた。午後が空いてしまうため、和也は図書館に行く以外にすることがなかった。
寮に戻ると、大抵アメリカ人のルームメイトが既に戻っていて、リスニングもスピーキングも苦手な和也にとっては、そこが落ち着かない場所になっていた。唯一、部屋に戻る時は、里美に手紙を書くときや電話ができる時に限られていた。このように、和也はアクティブな学生生活を送る一方で、言語の壁に常に直面し、それに対処する日々を送っていた。
図書館では、ライティングのクラスでのエッセイ課題や、読解のクラスのために次の日の教科書を読むという宿題をこなすが、内容が簡単すぎて数時間もかからずに終わってしまう。暇になると和也は図書館のコンピュータ端末でEメールをチェックするのが日課になっていた。面白いことに、勉強を始める前に何件かEメールを送っておくと、休憩時間には少なくとも一件くらいは返信が来ているものだ。
特に、その返信の中に里美からのものがあると、和也の気持ちは一層高まった。Eメールを確認するのが、もしかしたら里美からの返信があるかもしれないという期待で楽しみになっていた。これが入学して数ヶ月間の和也のルーティンだった。この日常は、新しい環境との対峙、言語の壁を乗り越えながら、少しずつでも居場所を見つけていく過程でもあった。
入学して数ヶ月が経過し、日本人の先輩たちが新入生の歓迎会を開いてくれた。その中には、2年上の先輩である高橋拓真がおり、彼は面倒見が非常によく、後輩や同期を気遣いながら新入生のためのネットワーキング環境を整備してくれていた。高橋は既に寮を出ており、キャンパス外のアパートでアジア人のルームメイト、リー・チェンと一緒に住んでいた。リーは日本語は話せないが、パーティーをいつも楽しむような寛容な人だった。
この歓迎会で和也は真由に再会し、初めて彼女のフルネーム、田中真由を知ることになった。
「あれ、真由さんですよね?前に寮の入口で挨拶したことがあります。」
「そうだよ。和也君?またこうして会えて嬉しい。」
「僕もです。こういう集まりはよくあるんですか」
「そうだよ。大抵、拓真が企画する。拓真もリーもいつもいい雰囲気を作ってくれて。」
「そうなんですね。高橋先輩は本当にみんなのことをよく考えてくれているし、リーさんもいい人ですよね。」
「そうだね。リー、日本語は話せないけど、とてもフレンドリーで。あ、そうだ、もしよかったら後で一緒に何か飲み物でもどう?」
「ええ、ぜひ。ありがとうございます、真由さん。」
和也と真由はこの会話がきっかけになり、自然と親しくなっていき、それが二人の交流の始まりとなった。
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