最後の速達
長谷川 優
渡米
八雲和也の若年期は、挫折と挑戦の連続だった。彼の高校受験は第一希望に届かず、大学受験でもすべての扉が閉ざされた。小学校の特設サッカー部では公式試合に一度も出場することなく、中学のバスケットボールチームでは弱小チームのキャプテンとして押し付けられる役割に苦しんだ。顧問からは厳しい叱責を受け、時には潰れたゴムボールで顔を打たれることさえあった。これらの経験は、彼にとってつらい記憶となり、バスケットボールを心底嫌う原因となった。
高校では一転して音楽に情熱を注ぎ、軽音楽部でドラムを担当。メタルバンドやビジュアルバンドに参加し、そのドラマティックな世界に没頭した。しかし、大学受験が近づくにつれ、彼はドラムを手放し、受験勉強に集中した。だが、その努力も実を結ばず、一浪しても全ての大学から不合格通知を受け取るという結果に終わった。
「二浪しても合格の保証はない」という父の厳しい指摘を受け、彼の人生に新たな提案が持ち上がる。「米国留学だ」と父が言ったその時、和也は何の躊躇もなく快諾した。英語は読み書きは得意だったが、会話はほとんどできない状態だ。それでも彼は挑戦を選んだ。ワシントンD.C.の大学にエッセイ付きの願書を提出し、見事に合格を勝ち取った。合格の喜びも束の間、和也は渡米の資金を稼ぐため、健康診断のスタッフとしてバイトに励んだ。2ヶ月間、猛烈な勤務の末、少なからぬ小金を手に入れた。そして、1995年の夏、新たな夢と未知の世界への扉が開かれた。八雲和也のアメリカ留学が始まった。
1995年、夏の終わりに近づくある朝、八雲和也は箱崎エアーターミナルで深呼吸をした。彼は一人でやってきたため、別れの涙を流す家族や友人の群れに囲まれながらも、どこか他人事のようにその光景を眺めていた。しかし、その静かな観察が一変する瞬間が訪れた。和也の目の前で、一人の女性が彼氏との別れを惜しみながら涙を流していた。彼女の名前は橋本里美。その切なくも美しい姿に和也は心を奪われ、知らず知らずのうちに彼女に一目ぼれしてしまった。
バスの中で、和也は何度も里美に声をかけようと思いながらも、結局勇気が出ずにそのままになってしまった。飛行場に着いた後も、彼は待合室で里美の姿を追い続けたが、同じように声をかけるタイミングを探すことができず、ただ横目で彼女の様子を窺うだけだった。里美自身も積極的に他人に声をかけるタイプではなく、むしろ声をかけられる側にいることが多かった。和也は里美の隣に座る勇気も出ず、ただ彼女が見える距離に座り、何とか自然な形で話せる機会を探した。
搭乗の時間が近づくにつれ、行列ができ始めた。これが最後のチャンスだと感じた和也は、どうにか行列で里美の真横に位置を取った。彼の心臓は高鳴り、緊張が最高潮に達していたが、思い切って声をかけた。
「どこの大学に行くの?」
和也の口調は少し砕けたものだったが、それがかえって彼の緊張を和らげる効果があったようだった。里美は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔を返し、
「私はバージニア州の大学で法律を学ぼうと思って」と応じた。
「法律なんて難しそう。今日はどこから?」
「茨城」
和也はホッと一息つきながら、
「俺はワシントンD.C.の大学で心理学を学ぶ予定。千葉から来た。名前は八雲和也。研修合宿でまた話せたらいいね」と言った。里美も
「うん、それいいね!また話そう」
と快く応じた。
搭乗ゲートをくぐると、和也は安堵感でいっぱいになりながらも、次に里美と話す機会を心待ちにした。これから始まる2週間の米国内の研修合宿で、彼はまた彼女とどう接すればいいのか、そのチャンスをうかがうことにした。
同期のメンバーたちは、テキサス州ダラスの地に降り立ち、そこから集団研修の場に向かった。研修プログラムは朝9時から夕方6時までという長丁場で、ディベート対決、TOEFLの模擬試験対策、グループディスカッション、屋外でのレクリエーションなど、多岐にわたる活動が組み込まれていた。食堂や寮生活の案内も行われ、和也にとっては新たな生活のスタートでもあった。
初めてのルームメイトは田中洋平。彼は落ち着いた性格で、すぐに和也と意気投合した。また、和也は様々な地域から来た日本人学生とも友情を育む機会を持った。メリーランド州の大学からは親しみやすい佐々木亮、ボストンからは冷静で思慮深い鈴木拓哉と明るく社交的な佐藤恵美、フィラデルフィアからは知的で話が面白い渡辺健一、カリフォルニアからは自由奔放な伊藤桃子がいた。テキサス地区の同期としては、気さくでユーモアのセンスが光る中村大輔と友達になった。
研修中、和也は里美を探し続けていたが、他の女性と話すときとは違って、彼女と一度話せたものの、また話しかけに行くのは勇気が必要だった。しかし、毎日夕食後、話しかけに行くようにして、暗くなってからの時間を利用して話すことで少しずつ打ち解けあうことができた。夜風を感じながらの会話は、二人の間にゆっくりとしたペースで信頼を築くのに最適な環境を提供していた。和也はその時間が日々の研修の疲れを癒す貴重なものになっていくのを感じていた。
アメリカ国内での研修後、和也と里美は同じ地域には住んでいたが、通う大学はそれぞれれ異なる。ワシントンD.C.地区までは、同じ飛行機に乗ってきたので、各大学へと別れるバスに乗る前に、里美の寮の部屋の住所を貰うことが出来た。
和也が通ったのはワシントンD.C.のスラム街にある私立の大学で、そこで彼は自分と同じ年で学年は一年先輩である伊藤真由と出会うことになる。彼女との出会いは、新たな友情の始まりを告げるものだった。
入学後すぐに、和也は里美に1通目の手紙を書き、遠く離れた二人の間に文通が始まった。和也が里美に送る手紙の数の方が多かったが、一方通行でも書き続けた。
アメリカでの生活は容易ではなかった。英語が話せなかった和也は、最初は入寮手続きさえも一苦労だったが、親切なレジデントアシスタントの助けを借りて何とか寮に落ち着くことができた。コミュニケーション手段としてはEメールが主で、英語の文をじっくりと考えることができたため、徐々に自信を持って言葉を綴るようになった。
留学初年度は語学学校で英語を集中的に学ぶことになり、午後はほとんど自由時間があった。スピーキングに苦手意識を持つ和也は、最初は消極的だった。次第に図書館で過ごす時間が増えていった。そこで彼は多くの書籍を通じて、言語だけでなく多文化についての理解を深めていくのであった。
その時代、画期的なコミュニケーション手段とされてたのはEメールだった。日本ではまだインターネットが民主化される前の時代だ。米国でも当時使われてたEメールはドスプロンプトみたいなに背景が黒で文字が白の形式で、日本語入力はできなかった。日本語を伝えたいときは、ローマ字を使って打つ必要があった。だから、日本人同士でも英語でEメールをすることがよくあった。
和也は里美への手紙に自分のEメールアドレスを書き添えた。やがて里美から返事が届き、その中には彼女のEメールアドレスも含まれてた。こうして二人の間でEメールでのやり取りが始まったけど、それでも和也は手紙を送ることを続けた。やり取りは次第に和也が10通送ると1通返事が来るという頻度に変わったけど、それでも彼は里美とのコミュニケーションを大切にしてた。
合同合宿の場で、里美と同じ大学に通う同期、佐藤健一とも仲良くなった。健一は性格に裏がなく、まっすぐで行動力があり、共感力も高く謙虚な人物だった。実家は兵庫にあり、渡米直前には近所の家が崩壊するという災難に見舞われたが、幸いにも健一の実家は無事だった。
健一との交流が深まる中で、和也は彼の寮へ遊びに行く約束をした。和也の本当の目的は、実は里美と再び会うためだった。健一は和也が里美に惹かれていることを知っており、彼の目的が里美であることも理解していた。そのため、里美にも予定を空けておいてもらうように配慮してくれていた。和也はこの友人の思いやりに感謝しつつ、再会の日を心待ちにしていた。
健一の元へ遊びに行く日、和也は数人の仲間を連れて、メトロとバスを駆使して健一の大学へ向かった。健一が寮まで案内してくれ、その部屋に招いてくれたのは、夏休みの夏学期中だったため、アメリカ人の多くは帰省しており、残っているのは夏学期を受講している生徒たちだけで、全ての部屋がシングルルームになっていた。
健一は、里美以外の女子も何人か呼んでくれており、その場をただの楽しい集まりという雰囲気にしてくれた。多くの人が一箇所に集まって笑い話をしているため、和也が里美に会いに来たとは誰も気付かないだろうと考えていた。
和也が連れてきた友人たちも、場の空気を読み、和也が爆笑を引き起こすような話題を次々に投げかける。和也はそのトスを受け、一つ一つの話に対して鋭いツッコミや面白い補足を入れることで、会場はまるでコメディショーのような雰囲気に。その場は、核爆弾のような大爆笑が寮の外壁を揺らすほどに響き渡った。この楽しい環境の中で、和也は里美と自然に会話を楽しむことができ、互いにリラックスした状態で過ごすことができた。
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