第14話

「あの成人会の馬鹿。……失礼。あの男ははっきりと言ってどこにも就職していないプー太郎らしいの」


 聞いた話、その男は有名国立大学出身であるらしかった。しかし当時、過激となっていた学生闘争に巻き込まれ、冤罪を押し付けられ、そのまま退学処分に。そして彼は就職せずにプラプラとしていた。そうしているうちに、やがてバブルが崩壊。就職氷河期が襲う。いざ働こう。そう思って色々な場所に面接を受けても、門前払いされるばかり。


 生活苦になり、もやしやかいわれ大根ですらも高級食材になったある日。彼は成人会に出会った。そして彼はその活動にのめり込んだ。いや、のめり込むしかなかった。


 成人会に出会った頃。彼は既に両親との関係が最悪であった。そうじゃなくても、親の認知症は進んでおり、息子の顔すらも思い出せないようになっていた。もう後数年もすれば、両親はいなくなる。そうなったら家から出なければいけない。そうなったら自分の居場所がなくなる。だから成人会という場所に身を寄せるしかなかった。


 そもそも成人会の目的は、貧困、富裕層を作らないこと。つまりそこに所属している者は、富裕層から一定の富。例えば食料などを恵んで貰える。働かずとも1日3食の食事は確保されていた。だからここまで働くても何とか生きることが出来た。


 とここまで聞いていてふと思う。


「富豪が貧民に富を恵むって。そんなことあるの。それじゃただのお人好しじゃ」


「そりゃ、富豪だって対価を得ているよ」


「対価」


「そう。その団体に入ることによる名誉とか幸福だとか。そういった」


「あぁ、なるほど」


 幸福は物差しで測れない。だから厄介なのだ。


「まぁ、とにかくその彼と言うのは基本的には家にいる。家で何をしているかまでは知らないけれども。決して活発な人ではない。そのはずなのだけれども」


 最初に事件が起きたのは1週間前。いつも通り、朝。通学をした。確かに家にはあの男がいた。そしてあの男はパソコンの画面を見てブツブツと呟いていた。実に奇妙な光景である。そのまま彼女は電車に乗る。疲れているせいだろうか。彼女は車内で無防備に寝てしまった。それから恐らくは20分ぐらい寝ていただろう。はて、今はどこの駅まで行ったのか。それを確認する為に車内にある電光版を見ようとした、その時であった。


 いる。そう思った。

 今朝、その体は確かに家の中にあった。今日は後、数時間。この醜い姿を見なくても良い。そう思っていた。肥溜めに集る、蝿よりも醜く、哀れで、汚い、あの乞食が。彼女の目の前にいた。


 その瞬間。彼女の胃から酸っぱいものが込み上げて来た。どうして……どうして奴がいるんだ。茅野は次の駅で電車に降りる。よし、これであの男とオサラバだ。

 激しく揺れる心臓を抑えながら、顔の血の気を引きながらそう思う。電車の扉が閉まる。その男、まだ電車内に乗ったまま。よし、よし。


 なんだ。きっと偶然に、同じ電車内に乗っていた。そして偶然自分はそれと目を合わせてしまった。それだけなんだ。そう茅野は思った。


 しかし今その男が乗った電車は、どこかへ行った。つまりもう会うことはない。

 一件落着。そう思って茅野は後ろを振り向く。


 なんで……


 彼女は膝から崩れ落ちた。そこにはあの無性髭の男がいた。


 なんで……確かに、電車に乗ってその電車に乗ってどこかへ行ったのに。どうして、彼は未だそこにいる。

 そして無性髭の男はゆっくり茅野の元へ近づいてくる。


 やめろ、やめろ。近づくな。これ以上。


 そしてその男は……ゆっくりと手を振り上げて茅野を殴ろうと


 いや、殴られてたまるか。そう思って彼女は避けた。そして駅の階段を降りた。


 どうして逃げるんだい。どうして逃げるんだい。



 その男はそう言っている。

 何故、何故なんだ。確かにあの時。電車の中に乗っていた。そしてそのまま彼を乗っけたまま発車をした。つまりあの男はこの駅にいるはずがない。それなのに。


 いる。


 あの男が。


 何故あの男がいるのか。分からない。

 ただ一つ。分かることは。あの男は自分を追ってきている。

 それは何故。茅野を殺そうとしているからだ。


 常日頃。あの男は言っていた。自分は人に成るには邪魔な存在だと。邪魔だからいないことにしようと。


「どうして君はいつも俺の邪魔ばかりするんだい」


 と彼は言った。茅野自身何のことを言っているのか分からない。茅野自身、あんな汚い髭のおっさんに深く関わったことなどなかった。だから、邪魔と言われても。一体何の邪魔?

 私の親との恋仲。冗談じゃない! そんなものは好きにやって頂戴。私は大人になったこんな土地、抜け出して、東京で輝くのだから。


 階段を降りる。改札を出る。

 その駅は、通勤ラッシュ時間帯とは思えないほど人が疎であった。スーツ姿の男性が数人。ポツリ、ポツリ。駅に向かって歩いている。ただそれだけだ。

 今度こそ、彼はいなかった。こんな場所にいるはずがない。


「アハハハ……」


 勝利をした。自分はあの男から逃げ切ることが出来た。そう思った。

 やはりあれは幻だったのだ。きっと、そうに違いない。


 電車に数本乗り遅れた。変な途中駅に降りた。そのせいで遅刻間違いなし。だけれども、それは別段大きな問題ではなかった。あの男から逃げ切れればそれでいい。


 全く。朝から変な夢を見てしまった。本当、困る。そう思って踵を返す。

 そうして彼女は再び目を大きく見開く。針金が激しく彼女の心臓に絡みつく。そんな馬鹿な、馬鹿な。馬鹿……


 無性髭の、無数の隕石を顔に打たれたような顔をした彼がそこにいた。


「どうして! どうして! あなたがここにいるのよ!」


 何故か。その男はそこにいた。そして彼は不敵な笑みを浮かべる。

 一歩、一歩。彼はこちらに近づいてくる。そうして……彼女はその日の記憶を失った。


 それが昨日あったことのあらましである。


「瞬間移動、出来る人なんているのかしら」


 と茅野は言う。薄ら笑みを浮かべている。しかし、瞳は細かく揺れている。平静を装っているだけでその実。今でもその男に対する恐怖に襲われている。それは見て分かった。


「普通は出来ないよ」


 量子テレポーテーションというものがある。それを使って情報などの物を瞬間的に移動させることができる。それ以外にもその仕組みを使い、FA Xのように3Dデーター情報を送りそれを相手元で組み立てる。などということも将来出来るようになっているかもしれない。


 しかし人間の原子は10の27乗ある。しかもその原子それぞれに纏まりというものがない。それを瞬間的に移動させるのは不可能に近い。そんなことをしたら、豆腐を飛行機の羽に乗っけて、運搬するようなもので、すぐに粉々になってしまう。

 また、昔弾丸新幹線というマッハを超える乗り物を開発しようとしたこともあった。だけれども結局それも人間がその負荷に耐えることが出来ないとして、開発されることはなかった。


 つまりは瞬間的にその場所へ移動することは不可能である。人間は。


「ただこれが妖怪であれば」


 瞬間移動が可能である。

 妖怪や幽霊は原子を持たない、現象と概念であるからだ。


「つまりはその男は妖怪だと言いたいのかしら」


 そう言わないと辻縞が合わない。それ以外に可能性なんて……


「正直言って、私は妖怪だとかそう言った類は子供騙しのものだと思っていた。あんなものを信じるなんて馬鹿じゃないかなと思ったこともある。だからはっきりと言って、妖怪退治だとか何とかと活動しているあなたたちが馬鹿馬鹿しく見えていたわ」


 だけれども。と茅野は言う。


「実際に目の前でそれは現れてしまった。本当の妖怪が」


 そこで彼女の笑みが消えていたことに気づいた。手も細かく震えている。目からはガラスのような透明な涙が溢れている。


「どうか。お願い。私のことを助けて」


 助ける? この私が。何も力を持たない私が、どのようにしてこの人を救えるだろうか。

 否。私がこの人を救えるはずがない。


 こんなお願いをされても困る。


 そうして、私は。静かに頷いた。

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