第10話
その茅野も扉を開けた勢いまではよかったものの、その後の勢いというものは落ちて、私たちと目が合うなり、ただ机の上に置かれている地図一点だけを見つめて立ち止まった。
「何? この教室だったらちゃんと先生に許可を取って使用しているよ。だから別に不平占拠とかそんなんではない」
と彼女。
どうやら高見沢は最初、茅野の事を生徒会役員の取締か何かだと思っていたらしい。
彼女は普段から生徒会長というものを嫌っている。高見沢曰く生徒会とは
「大して頭などよくないくせして、人気投票で権力を得た奴ら。他の学生生徒も馬鹿だから実力や頭の良さではなく、ノリで決めてしまう変態共の神輿に担がれて当選した人たち。あんなもの、演説で漫才っぽい事をすればそれだけで当選してしまうだろう」
などと酷評をしていた。言い過ぎなところもある。そんな生徒会に自分の楽園を邪魔されてしまうのが嫌なのであろう。
「私を誰だと思っているの。立花姉さん」
立花姉ちゃん。そう呼ばれて私と高見沢はお互い顔を見合わした。そして彼女は小さく口を動かした。
『誰よ。あの子』
そう言っているように思えた。当然、私も彼女の事を知っているはずなどない。
「姉さんということは高見沢との血縁者か何かかな?」
私はそう聞いた。すると少女はクスリと笑う。
「姉さん。その言葉を国語辞典で引くとこんな意味が出てくるわ。姉を敬う言葉。2、若い女性を親しんで呼ぶ語。つまり私は若い女性を親しんでそう呼んだわけ」
そういうと、高見沢は机に肘をつけてあくびをした。明らかに不機嫌そうな表情をしている。
「若い女性を親しんで呼ぶということは、僕は、僕よりも年下の小学生ぐらいの女児にも姉さんと呼ばないといけないのかい?」
「いやいや。小学生ぐらいの女児には若い女性なんていう言葉は使わないでしょ。幼い女児。それか女子。小学生に女性とかそう使わないでしょ」
「そうさ。小学生には女児など使わない。だけれども女性という言葉は主に成人した女性に使われる。つまり高校生に女性という表現を使うのもそれはそれでおかしいことであろう」
「そうかな」
「そうさ。それに、それにだ。大前提。私とあなたはそこまで仲良くない。君は親しい女性の事を姉さんと呼ぶと言っただろ。僕は君と仲良くなった記憶がない。小佐野賢治みたいな事を言っているかもしれないが、本当に記憶にないのだ」
「私は仲良いと高見沢姉さんと仲いいと思っているよ」
「それは何故」
「だって私も高見沢姉さんも共通点と言えば、友達がいない事じゃないか?」
「はぁ?」
そうして彼女はパタンと机の上に開いていた地図と閉じて、そのまま寝伏した。
で、出た!
「僕は君ともうこれ以上喋る気はない。馬鹿がうつる。君みたいな馬鹿のウイルス本体がウヨウヨいるから馬鹿が減らないものだ」
そうして、またしばらく。静かな時が流れる。それ以降全く喋らなくなったところを見ると本当に寝てしまったようだ。
「怒らせてしまったかな?」
と、茅野は本当に心配そうに眉を顰めて言った。その顔を見るに悪気など毛頭なかったっぽい。
「いや、大丈夫。これがいつも通りの彼女だから」
むしろ、ここで満面の笑みを浮かべて茅野と喋っていた方が怖いというものである。
「……」
「……」
高見沢が寝てしまったことにより、この地理学習室の空間は私と茅野だけのものになってしまった。
茅野を見る。彼女はただ柔和な表情を浮かべているだけであった。一体何を考えているのか。見当がつかない。そして僕は思う。何か喋らないとと。
しかし喋ると言っても、何を言えばいいのだろうか。
私には、こんなつまらない人生を歩んできている私には、ウィットに富んだ会話など出来るはずがないのだ。
「ねぇ、あなたの隣。座ってもいい?」
と彼女は言う。それに大して私はあぁ、とぶっきら棒に答えた。違う、違う。私は、この少女と距離を取りたいわけではない。むしろ……
その少女が私の横に座ってきた。そして茅野からは不思議ないい香りがした。石鹸……の匂いだろうか。ふわりと甘く、私の周辺を包むこむような匂い。他の匂いというものを感じられなくなった。
私は茅野が横に座った後も喋ることはなかった。喋りたい内容がなかったのである。
いや、喋りたい内容とか無限にある。茅野自身のこと。出身中学やら、趣味など。私はこの茅野という少女に大して、他の一般生徒よりも数段と興味というものがあった。
この扉を開けて、私は茅野という少女の名前と顔が一致した。これというのは極めて異例なことである。比喩などではなく、私は本当に人などに興味がない。嫉妬心というものがない。誰がどのように、どんな風に付き合っていたとしても、それは僕の人生に何一つ影響を与えるわけではないのだから。むしろ、嫉妬するだけ無駄な時間というものである。そう考えている。
しかしこの茅野という少女はどうだろうか。この茅野が純粋で無垢なハレな少女に、性欲に塗れたケガレな野獣。似合わない。もし、そのような姿を見たら、それは教会のステンドガラスが粉々に割れてしまうぐらいの衝撃があるに違いない。
私はキリスト信者ではないし、実際に教会に足を運んだことなどないのだが、きっとあれは高価なものである。
まだ出会って数秒の少女に対してこれは「恋」である。と決めつけるのはあまりにも早計すぎるものであるが、恐らくそうなんだろう。と思う。
ともあれ、私は茅野という少女に対して話たいことは無限にある。しかしそれらは全て、ポツリ、ポツリと泡のように消えていってしまう。
「あっ」
と短い言葉を発したのは茅野である。
目を大きく見開け、首をぐいっと上げて茅野の方を見た。茅野は悪戯な笑みを浮かべていた。
「ごめんね。広隆寺の宝冠弥勒みたいな顔をしていたからつい」
宝冠弥勒。仏像版、考える像みたいな形をしているものである。手を顎に当てて、その上仏像特有の気難しそうな顔をしている。
「もしかして悟りを開こうとしていた?」
「そんなわけないさ」
ようやく私は茅野に対して口を開くことが出来た。
それにしても……近いなぁと思う。隣に座っている茅野の裾と私の裾が触れ合っている。
袖振り合うも多生の縁というけれどさ……
「それにしても……困ったものね。姉さん。眠ってしまって」
「うん。もうこうなってしまったら恐らく18時の下校時刻までは起きないと思う……」
「そっか。そっか。ううん。どうしようかな」
「18時まで待つ?」
と提案をする。しかしその提案をした瞬間、私はハッとした。いや、18時まで待つって。待ってどうするのか。こんな会話の引き出しのないような奴と後2時間。一緒にいるというのは地獄ではないか!
急に申し訳ない。そんな気持ちが湧いてくる。
このような会話の引き出しも何もない私と一緒にいるなんて拷問以外の何者でもないか!
「そうしようかな」
そして彼女はそんなことを言ってくる。これは実に困った!
「それにしても凄い数の地図だね」
「そう。だね」
「へぇ。それじゃ、私の出身の場所の地図もあるのかな?」
「あると思うよ。ちなみにどこ出身なの?」
「うんと。遠野」
遠野か。これには民俗学好きの高見沢はもピクリと起きてきそうだな。
「遠野って遠野物語の」
「あぁ! 知っているの!」
「勿論。妖怪好きにはかなり有名な場所だから」
「そうなんだ! それは嬉しい」
遠野物語。柳田國男が明治43年に発表した作品。岩手県遠野地方の逸話などを集めた説話集である。そこには河童や山姥など今となっては当たり前になった妖怪が現れる。そしてその遠野物語で目玉の妖怪と言えば……
「座敷童」
「そう。そして福島君は座敷童ってどう思う?」
「どう思うって?」
「座敷童って妖怪なのかな?」
なるほど。
それは難しい質問である。
私はしばらく考えた。すると高見沢がムクッと机から顔をあげ眠そうな目を擦りながら
「例えばヤツノカミというものがいる」
と突然言い出した。
「ヤツノカミ?」
「そう。常陸国風土記に出てくる蛇神さ」
「蛇神……」
「うん。実はというと蛇信仰というのは日本でも最も古い信仰と言われている。稲荷信仰よりも前は蛇信仰だったと。それじゃ、どうして蛇信仰が稲荷信仰に変化したのか。それは説明すると長くなるからそれは割愛するけれども。ともあれば昔は蛇信仰というのは今でいう稲荷信仰ぐらい重要なものであった。ヤツノカミは、女性を人質にする代わりに村に幸福を与える『神』さ」
「ちょっと待って」
私はその話に何か心当たりがあった。
「まるでその話。ヤマタのオロチの話見たいじゃないか!」
「そう。クシナダ姫を生贄に捧げようとするところをスサノオが助ける有名な神話だね。このヤツノカミというのはヤマタのオロチと一緒という味方が出来る。そしてヤツノカミというのは村に幸福を与えるという性質を持っている反面、村の女を食べるという性質も持っている」
「本当だ。娘をもつ夫婦からしてみれば悪でしかない」
「そうだろう。だから一方では神の性質を持つし、一方では妖怪の性質を持つ。そんな物体だ。座敷童はそれと一緒である」
「つまり悪でも善でもあるということ」
「そう。例えばそうだな。福島君が麻雀などのゲームをやっていたとする。そして5回ぐらい連続で役満で上がったとしよう」
「実際にはそんなこと限りなくないと思うけれども」
「そう。だけれども今回は例えだから実際にそれが起きたとする。すると周りからは憑いていると思われるわけだ。そして君は嬉しいわけだ。君からしてみれば幸運なわけだ。しかし周囲からしてみればずっと役満で上がられて何も楽しくないわけ。つまりその憑き物は悪となる」
「なるほど。僕と他の人の解釈が違うということ」
「そう。そして座敷童も一緒だ。一般的に座敷童がついた家はお金持ちになるというわけ。それは自分の家はいいのかもしれないが、周りからすれば急にお金持ちになって不気味なわけだ。つまり悪だ。さらにこの座敷童。去れば貧乏になる。そうなると、それを所持していた家は座敷童は幸運の神から、悪の妖怪へと零落していく。つまり神にも妖怪にもなるような存在なのさ。しかしそれは何も座敷童に限ったことではない。例えば福島君。君だって同じだ」
「僕も?」
「そうさ。君は私とこうやって喋っている。その時点では君は私の中で大事な人間さ。しかし君が教室へ行くと、周りからは不気味に思われるだろう。そりゃそうだ。その猫背の姿。まるで物理教室の骸骨がそのまま歩いているようにしか見えない。そうなると周囲から見た君はただの妖怪じみた人間さ。つまりは神も妖怪も本当は区別などない。人間も善と悪に区別などない。いや、ある。あるのだけれどもそれを決めるのは結局集団社会でしかない。だから座敷童は妖怪なのかと聞かれても、それは僕は上手く答えることが出来ない。確かに遠野物語の文献などを参考に判別をすればいいのだけれども、しかしそういったものも結局は人間が勝手に書いた文字でしかすぎない。そこには座敷童の意志や思考などはなく、勝手な解釈をされているだけさ。だから座敷童本人がどれほど自分は神だと叫んでも、それを決めるのは客観性を持った人間でしかない。人間が彼らを神と認めないと神になどなれない。そこの少女の求めていた解答は綺麗な回答は僕には出来ないさ。だから残念ながらこれで満足をしてもらうしかない。そこの少女よ」
とまた高見沢の詭弁モードが始まった。それに関して茅野はポカンと口を開けている。そうか。彼女の詭弁モードを見たのは多分これが初めてかもしれない。
そりゃ驚くに決まっている。
教室では日本人形のように大人しく座っている少女が突然こんな喋り出すのだから。
「それでいいかい」
ともう一度高見沢は聞いた。そして茅野は静かに頷いた。
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