第4話 甲子園
野球が最高にかわいいというのは、誰にも伝わらなかった。
夜空は中学では県内でも有数のガールズチームに所属した。千夏も同じチームだった。ガールズチームは、野球を本気で取り組む場所だった。高校、プロと同じ硬式球を扱い、大会で名前を上げた選手や、将来性のある体格の良い選手は、高校野球の強豪校にスカウトされる。とくに、ガールズチームは女子野球に特化した練習に取り組むチームだった。
夜空は、そんなガールズチームで、干された。ベンチ入りすら、認められなかった。夜空の長い髪の毛は、チームの方針と合わなかった。髪の毛が長いというのは、野球に本気で取り組む姿勢には見えなかった。ガールズチームに所属する野球少女は、みんな、ショートカットだった。
ガールズチームを抜けて、他のチームで野球をしよう。
千夏は言った。
夜空は首を横に振った。
野球がかわいいと認めさせてやる。
執念があった。
野球がかわいいなんて、野球の当事者からしたら、どうでもよかった。とくに、ガールズチームに所属している野球少女たちは、厳しい練習に耐え、お金を消費し、勉強や青春の時間を削り、野球をしていた。そうなってくると、もう野球が好きとか、楽しいとか、面白いとか、そういう話ではなくなっている。
中学三年生くらいになると、少しだけ野球が嫌いだった。
「じゃあ、なんで野球をやっているんだ」
夜空はからいいから、野球をしている。
みんなは、なんで野球をやっているのだろうか。野球をやめて、別のスポーツをしたらいいじゃん。夜空は言った。みんなは首を振った。執念があった。野球が好きとか、楽しいとか、面白いとか、そういう無駄な感情論が削ぎ落とされて、野球に対する純粋な、何かが輪郭を表す。
執念。
執着。
宿命と表現するアーティストもいた。
夜空はそれを、かわいいと表現した。
それだけの差だ。
中学最後の大会を、夜空はスタンドで見ていた。横に並んでいたのは、中学一年生の後輩と、野球がそんなに上手ではない、中学二年生の後輩たち。不貞腐れていた夜空は、口パクで応援する。
北信越ブロックの準決勝戦。
これで勝てば全国への切符を手にする戦いで、相手は同じ新潟県勢のチーム。あいにくの曇り空で、ピッチャーにとっては涼しく、しかし、湿度の高い気候で、投げやすい環境だった。
7回裏、2アウト、ランナーなし。
6-0で迎えた、敗戦ムードが漂う場面。
ここまで、相手チームのエース、上杉さんに2安打無失点の投球で完璧に抑えられている中、右の打席に立つのは、横常 千夏。金色のくせっ毛は、ヘルメットで隠れてしまっている。千夏は髪を短く切った。夜空とは、ちょっとした喧嘩の途中。
千夏は、世代でもトップクラスの身体能力で、高校野球のスカウトからも声がかかるような選手に成長していた。打線では2番を任され、守備ではサードに付いている。チームメイトからは、和製アレナドと呼ばれていた。
右の本格派ピッチャーである上杉さんは、最後の打者はストレートで仕留めたいと思うタイプ。
千夏はそれを読み切っているはずだと、夜空は考察する。
大きな曲がりの変化球を二球、ピクリとも動かず見逃して、カウント1-1で迎えた三球目、高めに来たカットボールをファールにする。これで、2ストライク、1ボール。千夏が追い込まれた形だ。
四球目、内角低めに来たストレート。
若干、シュート回転したボール。
千夏は身体を開き、ハラリと回転する。
打球はスタンドに突き刺さった。
◇第33回北信越地区ガールズ野球大会 準決勝第二試合
長岡ガールズ 1-6 上越フライライクガールズ
◇◇◇
その執念が、かわいいが、行きつく先は決まっていた。新潟で、野球のシーズンが終わった秋のこと。中学三年生の野球少女は高校受験に向けて、受験勉強を開始する。もちろん、推薦で入学が内定している野球少女もいる。
最後の大会が終わり、ガールズチームを引退して、千夏の髪も伸びてきた。この髪が伸びきったら、夜空とは完全に仲直りをする。千夏が目指す高校の野球部は、髪を切らなくても良いらしい。
地元の女子高を目指して勉強をするのは、夜空と同じ。
仲直りをするために、受験勉強に誘った。
『勉強しよ?』
『甲子園に行くよ』
『うん』
オシャレな言い回しで返事が来た。千夏は文学少女だったから、夜空の返事が気に入った。一緒の高校に入り、甲子園を目指す。だから、受験勉強を頑張る。千夏は一層、身の引き締まる思いだった。
『だから、今日は勉強できない』
『だから?』
意味の不明な接続詞だった。
『いや、だから、今から甲子園に行くから、勉強はまたあとで』
『え?』
何を言っているのか分からないので、千夏はとりあえず家を飛び出し、坂道を走り、キノコ王のお屋敷を尋ねた。玄関先では、夜空がロードバイクをメンテナンスしていた。
「あ、来た」
「……ほんとに、甲子園に行くの?」
「うん」
「自転車で?」
「そうだよ」
夜空は自分の肉体を用いて、甲子園に行く必要があった。走って行くことも考えたが、現実的ではないと考えた。自転車を使えば、行けるはず。最近、ツールドフランスを見たのだ。
「新潟から、大阪だよ?」
「兵庫だよ?」
「……無理じゃない?」
「甲子園を目指すのに、無理だなんて言葉を使うべきではないよ。文学少女ちゃん」
野球少女の執念が行きつく先は、甲子園だった。
野球少女は甲子園を目指し、多くの場合は、負けて終わり、それから野球を続けるか、そこで引退するか、どちらにせよ、執念のようなものに決着をつける。野球ではなく、人生と向き合う。人生のなかで、野球の楽しさを思い出す。
野球が好きで始めて、野球が嫌いになるまで続けて、執念の限り進み、終わる。
しかし、かわいいは終わらない。
「つまりね、わたしが辿り着いた野球がかわいいという真理と、多くの野球少女が抱える執念は、別のものだと証明したいんだよ。これは仮説なんだけど、わたしは自分の野球観で野球をしていて、多くの野球少女は多くの他者が、つまり大衆が作り上げた輪郭的な野球観で野球をしているんじゃないかな」
髪を短く切りなさい。送りバントをしなさい。走り込みで下半身を強化しなさい。声を張り上げて、ボールを呼び込みなさい。夜空は、世の中に蔓延っている野球に関する常識的な意見を、指折り数えていく。
これは大衆向けの野球。
夜空の野球は、個人的な野球。
野球は最高にかわいい。
「だからね。わたしは甲子園に辿り着いても、満足はしないと思うんだ。わたしは、野球がかわいいということを証明するまで、一生、野球に囚われている。辿り着いたら分かる。そう思うでしょ?」
夜空はそう言って、ニコッと笑う。
千夏もニコッと笑って、言う。
「思わないよ」
夜空の仮説というのがまるで正しいのだとしても、自転車で辿り着いても意味がないはずだ。県予選のトーナメントを勝ち進み、野球で辿り着かないといけない。そうではないと、何の証明にもならない。自転車についての、何かが証明されるだけだ。
「お土産は何がいい?」
夜空には言っても無駄だった。
「甲子園の土」
「あはは。お土産の言葉通りだね。さすが文学少女」
準備を終えた夜空は自転車を漕ぎ出した。
甲子園の土を持って帰ろうとした日には、不法侵入と窃盗で捕まるかなと千夏は思う。そう思うなら注意した方が良いのだが、言わないのは、夜空が甲子園に辿り着くとは思っていないからだ。
おそらく、野球の神様が嫉妬して、自転車で辿り着くことを許さない。
野球は、星見 夜空が最強にかわいいと気づいてしまったから。
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