第5話 足の悪い少女 肘が切れた少年



 御子左 有栖は、右足が悪い。

 杖で支えないと、歩くのが困難だった。 


 有栖は、新潟の田舎で生まれた。両親は名家の出身で、おじいちゃんは大学教育界で有名な重鎮だった。血統と英才教育に基づいた、卓越した頭脳は、彼女を過剰な完璧主義にさせた。


 そして、自分が唯一無二であることを願っていた。


 足が悪い分の何かを、補おうと考えた。


 まず、文学少女になった。文学において、足の悪さはおよそ関係がなかった。およそである。絶対ではない。足が悪い主人公の小説などを書く場合、また批評する場合には、当事者性が役に立つ。


 文学のなかで、有栖は完璧になることができた。


 足が悪い人間でも、文学の枠組みの中にいた。


 つまり、足の悪い文学少女が、有栖以外にも存在している。


 それは、唯一無二ではない。


 有栖は文学少女として、結論に辿り着いた。


 文学少女の行き着く先は、図書室である。小学校の図書室で、よく千夏と出会った。二人が野球に出会う前の話だ。お互いに文学少女であるという認識はあったが、挨拶をするような関係性ではなかった。


 クラスで最も足が速い女の子と、走ることもできない自分が、同じ文学少女になるとは、不思議なものだと有栖は思う。文学は全てを内包するのだろう。足が悪い女の子でも見捨てない。


 目が見えない人間はどうだろう。


 目が見えなければ、文字が読めない。

 

 しかし、最近は、音声で読書をするというような機能がある。技術の進歩にも助けられながら、文学は人を抱きしめていく。文学に不可能はない。有栖はそれがつまらない。不可能を可能にしたいのだ。それでこそ、唯一無二と言える。


 文学の中に身を置きながら、自分にとって不可能なことを探すことが有栖の日常になっていた。小学校四年生の12月。先生がサンタクロースの格好をして教室に現れた日。


 学校に大谷グローブが届いた。


 千夏が図書室に来なくなった。


 気にするようなことではなかった。しかし、千夏と夜空がグラウンドでキャッチボールをするのが見えた。文学少女は、野球少女になるのだ。なぜ? もしかして、自分も野球少女になるのだろうか。有栖はグローブを購入した。


 大谷グローブではなく、オーダーメイドのグローブである。大谷グローブは予約で一杯だったし、有栖の実家の財力なら、大谷グローブに頼らなくても、簡単にグローブが手に入った。


 野球を始める環境は、全て整っていた。


 しかし、有栖は足が悪かった。


 ボールを上手く投げることができなかった。


 有栖が投げたボールはお屋敷の廊下を転がった。外に出なくても、キャッチボールをするには十分な距離と広さがあった。数百万円の価値がある絵画の横を、勢いのないボールが通り過ぎる。


 使用人の女性がボールを拾った。


 投げ返そうとしたけど、有栖はそれを止める。


 甲子園を目指すことは、有栖には不可能だった。



「わたしが目指すべきは、甲子園でしょうか」



 有栖は野球の枠組みの外にいた。


 しかし、身体障がい者にも、野球を諦めることができない人間がいるはずだと、有栖は気づいた。夜空の気づきと、似たようなものだ。有栖は自分の人生でやるべきことを見つけた。


 二刀流という、唯一無二の男でも、野球の全てを内包しているわけではない。


 野球には、隙があった。


 その隙は、傷のようなものだった。

 

 だとしたら、野球は右足が悪かった。




◇◇◇




 女子野球が盛んな日本だが、もちろん、男子野球も存在している。男子野球が存在していれば、もちろん、野球少年もいるわけだ。そして、新潟の田舎に、利き腕の肘が切れた野球少年がいた。


 復帰には手術が必要だった。


 成功率のとても低い手術だ。そして、お金もかかる。


 左手で石を拾う。川に向かって、投げてみる。しっくりこない。少なくとも、中学三年生の夏から左で投げる練習を始めて、甲子園に間に合う気がしない。そもそも、少年はキャッチャーだった。左投げでキャッチャーは通用するのだろうか。外野手に転向したらいけるだろうか。それにしても、練習の期間が必要だ。そして、左投げを練習している間にも、ライバルは練習をしている。差は開く。


 県内でイチ、ニを争うような優秀なキャッチャーだった。野球脳が優れていて、インゲームから最適な戦術を思いつくことができる。身体能力が高いわけではなかったが、技術と頭脳で、盗塁阻止率も優秀で、監督、投手陣からも信頼を集めていた。なにより、ボールを後ろに逸らさない。


 自然療法で肘が治癒するまでは、ボールを投げることはもちろん、バットをスイングすることも禁止されていた。強豪校からのスカウトはあったけど、怪我が発覚してからは、才賀獲得から撤退した。


 野球は諦めるか。

 才能はあったんだけどな。

 怪我をしないのも才能か。


 山の向こうに日が沈む。河川に夕日の光が差し込む。川の水に反射して、一面がオレンジ色に輝く。まだ中学三年生だ。これからの人生は長い。野球人生の斜陽を認め、潔く諦める。


 そこに、一人の少女がやって来た。



「こんばんは。才賀 俊太郎さん。わたしは、野球小説家です」



 土手に高級車が停まっていた。黒い車体に、夕日が反射している。



「……三年二組の、御子左 有栖だろ?」


「野球小説家です。ペンネームはアリスです」



 そもそも、野球小説家なんて聞いたことがない。


 ちなみに、有栖は『異世界野球』という小説を書いて、インターネットに投稿している。自称ではなく、れっきとした野球小説家だ。SNSのプロフィールでも、野球小説家ですと自己紹介をしている。



「それで、野球小説家さんが何の用?」


「はい。女子高校野球の監督として、甲子園を目指しませんか?」


「意味わかんね」


「分かりませんか?」



 まあ、意味は分かった。


 監督として、甲子園を目指す。野球少女を率いる。意味は分かるが、有栖の提案は、怪我を茶化されているような気がして、不快だった。素直になれなかった。しかし、才賀の目に、有栖の右足が映る。


 彼女が怪我を茶化すはずがない。



「わたしたちは、野球の外側にはじき出されたんです」



 その感覚は才賀にもあった。野球選手として、もう終わりだと、野球から宣告された気分だった。しかし、野球選手として終わっても、野球の外側にはじき出されても、野球には隙がある。その隙を狙う。


 二刀流になれなくても、唯一無二は存在している。



「それで、俺が監督で、君が小説家?」


「そうです」


「どんな小説を書くの?」



 才賀の質問に、有栖はにっこりと笑った。



「これかお茶でもどうですか。ギリギリ夜ではありません」

 


 文学は全てを内包する。


 有栖は野球の全てを、小説で書くつもりだった。


 


 


 

 

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