5話 元社畜美人はあの日を思い返す
目が覚めると、目の前にはテーブルと黒い画面のタブレット、水滴のついたショットグラスに全く減っていないウイスキーの瓶が綺麗に並んでいた。
カーテンの隙間からは、あの日のように光の筋が差し込んでいた。埃も綺麗に舞っていて、それらはいつかのようにキラキラと輝いていた。季節は春。部屋の温度もあの頃と同じような暖かさで、僕は目が覚めても夢を見ているような気になった。
今日は土曜日。仕事は休みで、だから僕も昨晩は気が大きくなって、酒を飲みながら昔話をたらたらと書き続けるような真似をしたのだ。
リビングまで降りていくと、嫁はもう起きていた。あの日と変わらない、よく手入れされた艶やかな栗色の髪の毛が躍動的にキッチンの中を行ったり来たりしていた。キッチンからはお肉の香ばしい匂いが香る。
「おはよう」僕が声をかけると、嫁はゆったりとこちらを振り向いた。
「おはよう、昨日はどこで寝てたの?」
「書斎にいたんだ。ちょっと書きたいものがあって」
嫁はその幼さの残る顔を弛ませて「珍しいね」と言った。昨日僕たちの出会いを書いていたからか、こちらに振り向く彼女はあの頃の彼女を切り取り、この場に貼り付けたかのように感じた。
彼女が料理を作っている間、リビングのソファに腰をかけ、新聞を開いた。学生の頃は新聞どころかニュースすら読んでいない僕だったが、社会人として働き出した時に、社会情勢においてかれないために実家で両親が読んでいた地方紙を取った。最初は薄い紙を捲る動作がぎこちなかったが、数年と読んで行くうちに様になったと思う。妻が朝ごはんを作り旦那が居間で新聞を読む。一昔前の家族像が、いつの間にか僕の日常になっていた。
「ちょっと書きたいものって、なんだったの?」
キッチンから声がする。話の流れ的に、僕が最初に言った言葉に対しての質問だ。僕は新聞から顔を上げてキッチンの方を見るが、ソファからは間取り的にキッチンに立つ彼女のことは見えなかった。
「んー、昔話」
「え、桃太郎とか?」
ひょこっという効果音が鳴りそうな仕草でキッチンから覗かせる彼女の顔を見て、僕は軽く吹き出した。「あなたとの出会ったころのこと」を言おうとしたが、言おうとすると喉元がむず痒くなる。
「なに、言いにくい事なの?」
「いや、そんな事ないよ。」
僕は言葉をつっかえながらも、出会った頃の話を書こうと思ったことを話した。彼女はそれを聞くと「ヘー」と興味があるのかないのか、わからない返事をした。
「あの頃ね。私もあなたもずいぶんやられてたもんねえ」
「精神的にね」
あの頃、僕たちはお互いに傷を負っていた。僕も、あるいは彼女もお互いを必要としていたし、お互いが救いになっていた。出会いから始まった何気ない毎日が、お互いの傷を癒す1番の薬だったことは、今になってようやくわかった。
僕は新聞を読むのをやめて、ふと手元に置いてあったスマホの写真ファイルを開いた。時計の針を反対に回していくように上方向へとスクロールしていく。ファイルの中には、佐藤さんと過ごした思い出の日々を切り取った写真が保存されていた。もちろん、昨晩思い返していた、でかいベッドを下宿先に設置した時の写真もあった。
「おはようー」
スマホの写真を懐かしい気分で眺めていると、子供部屋の方からペタペタと素足がフローリングを叩く音がする。振り返ると、今年小学校に入学した娘・桜の姿がある。
「おはよう桜」
「うんー」
「昨日はママと寝たのか?」
「うんー」
さくらはまだ眠いらしく、僕の座るソファの隣、空いているスペースに体を投げ出すと、再びすうすうと穏やかな寝息が聞こえてきた。僕の太ももあたりに頭を向け仰向けに寝ている桜の額には、前髪が汗でピッタリと張り付いる。母の面影を宿した娘の顔に愛おしさを覚え、そっと張り付いた髪の毛を撫でた。
「さくら寝ちゃった?」
「うん、小学生になったばかりだし、寝足りないだろう」
さくら小学生になって、僕と同じ時間に起きるようになった。小学校は分団登校なので、集合時間に間に合わせるためだ。最初の頃はママが桜を起こすことが多かったが、最近は1人で起きるようになっている。娘が少しずつ成長、自立していく様子を見て、僕も心が震える毎日だ。
「ねえ、三船君」
あの頃の呼び方で呼ばれ、心臓がどきりと跳ねた。いつの間に僕の顔のすぐ隣に彼女の顔があった。僕のスマホに映る、でかいベッドの写真を懐かしそうに眺めていた。
「ああ、懐かしいね、この呼び方。その写真も。なんだか私も懐かしくなっちゃった」
「一緒に他の写真も見返そうか」
「うん、後でね……あ、そういえばまだ思い出話は書き続けるの?」
「うん。そのつもりだけど」
「じゃあさ、あれも書いといてよ。初めて一緒に外へ飲みに行った時の話……三船くん、きっと自分じゃ書かないから」
彼女はそういうと、少しだけあの日のことを語り出した。
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