2話 社畜美人は慰める

 結局、湯船には浸からずにシャワーだけを浴びて、外に置いてあった部屋着に着替えて佐藤さんがいるであろうリビングへと戻ることにした。お風呂の湯は抜き、換気扇のボタンをオンにする。

 中央にスモークグラスが張られたドアからは、部屋の電気とが漏れ出ていたが、向こう側はしんと静まり返っていた。私は再び心拍数が上がり、嫌な汗がじわりと出るのを感じながら扉を開けた。


 扉を開けると、デパートのレディース館で漂うようなオレンジ系の良い香りが香ってきた。まるでこの部屋がもう僕の部屋ではないような感覚を覚えた。

 佐藤さんはさっき僕が座っていた場所で、改札の前に座り込んでいた時のようなモデル座りをしていた。やはり男物のシャツではあり得ない胸元の凹凸と、シャツと机の間に映える肌色に目が行きそうになって、慌てて視線をあさっての方向へとやりながら声をかける。


「明日もお仕事でしたよね?もう寝られますか?」

「うん、そうしようかな……何から何までありがとうね」

「わかりました。ならそこのベッドを使ってください」

「三船君はどうするの?」

「もう一つ布団があるので、そっちで寝ます」


 普段は使わない来客用ベッドを押し入れから取り出して、ベッドの横に敷いた。1年間ほど使ってなかったため、少し埃っぽかったが、なんとか寝られるだろう。佐藤さんは仕事で疲れているだろうし、ベッドでゆっくり休んでもらいたい。下宿先についてから目すら合わせられない僕ができる、せめてものおもてなしのつもりだ。


 布団を敷いている間、佐藤さんは僕の敷いている布団を避けながらベッドに乗っかった。「うちのベッドよりふかふかなんだけど!」と興奮気味に語る佐藤さんの声を聞いて、肩の力がふっと抜けた。まだ数時間も関わってないが、やはり彼女は愛嬌のある人だと思った。


 布団を敷き終わり、僕は布団の上で、彼女はベッドの上で軽く他愛のない話をしてから、すぐに寝ることになった。僕はまだまだ起きていられたが、佐藤さんは明日も出勤で7時には起きなければならないというので、無理もなかった。


「じゃあ、電気消します」

「うん、おやすみなさい」


 電気を消しても、僕の瞼はなかなか落ちようとはしなかった。むしろベッドの上から漂ってくるオレンジ系の甘酸っぱい香りが、この部屋に女性がいることをより強く感じさせて、目が冴え始めてしまった。もうすっかり抜けてしまったアルコールが恋しかった。


 心拍数の上昇を感じながら、僕はぼーっとあの日のことを思い出してしまった。僕が恋愛をもう一生しないと決めた日、そして人生で初めて後悔という言葉の意味を実感した日。

 あの日も、これくらい心臓の音がよく聞こえていた。まるで底のない沼に片足を突っ込むともう戻れないみたいに、僕は当時の記憶に溺れかけていた。

 ベッドの下の何もない空間が段々と揺れ始め、僕はまた泣いていることに気がつく。けれど、隣のベッドの上では佐藤さんが寝ている。僕は鼻を啜らないように、じっとポロポロと落ちる涙の熱だけを感じていた。


「そういえば、今日泊めてもらえるお返しだけど」


 ベッドの上から声がする。優しくてゆったりとした、色っぽい声だった。僕の階層はそこで打ち切られ、涙も自然と止まっていた。そして彼女に声にじっと耳を澄ませる。秒針がカチッ、カチッと硬い音を立てながら、しばらく沈黙が続いたことを知らせる。


「私、これから何されてもから」


 それきり、佐藤さんの声は聞こえなくなった。発言の内容を咀嚼するのに30秒ほどを要した。鼓動の音は秒針の音に追いつき、やがて追い越した。

 理解する頃には、僕の涙はすでに止まっていた。代わりに額から冷たい汗がじんわりと滲むのを感じた。無音のワンルームの中、僕はそっと立ち上がった。


 ベッドの上の彼女は、無防備という言葉そのものだった。月明かりがカーテンの隙間から彼女を照らす。オーバーサイズのシャツもへその辺りまで捲れており、黒色の下着が丸見えだった。しかも仰向けで寝ているため、大きな二つの膨らみも僕の脳味噌に直接官能的な衝撃を与えた。


 何も考えずに、まず彼女の胸元へ手をやった。普段の生活では感じない肉感のある弾力が、僕の手のひらに帰ってきた。同時に、触れた瞬間佐藤さんの呼吸がふっと一瞬乱れる。目は確かに瞑っているが、頬が紅潮しているのはよくわかった。


……俺、この人とヤレるんだ


 最初に抱いた感想はなんとも野生的なそれだった。

 このまま彼女のことをめちゃくちゃにしてしまおうと思った。恋愛をしたくはないと言っても、性への欲望は高校生から衰えていなかった。

 駅での僕の提案をナンパだと笑っていた彼女だから、その言葉の意味も目的も、彼女は理解していたのだろう。だから僕は何も考えずに、彼女の解釈するナンパという言葉を実行すれば良いのだ。


「本当にヤッちゃいますよ」


 ささやかな理性から出た言葉は、意味のない言葉であることをすぐに悟る。そう、彼女はのだ。何を聞いても、何をしても反応はしない。だから僕は思い切って、彼女が履いている下着をずらそうとする。すると彼女の腰が数ミリ浮いて、少しの力でするりと下着は脱げてしまった。

 その行動でも僕の脳みそはビリビリと痺れた。僕はこのまま、ブラックホールのように渦巻く欲の中に自分ごと投げ入れてしまいそうだった。


 だが、目の前の佐藤さんと彼女の姿が、重なる。


 思い出して考えると、小さなガラスの破片のようなものが同時に渦の中に現れる。それは僕のあちこちを駆け巡って、たちまち僕を傷だらけにしていった。


 無防備な佐藤さんが寝転がるベッドの横で、両膝を立てて僕は固まってしまった。治った目頭の熱が再び目元に現れるのを感じて、僕は慌てて黒い布を彼女の腰元に置いた。そして彼女に掛け布団をかけると、僕はそのまま布団に寝転がって彼女に背を向けた。


 もうこのまま寝てしまおう。疲れている彼女を襲ったところでなんの快楽も得られないじゃないか。そもそもこれで彼女を襲って通報でもされたら不利になるのは僕だ。

 布団の上で、僕は僕がどんどん小さくなっていくのを感じた。



 数分経った頃、僕はもうすっかり冴えた目を瞑って、寝ようとしていた。すると後ろの方からガサガサと布団が擦れる音が聞こえ、次に僕のすぐ後ろで人が寝転ぶ気配がした。直感的に佐藤さんが僕の後ろで寝ていることに気づき、僕はそのまま寝たふりをしようとした。


 ぎゅっと、彼女は後ろから僕の胸元に手を回して僕に密着した。


「……ごめん、私何かしちゃったかな」


 佐藤さんは僕の耳元で優しく囁いた。


「……いえ、そうではないんです」

「私も初めてだからどうしたら良いかわからなくて、ごめんね」

「そうじゃなくて」


 僕は堪らず、佐藤さんにぶつからないように寝返りを打った。その時、久しぶりに彼女の顔を見た。月明かりに照らされた彼女の顔は、不安そうに歪んでいた。瞳はキラキラと光り、眉は垂れ下がって、口元は震えている。


「ご、ごめんね……」

「こちらこそ、すいません。佐藤さんはすごく魅力的だったんですけど、僕の方に問題があって」


 今度は僕の視界が揺れ始める。僕が弱気なせいで佐藤さんを不安にさせて申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになるが、記憶が僕を縛り付けて、何もさせてはくれなかった。


「泣かないで」

「ごめん、なさい」


 まだこの時は、お互いを理解できていなかった。彼女は彼がなぜ泣いているか、彼はなぜ彼女が不安そうに震えているかがわからず、ただ彼ら自身の感情に支配されていた。優しく声を掛け合っているようで、彼らはまだ、彼らに本当の意味で優しくはなれないのである。

 その時できることは、お互いに抱き合って、彼ら自身の過去という敵に負けないように眠りに就くだけだった。

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