改札前で社畜美人を捕まえました

中州修一

1話 社畜美人は改札前に座る

 僕の人生がより良い方向に変わったと確信できる瞬間には、一つだけ心当たりがあった。終電間際の駅の改札口、規則正しくタイルが並んでいる無機質な空間の中で、彼女に出会ったあの日だ。


 人との出会いは、その瞬間それが良いことか悪いことかは分からない。人との繋がりが後になって悪い方向に作用した時もあれば、良い方向に作用した時もある。或いは『この点では良かったけれど、この点では悪かった』と思う瞬間もある(実生活では三つ目の場合がほとんどであるが)。30歳という一つの節目を迎えた今でも、その言葉は変わらず心の中にあった。人として生きている以上、人生の分岐には必ず他者との出会いは要因の一つになりやすい。


 僕は今、ウイスキーの瓶とショットグラス、そしてキーボードとタブレットを机に置いて、嫁との出会いを文章として書き起こそうと思った。彼女は今、もうすぐ二歳になる娘を子供部屋で寝かしつけてくると言って、子供部屋で娘と一緒になって寝ている。僕よりも三歳上とは思えないほど幼い顔立ちの彼女を見ると今でも胸がどきりとするが、最近は僕の老けがより強調されるような気がして、なんとも言えない気持ちになった。

 

 彼女と出会うまでの僕は、乗り越えられない壁の前で右往左往し、塞ぎ込むだけの毎日だった。気力もなく、まるで何も無い無機質な空間をあてもなく歩き続けるように、目的もなく生きていた。

 しかしそこには彼女がいた。社畜美人とも形容できる彼女は当時から無邪気で活発な、太陽のような女性だった。同時に当時大学生の僕が引くほどの社畜だった。

 そして、彼女との日々は壁を乗り越えられる力のない僕に力を与えてくれた。


 日に日に薄れゆくあの日々の思い出をアルバムに貼り付けていくように、僕はキーボードを叩いている。五畳にも満たない小さな書斎の中で、僕は記憶のページを一枚ずつめくるように、あの日のことを思い出した。



 大学2年生のある日。その日は珍しく終電間際まで、大学の唯一と言っていい友人と2人で名古屋駅付近の居酒屋を巡っていた。お互い学生でお金がないため、巡ったお店は全て学生御用達の格安で食べ飲み放題になるような大衆居酒屋だった。

 どこの居酒屋でもドラム缶を改造した椅子に座り、サイドテーブル程度の小さなテーブルの上いっぱいにアテの入っている小鉢を並べて、僕たちはそれを適当につついていた。片手にはジョッキを持って。他の客の話し声がうるさく響く店内で、僕たちの会話は叫びにも似たものになっていた。


 酒を飲み交わしながら話す内容の8割は、恋愛に関するものだった。彼はその手の話を好み、どこから得てきたか分からない噂話程度の内容を話していた。


「それでさ、〇〇が成人式で再会した女の子と付き合っちまったんだってよ。しかも、成人式の二次会の後〇〇の家に二人で泊まったんだって。距離の詰め方が早すぎだよな、まったく。それで〇〇にその子の写真見せてもらったんだけどさ、これがめちゃ可愛いのよ。俺も成人式でそんな出会いがしたかったよ」


 彼は恋バナをする度に『あー、俺も彼女がほしい』と嘆くような男だったが、反対に僕は恋人どころか、恋愛に発展しそうな相手すらようにしていた。きっと後述することになるが、僕は既に恋愛には打ちのめされていたのだ。その出来事があって半年間は家から簡単には出られないと思った僕は、彼女どころか女友達すらも当時は敬遠していた。

 そういうこともあり、僕はただ芯のない返事を繰り返すだけだった。友人が笑えば僕も笑い、友人が驚くと僕も驚いた。ただ一人の時間を潰すためだけに、僕は彼と酒を飲んでいた。


 午後11時30分。ライトが歩道を照らす飲屋街を友達に肩を貸しながら歩いた。3件目の韓国風居酒屋で完全にダメになってしまったのである。


「もう1人で大丈夫だから」


 JR名古屋駅の改札前、帰り道が別れる所で彼は静かにいうと、改札の向こうにふらふらと行ってしまった。振り向かないまま少しだけ手を挙げてこちらに挨拶すると、彼の姿は柱に隠れて完全に見えなくなる。

 僕は迷っていた。このまま彼を一人で帰らせて良いものかと。だが僕も今地下鉄に乗らないと、下宿先まで徒歩で帰る羽目になってしまう。

 一分ほど改札前で友人と自分を人知れず天秤にのせた結果、「気をつけて帰れよ」とLINEを送り、足早に地下鉄の改札まで向かった。


 金時計の正面にある階段を降りて地下鉄へ向かう。時間通りにホームに降りてみると、すでに最終電車は到着していた。僕は慌てて階段を降りるスピードを上げる。そして電車に駆け込み気味に乗り込むと、地下鉄はそれを待っていたかのようにすぐに出発した。


 電車を最寄駅で降りた頃には、既に12時を回っていた。ホームの反対側の電気はもう消えている。普段はもっと早い電車で帰る事もあり、珍しい光景だなぁと呑気に思いながらひとり階段を登った。

 しかし階段を登り駅の改札を出ると、もっと珍しいものを見かけた。


 女性が、改札の前で女の子座りで座り込んでいたのである。

 薄ピンクのブラウスと黒のパンツを身につけ、靴は黒のパンプスを履いており、オフィスカジュアルの会社員というイメージだった。栗色が控えめに入れられた艶のあるセミロングの髪がだらんと床に向かって下りて、女性がどんな表情をしているかその時は分からなかった。


 そんな女性が僕の前にいるものだから、僕は最初それを避けるように、進路を少しずらした。女性とすれ違う瞬間までは、そのまま放っておこうと思った。

 しかしすれ違う時に、女性の独り言が聞こえた。


「また……ネカフェ……か野宿……」


 女性の発言の内容を反芻し、僕は3歩ほど歩いてからゆっくりと彼女の方を振り向いた。女性がなぜそんなところに座り込んでいるか、僕なりに恐ろしい仮説を立ててしまったからである。華奢な背中は、次第にわなわなと震え出した。間違いない。彼女はどうやら、終電に乗り遅れてしまったようだ。

 

 僕は立ち止まって考える。ここまで考えて、そのまま歩いて去ってしまうのも具合が悪い。しかし女性と無意味に関わるのも、僕にとって同じぐらい具合が悪い。女性と話せないわけではないが、僕が彼女にしてあげられることは極端に少なかった。

 葛藤していると、出口を閉めていたのであろう駅員の革靴がカツカツとタイルを鳴らす音が後方から聞こえてきた。

 まずい。このままだと女性もそうだが、俺も不審者と思われかねない。善意と理性の葛藤が、ちょうど僕の真ん中でせめぎ合っていた。


……ええい、どうにでもなれ!


 カツカツという音が三つならないうちに、僕は女性に向かって駆け出していた。女性の後方に片膝をつき目線が合うようにして、僕史上最も優しく声をかけた。


「あの、大丈夫ですか?」

「ふぇ?」


 かわいい。


 目が合ったと感じた時に抱いたのは、なんとも緊張感のない感想だった。しかし、年下かと思うほどの童顔。丸みを帯びた小さな顔、大きな瞳が潤んでキラキラと光っていたら、そう感じるのも無理ない。

 僕はどうやって話しかけようか、言葉をある程度考えていたが、それ以降のことを考えていなかった。当時の僕は、きっと口をぱくぱくとさせていたと思う。


「とりあえずここを出ませんか。ほら、もう駅も閉まっちゃいますし、ここにいても何も解決しないと思いますよ」

「あのー、すいません。そろそろ出口閉めますよ」


 駅員の若い男性が、控えめな声色で僕たちにそう言った。僕は内心『わかってます』と返事をしようとしたが、それよりも早く彼女が「すいません」と、僕と若い駅員を交互に見ながら言った。



 出口を出ると、すでに外は真っ暗だった。駅の目の前には総合病院があるが、病室の電気も今日はほとんど消えている。名古屋駅の煌々と光る賑やかな景色とは違い、街灯がぽつぽつと光るだけだった。大通りを歩いているのに、車も人も僕ら以外にはいなかった。

 僕は隣で一緒に景色を眺める女性に、もう一度声をかけるのだった。


「あの、大丈夫ですか?」

「はい、心配してくれてありがとうございます」


 先ほどとは打って変わって、軽い微笑みを浮かべながら明るくそう言う。ビー玉のように透き通った瞳が僕を捉えて、少しだけ目線が合う。彼女は首を傾げて僕の方を見つめるが、僕はそれだけで顔が熱くなってしまってすぐに目を逸らした。

 僕たちはそれから、僕の下宿先の方に歩き始めた。これはたまたま歩いた方向が僕の下宿だっただけだ。


 しばらくは無言で歩いていたが、僕が駅の改札口で座り込んでいた理由を聞くと、彼女は恥ずかしそうに乾いた笑いを浮かべた。


「私ったら本当にダメダメで、仕事でいつも終電逃して、近くのネカフェか公園で寝ちゃうんでんすよ」

「公園は危なくないですか?それにここら辺のネカフェって、治安結構悪いし」

「あはは、そうなの。シャワーもないし……お風呂はなくても、せめてシャワーくらいは浴びたいですよね」


 話してみると、この女性は本当に親しみやすい人だった。僕も会話が苦手という訳ではないけれど、初対面からここまで砕けて話せる人もなかなか珍しいと思う。

 だかそれだけに、女性の生活には不安を覚える。ネカフェや公園のある方向は、たまたま僕の下宿先の近くだった。それだけに、それらの治安の悪さは、僕もよく知っているつもりだった。


 この女性を心配に思う気持ちはあった。しかも、少なくとも今日だけは安心して休んでもらえる方法があるのも、僕は知っていた。

 だからこそ、僕は歩きながら再び黙ってしまった。その方法は表面的には、女性を口説き落とそうとする男のそれだったから。僕はその手の行為は大嫌いだった。初対面の異性に可愛いとか表面的な言葉を並べて、薄っぺらい関係を築くのは特に嫌いだ。そしてその卑劣な行為に、顔がいいからと言って簡単についていく女も嫌いだった。


 終電で別れた友達と電車を天秤にかけたように、女性への心配と僕の私情とを天秤にかける。今回は、少しだけ前者の方が勝ったような気がした。女性は苦手になりかけていたけれど、この時の判断は間違っていないと当時から確信していた。彼女と特別な関係になりたいという下心はなかった。ただ、彼女に今日だけは安心して休んで欲しかった。

 だから僕はできる限り言葉を選びながら、それを提案してみる事にした。


「あの、ナンパとかでは無いんですけど」

「はい?」

「今日はうちで泊まりますか?お風呂も入れるし、お布団もありますよ」


 僕は正面を見ながら歩いてはずだったのに、気がつけば女性の方を見て立ち止まっていた。僕につられて数歩先で立ち止まった女性も、じっと僕のことを見ていた。ぱっちりとした目が僕を捉えて、初めて僕は後悔したのである。やっぱりこれはナンパだと。


「ぷっ……ふふっ!」


 瞬間、女性は曲げた人差し指を口に添え笑った。肩にかかった薄茶の髪がさらさらと揺れ、やっぱりこの人はかわいいと、今の状況を差し置いて感じてしまった。


「君、ナンパした事ないでしょ」

「ナンパは嫌いです」

「じゃあその提案は何?」

「……ナンパです」


 そういうと今度はさらに大きな声で笑った。この行動をナンパと形容する他なかったことが恥ずかしかった。しかしそれ以上に目の前で花が綻ぶように笑う女性が、その全てを相殺しているような気がした。

 そうしてひとしきり笑い合えた女性は、今度は妖艶な笑みを浮かべながら言った。


「私普段はナンパには絶対ついて行かないの。軟派な男は他の女にもなびくからね」

「僕もそう思います」

「でも初めてのナンパなら、お兄さんについて行ってみようかな?」


 僕よりも少し背が低い彼女だから必然的に上目遣いにもなって、それを見る僕も心拍数が上げさせる。僕はそれをなんとか抑えながら「じゃあ行きましょうか」と、平静を装ってまた歩き始めたのだった。


「まさか仕事終わりにナンパされるとはね」

「もうバカにしないでください」

「ごめんごめん、ふふっ……あ、お兄さんのお名前は?」

「三船です」

「名字だけ?」

「今は」

「ふーん、じゃあ私は佐藤だね」


 街灯がまばらに光る夜中の道で、僕たちは名前を教え合う。初ナンパ成功の瞬間、この瞬間は今でもたまに夢に見る。僕の人生はやって後悔した事ばかりだったが、この時ばかりはやっても後悔をしていない。


 歩いていたのは10分くらいだったが、その10分は、僕の今日一日よりも長いように感じた。佐藤さんは楽しそうに彼女自身のことを話してくれた。住宅販売を行う社会人2年目であるということで、仕事は毎日大変で、今日みたいに終電を逃すことも珍しくないようだった。


「終電で帰れないのは酷ですよね」

「そうだよねー。でも普段は始発で帰ってるから、終電に間に合うかどうかの時間で帰れるのは、まだ早い方だよ」


 力のない笑みを浮かべる佐藤さんを横目で見て、密かに来年に控えた就活はしっかりやっておこうと心に決めた。



 下宿先に戻り、すぐにお風呂を沸かした。僕が間借りしている下宿先はバストイレ別になっている物件だが、僕は滅多に浴槽には浸からなかった。一時期はユニットバスの、より安い物件に引っ越そうかとも考えたが、浴槽に浸かれると知って無邪気に喜ぶ佐藤さんの顔を見て、この部屋に住んでいてよかったと初めて感じた。


「お風呂いただきました〜、ありがとうございます」


 同時に、知らない女性とこうして同じ部屋にいるという経験自体が、僕にとって官能的な刺激になっていた。佐藤さんは髪がカラスの濡羽色に光り、僕のシャツから生えた細すぎず太すぎない脚が存在感を主張した。ゆったりとしたオフィスカジュアルの服は体のラインが見えていなかった分、色気がより一層押し出されているように感じた。


 僕はきっと、風呂にも入ってないのに顔が赤くなってそっぽを向いたと思う。ワンルームの中央に置かれたローテーブルの上に目をやって、向かいに座る彼女をじっと見れなくて、携帯でもいじっていたと思う。


「三船くんも入ってきたら?お風呂入ってないでしょう?」

「はい。では入ってきます」


 体はすぐに動いた。立ち上がり、部屋の奥にあるタンスから自分の分の部屋着を引っ張り出すと、できるだけ佐藤さんの方へ目を向けずに浴槽の入り口までたどり着いた。

 そうして浴室への扉の取っ手へ手をかけようとしたが、改めて僕は佐藤さんの姿を思い返した。それは決して再び色っぽい佐藤さんを思い出して興奮するためではなく、家主が何も言わずに放置するのは酷だろうと思ったからであった。

 僕はドアノブに目を向けたまま、リビングの気配を感じる方向へと独り言のように言った。


「部屋は好きに使ってください。ドライヤーは窓際の机の1番下の引き出しに入ってます」

「あ、ありがとう」


 何か言葉が続きそうな息遣いをする佐藤さんを半ば無視する形で、僕は浴室に滑り込んだ。1人になった僕は蓋が開けられたままの、まだ湯気が揺らめく浴槽の前で項垂れるのだった。

 気持ちが波を立てて乱れている。思い出さなかった苦い思い出を、佐藤さんを部屋に招いたことで強烈に思い出したからだ。大丈夫大丈夫と、根拠のない慰めの言葉をかけながら、私は着ているものを脱いで、浴室の外へと放り出し、思い出の蛇口を締めるようにシャワーの蛇口を捻った。

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