3話 社畜美人は契約を結ぶ

 今までで1番心地の良い眠りだったと思う。意識が覚醒しても、しばらく僕はまどろんだままだった。布団の上で大きくあくびをしてから、僕は立ち上がった。


 佐藤さんはもういなかった。代わりに机に置かれていたのは、昨晩のお礼が書かれた小さなメモと、置いた覚えのない1万円札だった。僕はおもむろに諭吉の書かれた紙を両手で持ち上げ、鼻に近づける。しかし、昨日のような刺激的な香りはもうしなかった。

 それから充電をし忘れたまま寝てしまったスマホも机近くの床に落ちていたので、コードに繋いだ。電源を入れて通知を確認すると、昨晩名古屋で飲んだ友人から謝罪のメッセージが届いていた。

 僕は「気にしないで」というメッセージをにっこりと笑った絵文字付きで送る。続けて友人と別れた後のことをすぐに話そうかと思ったが、すぐにその気も失せてしまった。力なく窓際まで歩いて行き、カーテンをゆっくりと開けた。開けた部分か、日差しがスライドするように差し込んで、部屋の中に舞っている埃が反射する。それらは反射の具合できらきらと輝いていて、秘境を見つけた探検家のような気分になった。僕はそれを見上げるように、昨晩寝た布団の上に再び横になった。


 今日は土曜日、掛け時計は午前10時を指していた。予定もない。大学生になってから、何もしない一日が増えた。喫茶店のバイトに行く以外には、滅多に無い飲み会に参加したり、たまにある授業に参加するだけだった。毎朝通勤しているスーツ姿の人たちを見ると、僕は世界から抜け落ちた幽霊のような存在なのではないかと疑ってしまう。

 それでも、今朝は少しだけ世界との繋がりが持てたような気がした。佐藤さんの存在が、僕を僕の体と心を結びつけてくれていた。


 佐藤さんは今日も朝早くから仕事だと言っていたが、いつ休んでいるのだろうか。それに、昨日はたまたま僕がいたけれど、また終電を逃すと危険な環境で寝なければならないだろう……布団の上で数度寝返りを打ちながら、気がつけば僕はずっと佐藤さんのことを考えていた。


「そんな気になるなら、昨日連絡先でも聞けばよかったのに」


 自分で自分を軽く茶化してみるが、それは図星だった。

 久しぶりの一人で過ごす時間は、僕にとっていつもの倍以上の時間を過ごしているように感じられた。



 結局その日は何もしなかった。夜になるまでスマホをいじったり布団やベッドの上をゴロゴロしてみたり。とにかく、怠惰の限りを尽くした。途中何度か外へ出ようという気を持ってみたが、その行動を完遂するために何段もプロセスを経なければならないということに気がつくと、布団の上からは立ち上がれなかった。

 重い体を動かし、なんとか夜ご飯も程々に済ませ、時計が12時を指そうとしていた。ずっと寝ていたくせに、そろそろ寝ようかと考え始めた途端、普段は鳴らない玄関の呼び出しベルがなる。


「……まさか」


 この時間に部屋に来るのなんて、1人しか思いつかなかった。1日の終わりに、1日分の心拍数をこの場で一度に鼓動しているような気がした。

 すり足で音を立てないように玄関まで向かい覗き窓を覗いてみると、案の定と言うか、想像していた通りの人物がそこにはいた。僕はチェーンをかけたまま、扉を少しだけ開けた。


 「どちら様ですか」わざと訝しげな声をあげると、佐藤さんは慌てた様子で、しかし静かな声で言った。


「あぁっ、こんばんは、三船くん。昨日泊めてもらった佐藤ですけど……」

「そんな方は泊めていませんよ」

「とぼけないでよー、昨日ナンパしてきたくせに。今日も終電逃しちゃってさ……今日もナンパしてみない?って思って」


 佐藤さんは昨日の服とはまた違う服を着ていた。体のラインが見えないゆるっとした白シャツに、ベージュのパンツ。昨日のお風呂上がりはストレートだった髪の毛も、出会った時のように若干内巻きになっている。やっぱり佐藤さんは可愛かった。

 ずっと揶揄いたくなる気を抑えて、僕はチェーンを開けた。佐藤さんには「また終電逃したんですか?」なんて呆れたように言ったが、内心嬉しかった。ナンパをするつもりはもう無いが、佐藤さんともっと話したいなと思ったのは事実だ。


「そ、そうそう。」

「とりあえずお風呂沸かしますね。部屋着も持ってきます」


 佐藤さんはわざとやっているのか「アリガトウ、アリガトウ」とカタコトのお礼をずっと口にしていた。

 僕はリビングに佐藤さんを座らせると、1日動かなかった分を今取り戻すように動き出した。佐藤さんが来ると体は嘘みたいに軽くなった。部屋の中を行ったり来たりしながら、他愛のない話をした。今日の仕事の話や、昨日のナンパの話。それから、これからの話。これは厄介な問題だった。

 佐藤さんを家に招き入れる分には良いのだが、仮に週に3.4回これからもこの時間に家に来てお風呂を沸かしたら、費用は計り知れない。しかも今日のように何も予定がない日は対応できるが、バイトや飲み会がある日はその限りでは無い。

 だから、今後もこの生活を続けようと思うなら、ある程度の擦り合わせが必要だという結論になった。


 お風呂に入り、部屋着に着替えた佐藤さんの対面に僕は腰をかけた。僕らは自然と、今後のことについて話し合うことになる。彼女は腕を組み目を瞑り、まるで集会中の議員のような荘厳な様子で悩んでいた。


「佐藤さんって、週に何回くらい終電を逃すんですか?」

「2.3回くらいかな」

「毎回僕のところに泊まりに来るんですか?」

「それは……迷惑だと思うので、週に一回程度にします」


 今週2回目ですけどね、それに今後も泊まり続けるつもりなんですね。

 僕は心の中で佐藤さんに2度ツッコミを入れた。だが、それも想定の範囲内だった。別に毎日ここに来ようが、迷惑では無い。佐藤さんは再び考えると、真剣な表情のまま話し始めた。


「週に一回にするか、家賃の何割かを私が払ってここに居させてもらうか……私はお金の使い所がないから、後者でも良いなと思ったけれど」

「何割ぐらいなら払えますか?」


 僕がここの家賃を付け加えると、すぐに佐藤さんは反応した。


「だったら4割くらいなら。」

「だったら、家賃の4分の1と光熱費を払うのはどうですか?僕湯船に浸からないので。」


 僕は友人に「お前は人が良すぎる」と言われてきた。その言い方には呆れがこもっている時もあったが、僕の人の良さを純粋な尊敬をしてくれている時もあった。人の良さは僕の弱点であり、同時に長所でもあると思う。

 あとはこの善意を誰に分かるかを、見定める事が大切だと思う。例えば目の前の佐藤さんのような、本当に泊まるところがなくて困っているような人をだ。


 僕がそう言うと、佐藤さんは目をぱっと見開きキラキラと輝かせた。


「い、いいの!?毎日来ちゃうよ?」

「それでもいいですよ」

「ありがとう!!本当にありがとう!」


 佐藤さんは勢いよく立ち上がって、机越しに僕の手を掴んできた。そのまま握手の形になる。じんわりと手の甲に佐藤さんの温もりが伝わってきて、なんだか恥ずかしくなった僕はすぐに手を離してしまった。


「じゃあ、そう言うことで。今朝1万円頂いたので、残りはまたお願いします」



 約束をした日から、佐藤さんは少なくとも二日に一回はこの家に顔を出すようになった。時には終電に間に合う時間でも、来ることがあった。佐藤さんの私物も増え、最近は洗面台の上に歯ブラシが2本並ぶようになった。

 佐藤さんの生活リズムに合わせて、僕の生活リズムも規則正しくなった。一人暮らしを始めた時に料理を少し練習したから、その延長で佐藤さんに料理を作り置きしておいて、振る舞うことも増えた。

 


 そうした生活を一ヶ月近く続けた。今日も、彼女はベッドに横になり、僕は布団に寝転がった。電気を消し、カーテンの隙間から覗く月光をぼーっと見つめながら、どちらかが寝るまで話は続く。この時間は、僕にとって密かな楽しみにもなっていた。


「明日は休みだよー。久しぶりの休み。8連勤疲れたぁ」と、佐藤さんはあくびをしながら言った。8連勤という言葉にゾッとしながらも、僕はそれを口には出さなかった。

「何かする予定なんですか?」功労者を労うように、できるだけ優しく問いかけた。すると佐藤さんは、うーんと唸った。


「なにもないなぁ……久しぶりに服とか買いに行きたいかも」


 ほとんど毎日終電まで働いて、うちに帰ってくる頃にはもう殆ど倒れたように眠る佐藤さんだが、休みの日も外に出るらしい。活力というか、バイタリティのある人だと思う。

 極力彼女のリフレッシュを邪魔したくないから、明日はそっとしておこうと思った。「楽しんで来てください」という言葉も添えた。

 だがベッドの上から聞こえてくるのは「えー」と言った不満そうな声だった。


「三船君も行こうよショッピング。」

「せっかくの休みなのに、お邪魔したくはありませんよ。」

「お邪魔じゃありませんよ。それに、普段のお礼もしたいな」


 そう言うと、ゴソゴソという音が大きくなって、やがて立ち上がった。月光が隠れ、僕はそれを見上げている。

 佐藤さんは隣に寝転がると、僕の右腕にしがみついてきた。初めて添い寝した時と同じ格好になる。

 最近は抱き枕代わりにされることは多い。これを初めてされた時は心拍数が上がって眠るどころではなくなっていたが、段々とそれが安心に変わっていった。

 それは、きっと添い寝に慣れたからではない。これ以上関係が前に進まないことを悟ったからである。もし仮に僕が出会った日のようなことをしようとすれば、もうこの部屋に佐藤さんはやってくることは無くなるだろう。


 僕はそれまでずっと天井を見続けていたが、ふと佐藤さんが寝ている方向に顔を向けた。すると僕の腕にそっと寄りかかっていた佐藤さんと目があった。佐藤さんの顔には感情がなく、眠いのかずっと僕の顔を見つめ続けているだけだった。

 なんだか僕はそんな佐藤さんが可笑しくなってしまって、再び天井を見るように寝返りを打ちながら静かに笑った。


「ねえ、なんで笑ったの」

「ふふっ、すいません……やっぱり行きましょうか、ショッピング」

「え、いいのー?やったー」


 力の抜けた歓喜の声が隣から聞こえてくる。ずっと思っていたことだったが、やっぱり佐藤さんはあざといと思う。「あざといっすね」とぶっきらぼうに言ったが、彼女はもう聞いていなかったようで、すうすうと隣で寝息を立てるだけだった。

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