【悲報】全人類ヴィーガン化計画【失敗する】

エテンジオール

管理社会で命の大切さとお肉の美味しさを知ってしまった少女が色々と壊される話

 知り合いのベジタリアンの話を聞いて感銘を受けたので書きました。お肉っておいしいよね(╹◡╹)


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 キュウと初めて会ったのは、5歳の誕生日だった。この国の人達が5歳になるのと同時に、自動的に支給される不思議な生き物。淡いピンクで、丸っこくて、もこもこふわふわの不思議な生き物。


“ストゥルトゥス”という生き物なのだと、なぜか悲しそうな顔をしたお母さんが教えてくれたその生き物は、もっちもっちと歩きながらわたしのところにやってきて、キラキラの綺麗な目できゅうっと鳴いた。


 こちらを見ながら短いしっぽをゆらゆら揺らして、じぃっとわたしのことを見つめるその子に着けた名前は、あとから考えると少し安直過ぎたかもしれない。きゅうっと鳴くからキュウ。きっとそれが犬だったらわたしはワンと名付けていたし、猫だったらニャー、豚だったらブウと名付けていただろう。成長した今となってはセンスの欠けらも無い名前だが、飼いストゥルトゥスの名前ランキングでは常に一位の名前だ。センスがないのはわたしだけでなく、世の5歳児共通だった。


 5歳児達のネーミングセンスが絶望的なのはさておき、もこふわピンクなキュウが、わたしの頭くらいの小さな体で擦り寄ってきた時に、初めて感じたものは愛おしさだった。小さな命が、見るからにか弱い命が、わたしに身を委ねている愛おしさ。この子のことを守りたいと庇護欲をそそられて、わたしは思わずキュウを抱きしめた。もこふわな毛が柔らかくて、なんだか香ばしい匂いがして、抱きしめた体は見た目よりも小さかった。


 腕の中でキュウが動いて、きゅうきゅう鳴いて、それがかわいくていとおしくってもっと抱きしめようとしたら、お母さんに止められた。そんなに強く抱き締めたらこの子が苦しいでしょうと言われて、わたしはやっとキュウが藻掻いていたのだと理解した。


 慌てて離すと、キュウはすこしだけわたしから離れる。嫌われてしまったと思って、怖がらせてしまったのだと思って、すごく怖くなった。なんてことをしてしまったんだと後悔して、胸が苦しくなった。


 ちょっぴりだけ泣いてしまいそうになって、でも苦しかったのはわたしじゃなくてキュウだったから我慢する。我慢したからちょっとしか涙は出なくって、それ以上出てこないように頑張って目を閉じていたら、目元を温かくて湿った何かが触れた。


 ザラザラして、けれども優しい動きで目尻を撫でたそれが何か気になって、目を開けるとそこにあったのはピンク色の塊。ピンク、とは言ってもキュウの淡い毛色とは異なりどこか生々しさを感じるピンク、それが自分の目に近づいていることがわかって、びっくりして目をギュッと閉じる。そしたらまた何かが目尻を撫でて、それは何度か繰り返された。


 繰り返されたから、その周期もわかった。なので撫でられるのと撫でられるのの間にもう一度目を開けてみたら、わたしの目の前にキュウがいた。すぐ目の前のキュウと目が合って、きゅうっと一鳴きした後にわたしの顔に舌を伸ばす。見覚えのあるピンク色が大きくなって、また閉じたわたしの目尻を撫でた。


 キュウがわたしの涙を舐めとっているのだと、少し遅れて理解する。さっきから目元を撫でていた湿ったものはキュウの舌で、湿ったそれがわたしの涙をすくっている。わたしの涙を見て美味しそうと思っている、実際に舐めて美味しかったから続けている、そう考えることも出来たが、わたしにはそれがわたしのことを慰めるためのもののように感じた。


 だから、慰めてくれているのとキュウに聞いてみたら、まるで言葉を理解しているかのようにキュウはきゅうっと鳴いた。一鳴きして、もう一度ペロリと今度はわたしの頬を舐めた。わたしのことをゆるしてくれたのだと思って、今度は苦しがらないように優しく抱きしめる。もこふわで香ばしい毛の香りが広がって、今度は暴れることなく大人しくしているキュウはされるがままに撫でられた。


 許してくれてよかったわねと、お母さんは悲しそうに笑ってわたしの頭を撫でる。その手はとっても優しくて、でもなぜか表情は暗い。いつも優しいお母さんが、いつも笑顔のお母さんが、どうしてそんな表情になっているのか、わたしにはわからなかった。ちっともわからなくて、理由を考えることすらしなかった。


 わたしにとって大切だったのは、キュウが柔らかいことと、お母さんの手が優しいこと。そして、キュウがわたしを許してくれたこと。だからわたしは難しいことは考えないで、目の前のもこふわに顔をうずめた。香ばしい匂いが濃くなって、ちょっとだけ息がしにくくなる。


 でもそんなことなんて気にならないくらい、キュウのことが愛おしかった。ついさっき会ったばかりの生き物に対して、どうしてこんなに好きと思えるのか不思議なくらい大好きが止まらなくて、そのことを疑問に思うこともない。気付けたらなにか違ったのかもしれないけど、結局気付けなかった。


「ほら、ちーちゃん。いつまでもそうしてないで、早く帰りましょう。キュウちゃんと暮らす準備もまだ終わってないでしょう」


 お母さんにそう言われて、本当はキュウと会うより前に終わらせておかないといけなかったことが、まだできていなかったことを思い出す。昨日の夜からなんだか気持ちが落ち着かなくて、もやもやしていたせいで、まだ何の準備も終わっていなかった。


 でも、先に準備しているよりも、キュウが好きなものを選んだ方がきっとキュウもうれしいなと考えて、都合の悪いことは忘れる。お母さんはそんなわたしを見ながら少し呆れたように笑い、抱き抱えたキュウはきゅうきゅうと鳴いた。


 家に帰るまで、キュウは大人しく、いい子だった。







 キュウがお家に来てから、自分で言うのもなんだがわたしはちゃんとするようになったと思う。キュウはかしこい子だからお母さんの言うことも聞くし、言葉を理解しているみたいに振舞ってくれる。お母さんいわくわたしよりも手のかからないいい子で、そんないい子だからいたずらもしないしわがままも言わない。


 だから、その気になったらお世話はいくらでもサボれてしまうのだ。あんまり構ってあげなくても、気が向いた時に呼んだら嬉しそうにやってくるし、遊んでほしそうにしていてもお勉強中ならちゃんと帰っていく。


 放っておいても、問題ない。そのはずなのにどうしても構ってしまうのは、そうやって放っておこうとすると、キュウがすごく悲しそうにするからだ。くりくりでまんまるなおめめをしょんぼり半分閉じて、ふにふにのお耳をぺたんと下げる。


 その姿がとっても心苦しくて、胸がキュンっと締め付けられるような気持ちになってしまう。それが嫌だから、わたしはキュウに優しくするのだ。いい子なキュウのことを褒めているあいだは、一緒に遊んでいるあいだは苦しくないから。


 キュウのためにたくさんのことをしてあげたくて、キュウのことならなんでもしてあげたくて、たくさんお世話をした。お世話をしているうちにいつの間にか自分のことも自分でやるようになっていって、色々できるようになったわたしはお母さんから一人お留守番も任されるようになった。


 その事で沢山褒められて、いつしかお手伝いまで任されるようになったのは、全部キュウのおかげだ。そんなキュウ一緒にいることがわたしの喜びで、幸せだった。


 だから、初めて“小学校”に行くことになったのは、とても悲しかったしつらかった。これまでずっと一緒にいたのに、お出かけする時くらいしかキュウと離れることなんてなかったのに、一日の半分も一緒にいられなくなった。


 初めて会った日まではいないのが当たり前だったのに、いつの間にかわたしにとってキュウはいるのが当たり前の存在になっていた。そばにいて当然で、目の届くところにいてくれないと不安になる存在。そんなキュウと離れるなんて考えることもできなくて、実際にそうなってみると案外問題なく過ごせる自分におどろく。


 わたしやお母さんの心配に反して、わたしは普通に学校を楽しめていた。知らない子と友達になるのは少しだけ時間がかかったけれど、でもそれだけだった。キュウがいなくて泣いてしまうこともなかったし、そのせいで学校に居られないこともなかった。お友達と話すのはとても楽しかったし、給食が始まるとむしろ学校が楽しみにすらなっていた。


 もちろん、キュウのことが嫌いになったとか、どうでも良くなったとか、そういう理由ではない。わたしがランドセルを背負うと決まって悲しそうにするキュウには当然胸が痛くなるし、わたしが家に帰ると駆け寄ってくるキュウには愛おしさが溢れる。だからキュウのことが大好きなことにかわりはないのだけれど、それとは別に学校も好きになってしまった。


 好きなものが増えただけ。ただそれだけの事だから、そんなふうに責めないでとキュウに言ったら、キュウは何も理解していなさそうなぽやんとした表情で首を傾げ、あそぼうっ!というかのように元気よくきゅうっ!と鳴く。責められているように思ってしまったのはただのわたしの勘違いで、キュウはそんなことなんて考えていなかった。とってもやさしい、いい子だ。


「そういえばね、キュウ。今日給食で、オニクっていうのが出てきたの。すごく不思議な味だけど、とっても美味しかったんだよ」


 学校で起きたことをキュウに話して、キュウにも食べさせてあげたかったなと考えながら味を思い出す。一口噛む度に溢れるおいしさ。野菜とも穀物とも、もちろん果物とも違うやわらかさ。本当に美味しくて、これまで食べたことがなかったことを悲しく思うくらいだった。


 そんなわたしの言葉を聞いて、キュウは不思議そうに首を傾げていた。たぶん、オニクがなんなのか理解出来ていないのだと思う。わたしだって少し前に同じことを言われたとしたら同じような反応になっただろうから、仕方がない。


 なんて言ったらよく伝わるのか考えて、思いついたものを全部口に出す。わたしは言っているうちに自分が何を言っているのかがわからなくなって、それを聞かされているキュウはもっとわからなさそうにしていた。


 伝わらないことが悲しくて、でも不思議そうに首を傾げるキュウがかわいくって、二つの気持ちが混ざって頭の中が不思議なことになる。それもこれも、全部オニクのせいだ。オニクがあんなに美味しくなかったら、こんなふうにキュウに説明することもなかったし、それならこんな顔をされることもなかった。


 そうだ。やっぱりオニクが悪いのだ。オニクがないか、それかキュウがオニクを食べたことがあれば、こんなことにはならなかった。


 そこまで考えて、それならキュウにオニクを食べさせればいいのだと気がつく。キュウだってきっと、オニクを食べればその美味しさを理解できるはずだ。


 そう思って、そのためにはお母さんにお願いしないといけないと考える。もしかしたらお母さんはオニクのことを知らないかもしれないから、給食でとっても美味しいものが出たのだと言うことから話せばいいだろう。


 今まで食べたことがなかったのは、きっとお母さんがその存在を知らなかったから。お母さんに教えてあげて、食べてくれれば、きっとお母さんもオニクが大好きになるはず。そう思って、お母さんのところに駆け寄って学校の話をする。お母さんはいつも、わたしが学校で起きたことを話すとうれしそうにしてくれる。


「どうしたの、ちーちゃん。学校であったこと、キュウちゃんだけじゃなくてお母さんにも教えてくれるの?」


 にこにことうれしそうなお母さんに、給食のことを伝える。きっと、お母さんはびっくりするはずだ。そんなに美味しいものがあるのかと驚いて、それなら今日はオニクにしようと言ってくれる。そう信じて、心の底か思っていたから、わたしはお母さんの表情に気がつくことが出来なかった。


「……ごめんね、ちーちゃん。お母さん、あのオニクって苦手なの。だからもう、あれの話はしないでくれるとうれしいな」


 きっといつもみたいな笑顔だと思っていたお母さんは、ひどく青ざめた顔で、震える声でそう言った。思い出すのも辛いから、話さないで欲しいと言った。


 あんなにオニクは美味しかったのに、どうしてお母さんがそんな反応をするのかが分からなかった。わからなかったけど、お母さんの反応が普通じゃないということだけはわかった。


 お母さんの様子がいつもと違くて、それの原因はわたしがオニクの話をしたことにある。その事がわかれば、もうお母さんの前でオニクの話をしないようにしようと思うのには十分な理由だ。


 なんでそんなにオニクをいやがるのかと気になりながらも、そのことを聞くことが躊躇われて、それ以上考えることをやめる。とりあえずお母さんの意識をそらすためにほかの話をして、少しするとお母さんはいつもの優しいお母さんに戻った。









「うちのお母さんも一緒!オニクの話なんて聞きたくない、話さないでって言われて、理由も教えてくれないの!」


 ちーちゃんのお母さんも同じだったんだね、と大きな声で言うのは、学校のお友達である希代恵ちゃん。席が隣だったことと、ストゥルトゥスにつけた名前が同じキュウだったことで仲良くなった子だ。ちょっと声が大きいところが欠点。


 けど、わたしにとってはちょっと欠点な声が大きいところは、たくさんの人に言葉を聞いてもらえるいい所でもある。実際に今も、他のクラスの子たちがみんな、わたしたちの話、希代恵ちゃんの言葉を聞いて興味を持って集まってきた。


 集まってきて、みんながそれぞれ口にするのは、自分の家も同じだということ。そんなに何回も言わなくても聞こえているのに、何故か繰り返して、次第にみんなの声が大きくなっていく。


 大きい音は苦手だ。耳が、頭が痛くなるから。苦手だから少しでも小さくなるように両方の耳を抑えて、その直後に希代恵ちゃんが一際大きな声を出す。周りのみんなにうるさいって叫ぶその声が、ほかの何よりもうるさいのだけど、本人はそんなことお構い無しだ。


 あまりの大きな声にみんなが驚いて黙ることで、結果的にクラスは静かになった。クラスは、静かになった。けれどその代わりに、教室の外がにわかに騒がしくなり、バンっ!と大きな音を立ててドアが開かれる。


 そのままのっしのっしと教室に入ってきたのは、担任の先生。あまりにもわたしたちの教室がうるさかったから、大慌でやってきたらしい。もう小学生なんだから落ち着きを持ちなさいっ!とみんなで怒られて、それから騒がしくなった理由を聞かれる。


 騒動の中心になっていた希代恵ちゃんが代表して大体の経緯を話すと、先生は呆れた様子でため息をつく。代表して、とは言っても、ただ他の子達がまだ大声と怒られたことに対する衝撃から立ち直れていないだけなのだが、結果は一緒だ。


「……大人になる過程で、自然とオニクに対しては忌避感を持つのです。たまに持たない大人もいますが、そんなのはごく一部。“大人はそういうもの”と思って、気にしないようにしなさい。聞かれたくないことや話したくないことくらい、みんなあるんですから」


 わたしはない。聞かれたくないことも、話したくないことも。だから気になって、話してくれそうな先生に質問したいと思ったが、みんなはそうじゃなかったみたいで素直に返事をしていた。みんなが何も言わないなら、わたしだけが何かを言うのは少し恥ずかしかった。


 そうしているうちに先生のお話は終わって、授業がはじまる。さっきまであんなに騒がしかったのがまるで嘘みたいにみんな静かになって、お勉強を始めた。オニクことが、先生もお肉が苦手だということがまだ気になっているのはわたしだけだった。


 そのことに少しもやもやして、授業に集中できないまま一日が過ぎる。頭の中でぐるぐる同じことばかり考えて、気がついたら全部の授業が終わっていた。授業の記憶はほんのちょっぴりも残ってはいなくて、でも給食のオニクだけはちゃんと覚えていた。


 そんなふうに、半分くらい頭の中をオニクに支配されながら家に帰って、いい子で待っていたキュウの香ばしい匂いを胸いっぱいに吸い込む。定位置になっている日当たりのいい窓辺でゴロンと転がっていたキュウはお日様でポカポカになっていて、抱きしめるだけでほっと落ち着く。もこふわな毛はお布団よりも柔らかくてあたたかい。


 わしゃわしゃともこふわを堪能するわたしの手に、タオルで拭き取れていなかった水分が残っていることを感じたのか、非難するようにきゅうっと鳴くキュウに謝って、不意に頭にオニクのことが横切る。美味しいオニク。素敵なオニク。キュウが、食べたことのないオニク。


 そんなオニクを食べたことがないキュウは、普段何を食べているのだろう。いや、何を食べているのかは知っている。ストゥルトゥス用のご飯、茶色でパサパサしていそうなペレット飼料だ。


 キュウはいつもそれを食べている。嫌そうにすることも無く、はぐはぐと結構な勢いで食べている。でもだからといって、キュウが普通のご飯、私たちが食べているものと同じものを食べたことがないわけではないのだ。煮込んでクタクタになった野菜とか、生の野菜とかも食べる。


 わたしが好きな野菜をわけてあげると美味しそうによろこんで、あまり好きじゃない野菜を食べてもらうとしょんぼりすることから、キュウもご飯の味がわかっているのだと思う。だから尚更、わからないし気になるのだ。そんなキュウがいつも食べているご飯はどんな味なのか。


 気になって、ご飯を食べているキュウのところに行って、一口分けてとお願いする。なんだか、最近のわたしは食べ物のことを考えてばかりだ。


 どうしたの?と理解していなさそうな顔をしているキュウからペレット飼料を一粒勝手に貰って、それをそのまま自分の口の中に入れる。


 まず口の中に拡がったのは、ペレットの独特な匂い。口に入れる前からわかっていたそれは予想通りで、硬かったそれが水分を吸ってふやける。口の中がパサパサになるのも、予想通りだった。


 予想外だったのはそれから。キュウが食べているのだから、それなりに食べられる味なのだろうと思っていたわたしの口に拡がったのは、思わずお腹が縮んでしまう青臭さ。


 少し遅れて、思わず吐き出してしまうような苦さがやってきた。お母さんが美味しそうに飲んでいるコーヒーを飲ませてもらった時よりも、興味本位でその粉を舐めてみた時よりも苦くて、パサパサだった口の中がぬるっとする苦さ。


 急いでティッシュに口の中身を吐き出して、ぬるぬるして気持ち悪い口の中をすすぐ。そんなわたしを見て、変なものを見るような顔をするキュウと、いつもこんなものを食べているキュウを、理解できないものを見る目で見るわたし。お互いにお互いを理解し合えない、奇妙なにらめっこが始まって、少ししてどちらからともなく笑ってしまう。


 少し考えてみれば、何もおかしくはない事だった。わたしとキュウは別の生き物だし、わたしと同じ人間なお母さんだって、わたしが食べられないものを美味しそうに食べていたりする。逆に、わたしが大好きなお肉を、お母さんが食べられないのだ。だから、キュウが美味しそうに食べているものをわたしが食べられなくっても、何もおかしくはない。


 そう気がついて、少しピリピリする口の中のままキュウと笑いあっていると、少ししてやってきたお母さんに変な目で見られる。普段ご飯になったらそれに集中するキュウが、ご飯そっちのけでわたしと笑っているのが珍しかったらしい。


 言われてみたらキュウがご飯よりほかのことを優先するのは初めてだった。その事が、キュウがご飯よりもわたしのことを大切にしてくれているということに感じられて、なんだかとても嬉しかった。








 ストゥルトゥスの成長は早い。初めて会った時は、まだ五歳のわたしが抱き抱えられる大きさだったキュウは、いつの間にかわたしと同じくらいの大きさになって、気がつくとわたしの大きさを超えていた。


 昔は抱っこしながら寝ていたのに、いつの間にか抱きついて寝るようになっていたのだ。キュウは相変わらずもこふわで、毛からは香ばしい匂いがする。柔らかくて温かいから、お母さんにお布団を剥ぎ取られた時も一安心だ。キュウは迷惑そうにするし、あとから戻ってきたお母さんには怒られるけど、わたしはその時間が大好きだった。


 だって、昔ならともかく、今の大きくなったキュウなら、その気になればわたしのことなんて簡単に引っぺがせるのだ。それなのにそうしないのはキュウがわたしのことを大切に思ってくれている証である。


 もちろん、わたしだってキュウに甘えるだけじゃなく、たくさんお世話をしている。むしろ普段甘えている分、お友達の誰よりもキュウのことを大切にしている自信がある。体が大きくなったストゥルトゥスと毎日一緒にお風呂に入って、洗ってあげるのなんて、他の子達はしていない。


 だから、キュウがわたしのことを大切にしているのと同じかそれ以上、わたしだってキュウのことを大切にしているのだ。誰に何を言われても、それだけは間違いないのだ。


「ちーちゃんは本当にキュウちゃんのことが大好きね。そんなに甘えん坊さんで、大丈夫かしら?」


 わたしがキュウにベッタリなのを、お母さんはたまに心配そうな顔で見ていることがある。でも、大丈夫だ。だってキュウとはこれまでずっと一緒にいて、きっとこれからだってずっと一緒なのだ。わたしがキュウのことを好きでいて、キュウがわたしのことを思ってくれているあいだは、ずっと変わらない。


 だから大丈夫なのだと伝えると、お母さんは決まって寂しそうな、悲しそうな顔をする。きっと、昔はずっとお母さんにベッタリだったわたしがキュウと一緒にいるのを寂しく思っているのだろう。もしかしたら、わたしがキュウとどこかへ行ってしまうのではないかと心配になっているのかもしれない。わたしも昔、お母さんが居なくなったらと考えて眠れなくなったことがあるから、その心配はよく理解できた。


 そんなお母さんを安心させるために、わたしはどこにも行かないよと言いながらお母さんのことをぎゅっと抱きしめると、お母さんは微笑みながら同じようにしてくれた。キュウは四足歩行で抱き返してはくれないから、この感覚だけはお母さんとのものだ。他の人ならと考えて希代恵ちゃんと抱き合ってみたけど、こんなに安心できなかった。


 きっと、お母さんは家族だから特別で、わたしだってお母さんからしたら家族だから同じくらい安心してくれるはず。そしたら、きっと寂しい気持ちもなくなってしまうだろう。


「……ちーちゃんは、優しいいい子だね。お母さんうれしいな」


 少し震えた、お母さんの声。うれしいのかかなしいのかわからないような声だが、うれしいと言っているのだからきっと嬉しい声なのだろう。顔が見えたらすぐにわかるのに、お母さんはまるでわたしに顔を見せたくないかのようにぎゅっと抱きしめる。



 この時に、きっとわたしは確かめるべきだった。いや、この時に限らず、これまでだって何度も違和感を覚える機会があったのだから、その時に確かめるべきだった。そうしていたら、きっともう少し違うことになっていたから。ちゃんと、お別れの時間を確保出来ていただろうから。



 わたしの一番の失敗は、おかしいことを気にしなかったこと。物事を、言葉を、素直に受け入れすぎたこと。そのせいでわたしは、キュウを失った。お別れの言葉を言うことすら、できなかった。








 十一歳の誕生日が過ぎてから程なくして、学校で校外学習に行くことになった。小学五年生にはたくさんの校外学習があって、普段のお勉強から離れられるそれはわたしにとって嬉しいことだった。学校がきらいなわけでも、授業が嫌なわけでもないけれど、普段できないことを沢山できる校外学習は、わたしにとって大好きな時間だった。


 この日、行くことになっていたのは、ショクニク加工センター。わたしたちがいつも食べている給食の、オニクを作っているところだ。野菜や果物とは違って、畑からは取れないらしいオニクを作れる特別なところなのだと、先生が言っていた。


 わたしの、みんなの大好きな給食のオニク。結局なんで大人たちが嫌がるのか、お母さんがあんなにおかしな反応をするのかわからなかったオニク。それを作っている加工センターなら、その正体がわかるんじゃないか。そんな期待を心のうちに持ちながら向かって、最初に連れていかれたのは真っ白な壁の部屋。


 わたしたちはこれからオニクがどうやって作られているのかを見学するんじゃなかったのかと不満、不思議に思いながら言われた通り変なくぼみの着いた机の前に座って待っていると、ニコニコ笑ったおじいさんが部屋に入ってきた。


 おじいさんは、このセンターのセンター長をしているらしい。わたしたちが住んでいる周辺の全ての学校、スーパーにオニクを納入している、とっても偉い人なんだと。そんなセンター長は、ニコニコ優しそうな顔で自己紹介をして、


「それでは、まずは皆さんにお肉の正体を知ってもらいましょうか。少し歴史の勉強にもなりますが、それほど難しいものではありません。気楽に聞いてください」


 センター長がそう言って、一本の動画を再生する。なんだかとても年季を感じさせる映像と音声で流れてきたのは、かつて私たちの傍には“家畜”と呼ばれる動物たちがいたという言葉。


 狼を飼い慣らして犬にして、猪を慣らして豚にして、それ以外にも馬や牛、色々な生き物を使っていたのだと。


“家畜”という言葉は初めて聞いたけれど、それとして紹介される動物たちのことは知っていた。ストゥルトゥスみたいにみんなが育てているわけじゃないけれど、他の動物たちを飼っている友達だっているし、わたしだって遊びに行ったことがある。


 ただひとつ不思議だったのが、動画で紹介された“家畜”というものが、わたしの知っている動物のごく一部だったということ。象さんもキリンさんも、熊さんも“家畜”の中には挙げられていなかった。


「このように、家畜は様々な種類がおり、それぞれの用途によって運用されてきました。その中で主流だったのが食用としての用途ですね。皆さんの中にも既にお気付きの方がいるかもしれませんが、当センターではその加工をしています。生き物を食べ物に変える、その過程が、今日皆さんに見学してもらう内容ですね」


 その、“不思議”について考えようとしたところで、センター長の言葉を聞いて思考が止まる。“家畜”の運用というのは、まだ理解ができる。動画でも、農耕などを手伝ってもらうと言っていたから。“家畜”というのは人と共に生きていく動物たちの総称なのだろうと推測するところまでは、わたしの思考は問題なく回っていた。


 固まってしまったのは、そのあとだ。生き物の、動物の食用としての用途。その言葉が理解できない。だって、その言い方だとまるで動物を食べてしまうみたいじゃないか。


 もちろん、そういう生き物もいるのだということは知っている。虫しか食べられない蜘蛛のような昆虫や、ヤモリやトカゲなんかがいることも知っている。虫だって動物の一種であることも知っているから、全く想像したことが無いわけではない。


 でも、それはあくまで虫の話で、人や他の動物たちみたいに痛覚があるわけじゃない生き物の話だ。動物を食べるなんて話とはわけが違うし、一緒にしてはいけない話だ。


 痛みを感じる生き物を、自分たちのエゴで苦しめるなんて、そんなことは間違っている。不要に苦痛を与えるべきではないし、その命を奪うだなんてもってのほかだ。そう思える程度には、わたしには真っ当な倫理観が備わっていた。それが間違いだとわかる程度にはまともな道徳教育を受けていた。


 だからこそ、センター長の言葉を理解して最初に覚えたのは嫌悪感で、そんなことを仕事にしているセンター長の、ここのショクニク加工センターで働く人たちへの気持ち悪さ。命を奪うことを仕事にできることへの恐怖。


 動物の、あんなにかわいらしい生き物たちの命を奪うなんて、とても恐ろしくておぞましいことだ。まともな感性を持っていればできるはずがない事だ。


 それが出来てしまうのだから、きっとここの人達は人間じゃない、人の心がないのだろうと思ったところで、一つ、嫌なことに気がついてしまう。ここのセンターは動物を食べ物に加工している場所で、わたしたちはここに見学に来た。


 なんで来た?


 校外学習だ。校外学習で、オニクを加工しているところを見学するのだと説明されて、ここに来た。オニクの秘密を知れるかもしれないと、ワクワクしながら、期待しながらここに来た。動物を食べ物に加工しているところに、オニクを加工しているところに来た。


 動物を、加工。オニクを、加工。そのふたつの情報が頭の中で結びついて、自分がこれまで給食で食べていたものの“正体”に思い至る。そして、わたしの知る大人たちが、なぜあれほどまでにオニクを忌避していたのかも。



 その事を理解した瞬間、胃が収縮するのを感じた。よりにもよってオニクがたっぷりだった今日の給食を思い出して、それをご馳走だと思いながら喜んでいた自分を思い出して、とても“おいしかった”その味を思い出して、それら全てが心底気持ち悪かった。


 我慢ができなくなって、胃の中に詰まっていた酸っぱいどろどろを目の前のくぼみにぶちまける。わたし以外にも同じような反応をしている子達は何人かいて、けれど、センター長は特に気にした様子がない。きっと、こんなことはよくあることなのだろう。この校外学習は毎年5年生がするって先生も言っていたし、こんな吐くためにあるようなくぼみまで用意しているのだ。


「はい、皆さんが静かになるまでに8分かかりましたね。あぁ、怒っているとかではないんですよ。長ければ1時間以上かかる子達もいるので、むしろ褒めています」


 静かになったわたしたちをみて、センター長はニコニコ笑いながら言う。吐いている子がたくさんいる中で、そんな顔をできるこの人が見た目通りの優しいおじいさんではないことは、もうわかった。


「それでは、静かになったところで今日の本題、食肉加工見学に行きましょう。体調が良くない人は休んでから来てください」


 センター長がそう言うと、同じ服装をした人たち、職員さんたちが部屋に入ってきて、みんなを誘導し始める。体調が悪い子、わたしみたいに吐いてしまった子に対しては一言だけ確認して、大丈夫と言ったらそのままみんなと一緒に連れて行かれた。


 連れて行かれたのは、先の見えないガラスの廊下。みんなでそのガラスの前に並ばされて、何も見えないそれが見えるように並べているか確認される。一人に一つずつ、さっきの部屋と同じくぼみがあるのが嫌だった。ここでもまた嫌な気持ちになるものが待っているんだとわかって、大丈夫と言ってしまったことを後悔した。


 センター長がボタンを押すと、直前まで真っ暗だったガラスの向こうが見えるようになる。その先にいたのは、たくさんのストゥルトゥス。キュウと一緒のその子達が並べられて、注射をされている光景。


 みんな大人しく注射を受けて、その直後に倒れ込んで痙攣しだす。明らかに普通じゃない光景が、すぐ横で広がっているのに、まるでご飯を待っているときみたいにのほほんとした顔をしながら、ストゥルトゥスたちは逃げもせずに自分の番を待っている。


 職員さんたちが、ただの作業かのように次々と注射を打って、たくさんいたストゥルトゥスたちがみんな動かなくなるまでに、それほど時間はかからなかった。最初の方に注射を打たれていた子はもう動かなくなっていて、生きているのか死んでしまっているのかわからない状態になっている。


「今打った注射は、出荷前のストゥルトゥスたちの肉質を改善するためのお薬になります。詳しい成分は私も知りませんが、あれを打つとお肉が格段に柔らかく、美味しくなるんですよ。普通の動物だと暴れてしまうのでこんなに簡単にはいきませんが、そのために作られたストゥルトゥスならその心配もありません」


 センター長が説明している間にも作業は進んで、ストゥルトゥスたちはもこふわな毛を引き千切られていく。間違ってキュウの毛を引っ張ってしまったときに、とても痛そうにしていたのに、痛いのなんて関係ないと思っているかのように、装置を使ってブチブチと。


 痛いはずなのに、ストゥルトゥスたちは反応しなかった。反応しないまま一ぴきずつ毛を毟られて、血だらけになりながら倒れていた。あの毛はわたしたちに服になるからとてもエコなのだとセンター長が言っていたけど、そんなことが気にならないくらいいたましい光景だった。


 みんなの毛が毟られて、ガラスの向こうはどこもかしこも真っ赤になっていた。ガラスのこちらでも何人かが我慢できずに吐いてしまい、嫌な匂いが充満していた。


「それではここからが見学の本番、ストゥルトゥスの解体ショーです。皆さんの普段食べているお肉がどうやってできているのかを知れるいい機会ですので、集中して見てくださいね」


 後ろから楽しそうなセンター町の声が聞こえて、最初に注射をされていた一体がガラスのすぐ近くまで連れてこられる。そしてわたしたちから見やすいところにつれてこられたところで、横から突然、何かを首に叩きつけられた。



 ころころと、なにかがころがる。ぼーるみたいにころがって、こつんとあたってうごかなくなる。がらすがまっかになって、なにもみえなくなる。



 ガラスに水がかけられて、赤が流れ落ちていった。また見えるようになったガラスの向こうには、首から上をなくしたストゥルトゥスの姿と、床に転がるその頭。


 さっき全部出したと思っていた胃の中身が再び込み上げて、目の前の窪みが黄色く汚れる。見たくないもの、知りたくなかったことを目の前で見せられて、気分は最悪だった。過去の自分が求めていた“秘密”の、あまりにおぞましい正体に泣き出してしまいそうだった。



 けれども、だからといって見なかったことにするとか、目の前の光景から目を逸らすなんてことも出来ない。これまで自分が美味しいと思って食べていたものと向き合わないと、命に失礼だと思ったから。


 そんな責任感で、ストゥルトゥスが加工されていく様を見守る。首を落とされ、吊るされ、本来なら行われるらしい“血抜き”をカットして切り分ける。それで出てきた赤くて、白くて、ピンクの塊はとてもわたしが食べていたオニクとは似つかないものだ。


「このように、家畜はお肉に生まれ変わります。皆さんが普段食べているものと見た目が違うのは、まだ火を通していないからですね。生の状態のお肉は安全ではないので、加熱してから食べましょう」


 ガラスの向こうから出てきた職員さんが、センター長に採れたてのお肉を渡す。それがどこからか用意されたフライパンで焼かれたら、嗅ぎ覚えのある美味しそうな匂いがして、見覚えのある“オニク”の塊になった。


 わたしたちがこれまでずっと食べてきたもの、正体を隠されたまま、食べさせられてきたもの。それができるまでの過程を全部見せて、センター長は食肉加工センター見学は終了だと言う。


 その言葉に、安心した。もうこれ以上嫌なものを、知りたくないことを知らなくていいのだと思って安心した。オニクがこんな風に作られているなら、お肉なんてもう絶対に食べたくないと思って、お母さんや先生たち大人みたいにお肉を食べない生活をするのだと。そうすればこんなひどいことにはもう関わらなくて済むのだと。


「それでは見学はここまでですので、続いて体験の方に移りましょう。皆さん一人一人のために一匹ずつ用意してあるので、職員さんの指示に従ってやってみてください」


 ぞろぞろとやってきた職員さんたちが、わたしたち一人一人をそれぞれ二人がかりで運んでいく。暴れる子は引きずって、素直な子は手を引いて、わたしはなぜか担がれて、連れていかれたのは白い部屋。


 そしてその真っ白な部屋の中にいたのは、ぐったりとしたストゥルトゥス。まだ生きているのか、もう生きていないのかすらわからないくらい、ピクリとも動かないピンク色のストゥルトゥス。


 そのストゥルトゥスがキュウだということは、一目見ただけで理解出来た。だって、これまでずっと一緒に暮らしていた家族なのだから。他のストゥルトゥスたちならともかく、キュウのことを見間違えるなんてこと、わたしがするはずない。


 だからこそすぐにわかって、同時に理解出来なかったのだ。だって、キュウは間違いなく今日の朝まで家にいた。いつもの日向で寝転んで、もこふわの毛から香ばしい匂いをさせていた。昨日の夜は一緒の布団で寝ていたし、温かかった。


 だから、こんなところにいるのはおかしいのだ。家にいないことがおかしいのだ。こんな風に、さっきのストゥルトゥスたちみたいにぐったりしているなんて、おかしいのだ。


 おかしいのだから、ここにいるのはキュウじゃないはず。きっとキュウによく似た他ストゥルトゥスの空似で、わたしのキュウはいつも通りお家で待ってくれている。そう思って現実逃避したいのに、ぼんやりと生気を感じさせない目でわたしを見つめるキュウの顔を見たら、そうすることすらできない。目の前の現実から、キュウから目を逸らすことなんてできない。


 職員さんに名前を呼ばれて、肩を叩かれる。そうして教えられたのは、キュウにはもうあの注射が打たれていて、お肉になる準備が出来ているということ。もちろんそんなことを教えられたところで、それじゃあキュウを食べよう!なんてことは言わないし、思うはずもない。キュウはわたしの家族で、わたしにとって大切な存在だ。たとえストゥルトゥスが人に食べられる生き物だったとしても、そんなことは関係ない。キュウをお肉になんて、させるものか。そう思って、動かないキュウを職員さんから守るために抱きしめる。わたしがいたところで大して守れはしないだろうとわかってはいても、何もしないでいることは出来なかった。


「智絵里さんは、とってもひどいことをするんですね。……いえ、責めているわけじゃありませんよ。ただ、かわいそうだなぁと」


 そうやって守ろうとしたところで、職員さんから言われたのはそんな言葉。キュウを守りたいわたしと、キュウをお肉にしようとしている職員さん。どっちの方が酷いことをしているのかなんて、考えるまでもない。そんな酷いことをしている人の言葉なんて、聞く必要はない。


 そう思ったのに、その言葉の意図を聞いてしまったのは、職員さんの同情の表情が、本心からのものに見えたから。わたしをなだめすかして言うことを聞かせようというものではなく、本当にキュウのことを哀れんでいるそれに見えたから。


「注射を打たれた時点で、その子の寿命はもう長くないんです。このまま身動きも取れないまま、全身の筋肉が壊れて美味しいお肉になるのを待つだけ。自分の全身が壊されていく恐怖、痛みに耐えながら苦しむしかないんです。……なのに、智絵里さんはその時間を長くしたいと言っている。その子のことを、沢山苦しめたいと言っている。楽になることすら許されず苦しむだけなんて、あまりにもかわいそうじゃないですか」


 先程までの同情の色をコロッと落として、心底楽しそうにクスクス笑いながらそう言う職員さん。その態度が変わる早さに驚けばいいのか、すぐに脱ぎ捨てられた猫の皮に騙された自分を恨めばいいのか。


 職員さんの言葉が嘘だと思い込むのは、簡単だ。ただ違う違うと否定して、そんなことはないと拒絶すればいい。この人は酷い人なんだから、きっと悪い人で嘘つきに違いないと自分に言い聞かせればいい。


 それが出来なかったのは、このセンターに来てから誰一人として嘘や冗談を口にしなかったことと、このセンターならそれくらいの非道はすると言う嫌な確信、抱きしめて、守ろうと力を入れる度にビクリと痙攣するキュウのからだがあったから。


「……キュウ、本当に痛いの?」


 否定の意図が欲しくて、そんなことはないと伝えてほしくて、キュウ自身に聞いてみる。いつものキュウなら賢いから、わたしの言葉に対して反応を見せてくれる。喜んでみせたり、嫌がって見せたり、色々な反応で応えてくれる。


 なのに、わたしの言葉に対してキュウが見せたのは、なにかに耐えるような視線だけ。痛くないと首を振るのではなく、返事をするのではなくただ見ているだけ。普段とは違うその反応が、職員さんの言葉の裏付けをしていた。


「ほら、この子、キュウちゃん?も言ってますよ。イタイヨー、クルシイヨー、タスケテーって」


 楽しそうな職員さんの人間性は、信頼できない。なるべくなら関わりたくないし、今すぐにでも何とかして黙らせたい。でも、どれだけその言動がふざけているように見えたとしても、キュウが苦しんでいるのはきっと本当だ。キュウを無駄に苦しめない方法が、ひとつしかないのもきっと本当だ。



 どうするべきなのか、どうすることが求められているのかは、もうわかった。そうすることでしか助けられないことも理解した。けれど、これまでキュウと過ごしてきた時間を思うとなかなか手は動かなくて、わたしが躊躇っている間にもキュウは苦しそうにしている。





 結局わたしは、大切なキュウの体を吐瀉物で汚すことになった。











 お肉を食べることは、残酷なことだ。誰かにとっての家族を、一緒に育ってきた命を奪う行為。何も知らずにただの美味しいモノとして食べていたわたしたちは、その行為の意味を知ってほとんどがお肉を食べられなくなった。それを見越していたかのように給食でオニクが出てくることはなくなって、それでもとお肉を食べたいという一部の人以外はそれを当たり前のものとして受け入れた。


 みんな、トラウマになったのだ。わたしみたいに自分のストゥルトゥスを大切にしていた人であれば尚更。自分の手で、あるいは目の前で大切な家族を失って、そのままそれを食べさせられるなんて経験をすれば、まともな人間性の持ち主であればトラウマになる。……みんなのところの職員さんは、わたしとは違ってまともだったみたいだけど。


 けれど、人間性が壊れていなかったとしても、したことやされたことは同じだった。一部の例外を除いて、みんな大切にしていた家族を失って、一度に食べさせられるには多すぎるその“オニク”のほとんどを“寄付”していた。「“チクサンギョウシャ”の体験ができて良かったですね」なんて言っていた職員さんやセンター長のことは許せなかったが、彼らが言うにはわたしたちが食べてきた給食のオニクも一部はこうやって賄われていたらしい。知りたくない事実だった。


 オニクという言葉を聞くだけでキュウのことを思い出して悲しくなり、下級生がストゥルトゥスの話をしていれば離れたくなる。離れないと、なにかの機会で口を滑らせてしまいそうだから。


 いつの間にか年下の子たちとは話す機会もなくなって、大人たちはそんなわたしたちに、“勉強が忙しい”という言い訳をくれた。理由もなく話さなくなるのは不自然で、そこから生まれた疑念でことがバレるのは不本意だからだそうだ。


 そうやって、秘密を隠す側に回ったことで、一つだけ良かったのはお母さんとちゃんと話をできたことだろう。お母さんがこれまで、わたしがキュウと関わる度に見せていた表情の意図を、お母さんの過去を知ることが出来た。


「……でも、ちーちゃんが無事でよかったわ。キュウちゃんの事を大切にしていた分もっと落ち込んでしまうと思っていたから」


 ずっとわたしのことを心配してくれていたお母さんが、わたしのことを抱きしめながらこれまで隠していてごめんなさいと謝った。そのことについては、別に怒ってなんていない。然るべきところ以外で真実を知った子供と、真実を教えた大人はオニクとして給食に出荷されるらしいから、むしろ教えてくれなくてよかった。


「本当に、大丈夫。おかげで、わたしがやりたいことも見つかったの」


 ふとした拍子に、キュウのことがフラッシュバックするようになった。夜、悪夢を見るようになった。元気に動いていたキュウが、次第に弱っていって、最後には頭だけになる夢。何かを訴えるようにわたしを見つめる真っ暗な目。それを見る度に、空っぽの胃から苦いものが込み上げる。罪悪感の、罪の味は苦かった。




 ……少しだけ、嘘をついた。ひとつだけと言った良かったことは、もう一つあった。


 毎晩悪夢を見てうなされて、吐きかけながら目を覚ます生活にも、もうひとついいことがあったのだ。決して悪いだけのものではないのだ。


 わたしが知ったのは、罪の味だけじゃなかった。大切にしていた家族を失って、その家族を食べた時の背徳的な味。罪悪感のスパイスによって最大限に引き立てられた、命の味。


 辛くて、苦しくて、痛む心に染みわたる生き物の旨み。その甘さを忘れられなくて、野菜や果物では我慢ができなくなって、わたしは進路希望に、食肉加工センターと書いた。

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