間章 

第13話 冷酷に、されど美しく

 神狼のいる洞窟から少し離れて。下山した先にある森林では。


「はっ、はっ、はっ……!」


 鬱蒼と茂る草木を踏み倒しながら男が一人、なにかに急き立てられるように走っていた。


「な、なんだアイツら……! あんなの聞いてないぞ……!」


 ローブを着た男のフードがめくれ上がった。薄い頭部に、顔には皺が刻まれた初老の顔は焦りに満ちていた。


「簡単な任務だって聞いていたんだぞ、こっちは……! くそ……!!」


 悪態をつきながら、もつれる脚をどうにか動かす。あてもないが、今は一刻も早く遠くへ行くしかない。失敗したときの対策なんて考えてもいなかったのが災いした。


「とにかく逃げるしか……!」


 その時だ。


「――どこへ行くのかの」


 突如、その声は聞こえてきた。

 まるで耳打ちされたかと錯覚するぐらいの距離で。

 男は、あまりの驚きにこけてしまい、どこまでも転がっていく。


「ぐおぉ……!」


 痛みにうずくまる男。

 常に遠くから事を運んできた男には、たかが擦り傷でさえ重傷だった。

 だから気付かない。

 傍に、女性が立っていることに。


「なんじゃ、情けないやつじゃのぉ」

「――は!?」


 慌てて振り返り、男は目を剥いた。

 そこにいたのは、紅蓮に輝く髪を揺らした黒衣の女。近くで見ればより鮮明に映る、この世とも思えぬ美貌。その瞳で見つめられれば、男なんて誰もが心奪われてしまうだろう。

 但し。それが先ほどまで神と一戦交えてきた魔人だと、知らなければの話だが。


「ひ、ひぃぃぃいいいいいい!!」


 恐怖に引きつった顔で、男は地面を這った。


「失礼なおっさんじゃな。女性を見て逃げるなんて、さてはお主、免疫がないのかの?」


 女は笑った。嘲笑――ではない。

 あくまで無邪気に、世間話でもするかのように。


「な、なんだお前は……」

「ん? まあ、そこは気にするな。それと、お主。神狼と村の魔物を操っていた術者じゃろ?」


 心臓を鋭利な刃物で刺されたように、男は硬直した。

 どうして知っている? 自分はこの女の存在を知らない。まさか始めからマークされていた? いや、それはない。秘密裏に依頼された、ごく簡単な任務だったからだ。

 脳が困惑で埋め尽くされる。様々な考えが頭をよぎるが、眼前の女性がその整理さえさせてくれなかった。


「やっぱりの。洞窟からお主の背中が見えたのでな」

「ぐ……」

「ふむ。魔物の目がどうも変だったのでな。ずっと考えておったのじゃ。……洗脳魔法じゃろ?」

「ッ!?」

「魔術師でも学ぶ人間など中々おらんから、妾も忘れておったよ。闇の魔力で、意志ある生物を乗っ取る……死霊術とはまた別の術式。法律では禁止されているから、アンダーグラウンドの育ちというところか」


 次々と言い当てられ、男はさらに恐怖する。出生から、生きるために汚れ仕事をやってきた男にとって、闇の魔術師というのは正しく天職だった。初対面の相手に簡単に見破られるなんて、それだけで畏怖を覚える。


「……で? 誰の命令でやったのじゃ? まさか自身の享楽ではあるまい」


 冷ややかな口調。女の眼差しに、鋭さが宿る。


「そ、それは……い、言えるものか!!」

「ふむ。依頼主への忠義か。立派、といえなくもないが……」


 女の指先が、バチッと弾けた。

 閃光と共に、男の股辺りに稲妻が走る。


「ヒッ!!」


 焦げた地面に驚き、全身を震わせる男。


「妾も忙しい。早く戻らねば主殿が心配するんじゃよ」


 女は膝を折ると、男に向ってそう言った。


「とっとと吐け。そうすれば見逃がしてやるぞ」


 男は歯をガタガタ鳴らしながら、思考を巡らす。

 眠りについている神狼に、魔法を施すのにさほど恐怖心はなかった。確かに、気配だけでも感じれば身が竦むものだが、所詮冬眠している獣のようなもの。

 仕事としては容易だった。

 だが、この女はどうだ。

 体術もだが、今の魔術にしても同業だからこそ瞬時に理解できる。

 体内に秘める魔力量。魔力という膨大なエネルギーが人の皮を被っているだけのようではないか。

 異次元の神とは違う、直感的に明確な力量差を感じる。

 ――敵うはずがない、と。


「そ、それは……」


 言いよどむ男に、女はさらに指先を鳴らした。男は悲鳴を上げ、観念したように呟くように言った。


「キ、……キルシュ……」


 今度は女が驚いた。僅かばかり目を見開いたかと思うと、立ち上がって笑い出した。


「そうか、そうか! あの小僧、もう自分が王様気分でいるのか。こりゃあ、愉快じゃのぉ!!」


 自身の依頼主をどうして知っている。そんな疑問が頭をもたげたが、男は一刻も早く逃げるようにした。腰を抜かしているために、四つん這いになりながら、女から遠ざかる。


「……となると」


 逃げることに必死で男の耳には入らなかった。

 女の声色が、途端に冷淡なものに変わったことに。


「証拠は生かしておけんよの」


 天から雷が突き刺さる。

 直撃した男は炎に包まれ、がなるような悲鳴を上げながら、一瞬にして丸焦げになった。


「主殿は今、新しい人生を歩こうとしておる。その邪魔をするような輩は、一切存在してはならない。例え、神であろうと魔王であろうとな」


 女が発した言葉は、既に絶命した男に届くことはない。







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