第12話 伝説の神狼(後編)

 何かが降ってきた。

 それだけは理解した。

 洞窟が崩落したのか。真っ先に思いついたのはそこだが、眼前にある威圧感は無機質のそれではない。

 薄っすら漂う土煙から、妙な光がある。

 こちらを睨むような薄気味悪い光が。


「下がるのじゃ、主殿!」


 ハッとしたアインは、反射的に後ろへ跳ぶ。

 直後。数秒前までアインが立っていた位置に凄まじい速度で何かが横切った。

 風だ。

 しかし、単なる風ではない。鎌のような鋭さを持った刃がアインの胸元をかすめていた。衣服が切り裂かれ、露わになった上半身に血が滴る。


「なん、だ……!?」


 血を指先で拭いながら、呆然と呟く。あまりに綺麗に切られたためか、痛みも感じない。


「どうやら、神のお出まし……じゃな」


 僅かに口角を上げながら、鼻を鳴らすオルタナ。

 煙が払われると、それは姿を現した。

 体長で二メートルはあるだろうか、大型の化け物だった。長い鼻に大きな耳。燃え盛る炎のようにゆらめくたてがみはあまりに美しかった。

 それは、青白い毛並みをまとった美しい狼。

 洞窟内の高台から飛び降りてきたのは、このあまりに巨大な体躯をした猛獣だったのだ。


「まさか、本物の“神狼”……!?」


 獰猛な眼光がこちらを射すくめると、巨大な獅子は咆哮を上げた。衝撃波が強烈な音圧となってアインたちを吹き飛ばす。

 地面を転がって岩壁に背中を強打。呼吸が奪われる。息を整えて起き上がる――なんて、悠長なことをしている場合ではない。

 早く武器を構えないと――。

 しかし、神狼はそれ以上何もしてこなかった。

 その場から動かず、犬歯を剝き出してこちらを睨むだけ。唸り声だけが、響き渡る。


「主殿、大丈夫か」

「あ、ああ……」


 オルタナが手を差し出し、アインは立ち上がる。


「しかし、驚きじゃな。絵本で語り継がれるだけのただの伝説とばかり思っておったが」

「じゃあ、やっぱりあいつは……」


 ごくりと、生唾を飲む。

 圧倒的な迫力。全身から溢れんばかりに放たれるオーラは、魔力……ではなさそうだ。

 それこそ、超然とした存在。


「神狼よ! レネット村の魔物を操り、村人を襲わせたのはお主なのか!?」


 オルタナが高らかに問う。


「もしも、そうならば理由を訊かせてもらいたい! 人間に対する怒りか、それとももはや不要と感じたのか!?」


 矢継ぎ早に質問を重ねるも、返答は無し。こちらを威嚇したまま攻撃的な姿勢を崩さない。


「なぜ答えぬのじゃ……?」

「オルタナ……?」


 訝しげに呟くオルタナを、アインは目線だけを動かして彼女を見る。


「神ともなれば人語など容易いもの。獣の姿をしておっても知性も高いはずじゃ。あれではまるで――」

「村の魔物と同じ……」


 アインが同様の考えに至った、直後。

 神狼が身を低くした。突撃の構えだ。


「来るぞ!! 主殿!!」

「た、戦うのか!?」

「仕方あるまい、少しおしおきをせねばの!」


 オルタナの両手が、雷を纏う。

 無類の強さを誇る魔人。その彼女が、全力を出そうとしている。余裕が消えたオルタナの表情が、神に挑むことの不条理さを表していた。


「大人しくさせねば話もできん! 主殿、神だからといって、ビビるなよ!!」

「くそ!!」


 集中。魔槍・ルインシュトラハータを生み出し、腰元に据える。

 地面を踏み鳴らし、もう一度神狼は吼えた。高く跳躍し、二人にとびかかってくる。振りかぶった前肢から光るかぎ爪が、大きな弧を描く。

 アインとオルタナはそれぞれ左右に飛び、これを回避。重量を伴った前肢が地面を押し潰す。


「グルゥゥアアアアアアアア!!」


 神狼は、アインに狙いを絞った。

 鬣が逆立ち、魔力が噴き出す。空洞一帯の気温が急激に下がる。空気中の水分が凍り付いているのか、至る所で軋む音が立つ。

 神狼が生み出したのは、幾つもの氷塊。先端が鋭く尖り、その矛先がアインへと向けられている。


「氷魔法!?」


 氷結魔法は、炎や風、土といった四大元素のひとつ。そもそも習得しやすく、氷結系を得意とする魔法使いも多い。

 ただここまで巨大となると、保有する魔力量は桁違いなのだろう。人間の場合、どうしても不純物が入ってしまうものだが、神狼が発動した氷塊は透明度があまりに高い。純正の魔力なのだ。


「逃げろ、主殿!!」


 オルタナの叫びが届く前に、アインは走り出していた。

 氷塊が一斉発射。アインの背中をかすめるようにして、次々と岩壁に突き刺さっていく。

 しかし、間に合わない。走る速度に対して氷塊の射撃は上回っていた。

 避けきれなくなったアインは、無謀にも長槍で受け止めようとした。ルインシュトラハータには魔力が込められているとはいえ、元々の質量で敵うはずがない。氷塊の軌道を逸らそうとしたが、アインの身体は紙切れのように吹き飛ぶ。


「ぐあッ!」


 川べりを跳ね、水しぶきが舞う。

 転がる最中、槍を手放してしまった。全身を打ってしまった痛みが思考を麻痺させる。槍を落としたことに気付くのが遅れてしまう。

 焦って周囲を見渡していた、そのとき。目の前を、何かが滴ってきた。粘り気のある液体。倒れている自分に覆いかぶさる影がある。

 神狼。大きな口を開け、その牙でこちらを今にもかみ砕こうとしているのだ。


「ふん!」


 飛び込んできたオルタナが、神狼の横っ面を蹴とばす。甲高い鳴き声を上げ、神狼はたたらを踏む。その隙にアインは立ち上がり、さらに後方へ距離を取った。


「助かった……。ありがとう」

「主殿、コイツの動きは妾が封じる。その隙に仕留めろ!」


 アインの返答を待たず、オルタナは突っ込む。

 反撃に繰り出す神狼の氷塊を素早くかわしながら、接近。肉薄したところで雷撃を纏った拳で殴りつける。眩い光と鈍い音が、同時に炸裂する。

 しかし、脳天すら焦がす一撃も、神狼には効果は薄かった。そもそも耐性が高いのか、それとも神という存在ゆえか。神狼は嚙み千切ろうとオルタナ牙を立てる。


「ふん!!」


 鼻先を両手で掴み、顎を脚で受け止める。とてつもない力だと思うが、オルタナも全力で踏ん張っていた。


「今じゃ、主殿!!」


 ハッとして、アインは槍を手に取った。後ろに下がったことが幸いし、足元に落ちていたのだ。


「う……るぁぁぁあああああああああああああああ!!」


 弓のように引いた右腕に、魔力が凝縮。魔槍・ルインシュトラハータが眩い輝きを放つ。

 直線状に放たれた雷光が、神狼の胴体に直撃。電撃がほとばしり、衝撃波が生まれる。神狼は、岩壁へ勢いよく叩きつけられた。

 立ち込める煙が晴れると、舌をだらしなく出して横たわる神狼の姿があった。若干痺れたように痙攣させているが、起きてくる気配はなかった。


「やれやれ。今回はちょっとばかり危なかったかの」


 深く息を吐くオルタナに、アインも疲れたように膝に手を置いた。


「そうだな……。でも、まさか俺たち……神様を殺しちゃった?」

「そんなもの余計な心配じゃよ。神はそう簡単に死んだりせん」


 小さく笑い、オルタナは「ほれ」と顎で神狼を指した。

 昏倒していた神狼はやがてむくりと起き上がってきたのだ。恐ろしい回復力に、アインは再び戦闘態勢を取ろうとする。だが、先ほどの一撃で魔力は使い果たしてしまっていた。


『ぐ……ぬ……。わ、我は一体……』


 どこからか、聞き慣れない声がした。

 精悍であり、生真面目さもある。脳内に直接響き渡るような感覚。アインは不思議に思うも、別の人間がいるのかと疑い周囲を見渡す。


「やはり、正気を失っておったのか」


 オルタナが、どこか呆れたように言った。無警戒に神狼に近付き、回復魔法を施す。


『お、お前たちは……?』

「妾は、オルタナ。あっちは妾の主、アイン殿じゃ。少しばかりお主と話がしたかったのじゃが、様子が変だったのでな。ちと荒療治させてもらったぞ」

『……分からぬ。記憶が……途切れてしまっている』


 神狼は頭を下げて、悲しげに横に振った。あれだけ逆立っていた毛並みも、今は雨に濡れたかのように垂れ下がっている。


「まさか、言葉が通じてるの……?」

「これが本来の姿じゃよ。人語を使えるのではなく、正しくは神狼の思念を通して妾たちの脳内で変換されているだけじゃがな」


 それはそれですごいことなのでは……と、アインは困惑しながら恐る恐る神狼に近寄る。


「俺たちは今、レネット村で世話になっているんです。昨日、初めてあの村を訪れたとき、一緒に住んでいた魔物が暴動を起こしていました。その原因を探るためここに来たんですが……」


 不敬にならないよう、腰を低くして話を始めるアイン。神狼はしっかりとアインを見据え、説明に耳を傾けていた。

 やがて、事の詳細を聞き終えた神狼は項垂れながら、残念そうにまた首を振った。


『そうだったのか……。あの村は古くから我を信仰してくれている。村に住む魔物も、そもそも我の眷属であった。両者ともに我を大切に想っていてくれたことには感謝している。しかし、そんなことがあったのか……』

「お主でも分からぬか。というより、魔物の暴走とお主の先ほどの状態。まるで同じだったな」

「じゃあ、神様まで別の何かの影響を受けて……?」


 考え込むオルタナを、信じられないといった表情で見るアイン。


「もっとも代表的なものは魔法じゃが……。お主も心当たりはないのか?」

『我は何百年と眠る存在。こうして起きるのも久方ぶりなのだ。その間に干渉を受けたのかもしれぬ』

「まさか、神様が……?」


 しまった、とアインは自分の口を塞ぐ。神狼はアインの失言に怒りもせず、静かに自嘲した。


『我は単なる守り神。超越した力は持てども、長き眠りによって徐々に衰えてきているのだ。もしも何者かに操られたのだとすれば、最早神の資格もないのかもしれん』

「神狼……」

『さあ、ここを立ち去るがよい。我や村の魔物を貶めた者に怒りは湧くが、どうこうしようとは思わぬ。それもまた運命なのだろう。だが、お前たちには礼を言おう』


 遠吠えのように、大きな狼は気高く鳴いた。これが、誇り高き神狼の感謝だった。そうして踵を返し、洞窟の奥へ消えようとする。ねぐらに繋がっているのだろう。また長き眠りにつくために。

 新郎の後ろ姿を眺めているしかないアインは、声をかけたくても言葉が見つからなかった。

 すると、何かを思い至ったのか、オルタナが手を叩いた。


「そうじゃ! 神狼よ、お主も主殿と契約してみてはどうじゃ!?」

「――は?」

『――ぬ?』


 アインと神狼が揃って気の抜けた声を出す。


「こんな辛気臭い場所で、これからもずっと惰眠をむさぼるつもりか? それだったら主殿に力を貸してお主も錆びた力を取り戻していけば良いではないか!!」

「おまっ、何をバカなことを言って……!」

「主殿も、頼れる仲間は一人でも多い方がええじゃろう? 妾としては二人きりの甘~い旅でなくなるのはちと残念じゃが、ここは我慢しようではないか!!」


 豪快に笑いながら、とんでもないことを言い出したオルタナにアインは詰め寄った。神狼に聞こえないよう声を潜めて激しく非難する。


「お前な、仮にも神様なんだぞ!! そんな罰当たりなことできるかぁ!!」

「え~、いいではないか。我ながらナイスアイディアじゃろ。お互いに得しかないもの」

「お前は俺をどうしたいんだ!? ただでさえ追放された王子として悪い噂が立ってるのに、こんなデカ……、いや凄い神様を連れてなんか行けるはずが――」

『……ふむ。悪くない提案だな』

「……へ?」


 呟かれた神狼の一言に、アインは耳を疑う。

 神狼は再びアインたちの方に近寄ると、アインと目線を合わせるように身体を伏せた。


『アイン……といったか。貴公は我をも凌駕する力の持ち主。従うのは道理であろう。我をお主の従者にしてくれぬか?』

「いやいやいやいや! そんなの無理ですって! 困りますよ!!」


 神が頭を下げることに対して、激しく動揺するアイン。

 アインには現状、これといった目的がない。模索中の旅の最中なのだ。オルタナでさえ強烈な力を持っているのに、今度は神まで従えるなんてあまりに荷が重すぎる。


「それにほら! 俺と契約したらここを離れなきゃいけなくなるし! そうしたらレネット村の人たちが可哀想じゃないですか!?」

「であれば、主殿があの村を守ればよかろう? 神狼と一緒にな。神狼もパワーアップできるし、良いことずくめじゃ」

「はぁ!?」

『おお、それはいい!』

「いや、おこがましいよ!!」


 恨めしく睨みつけるアインに、オルタナはどこ吹く風。神狼もすっかりその気でいる。


「ほれほれ、そうと決まれば神狼よ。とっとと主殿に血を分け与えるのじゃ」

『あい分かった。アイン……いや、アイン様。我に流れる血……受け取ってくだされ』


 アインが決心を固める時間さえ与えず、神狼は魔力を放出。滝のように噴出する白い粒が、鮮血を彷彿させる赤色に変化。気高き咆哮と共に、渦を巻いてアインに流れ込む。

 全身に血の雫の奔流を浴び、そして体内に染み込んでいく。

 身構えていたアインだったが、不思議と心地よかった。自身の血と神の血が混ざりあう感覚。既にオルタナの魔力も混じっているが、やはり魔性なものとは違う。神格化した魂が、自分の心を保護していくようだった。


「……び、びっくりした……」


 僅かな粒子がまだ身体の周囲に浮かぶのを呆然と見ながら、アインは感触を確かめる。吸収が終わった今だと、力感はほとんど感じない。


『我は山奥に住む神ゆえ、氷結魔法を得意とする。排除すべき敵がいたなら、遠慮なく氷漬けにしてくだされ』

「よしよし、これで目的は達成じゃな!」

「いや、これが本来の用事じゃなかったはずなんだけどね……」

「ま、いいではないか。ほら、村に戻るぞ!」

「それはいいんだけどさ……」


 アインはチラッと神狼に振り返る。


「えっと……神狼様も一緒についてくるんだよね?」

『当然ではないですか。これから誠心誠意、アイン様の行く道に我もお供してまいります』


 代々祀り崇めてきた神様を連れて帰ったら、村の人たちはどんな反応を示すだろうか。想像だに難くないし、なんと説明すればいいのか……アインは悩む。


『それと、もう神狼などと呼ぶのはやめて下され。我はアイン様の従者。新たに名を頂きたい』


 ぶんぶんと尻尾を振る神狼。名づけてもらうのを心待ちにしているのか、大きな尻尾が風を巻き起こしている。


『名をつけるのはれっきとした主従関係の証。さあ、さあ!』

「え……。いいの? じゃ、じゃあ……」


 しばらく考え込むアイン。日頃から魔物とは仲良くしていたものの、名付け親になった経験はない。今か今かと鼻息荒くする神狼の圧に、そっと伺うように告げた。


「ヴァルシオン……ってのはどうかな? この世界で有名な剣の名前なんだけど」


 安直だったかな、と少し照れくさく頬を掻く。一方、神狼は一瞬硬直したかと思うと、全身の毛を逆立て歓喜に吠えた。


『おお!! ヴァルシオン、ヴァルシオン!! とても良い名ですな、気に入りましたぞ!!』

「はは、それは良かった……」


 胸を撫でおろしたアインは、洞窟を出ようと踵を返す。すると、いつの間にか会話に外れていたオルタナが、広間の出口に既にいた。


「主殿、妾はちょっと野暮用ができた! 先に村に帰っていてくれ!」

「お、おいオルタナ! どこに行くんだ!!」


 アインの言葉を無視して、足早にオルタナは洞窟から消えていった。いつも理不尽な行動を取るオルタナだが、自ら離れるとは珍しい。アインは首を傾げつつも、ヴァルシオンとともに村に帰ることにした。





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