第1章 ブラッドイーター
第5話 謎の女
拘束されたアインは、馬車の荷台に乗せられ国の南部まで連れていかれた。
見晴らしのいい平原から一転して国境付近は大森林になっており、鬱蒼とした木々が通行者を阻む。ウィンザルトが武力に乏しい小国ながらこれまで維持してこられたのは、この場所があったからだ。
地元民はまず寄り付かない地帯であり、とにかく迷いやすい。冒険者でも慣れが必要であり、他国も容易には攻めてこれない。
開拓すれば間違いなく交易が捗るが、そういった利点から放置されていた。
「ほうら……よ!!」
森に入ってしばらく。アインは二人の衛兵に担がれ、雑に投げ捨てられた。手足を縛られているため、受け身も取れないアインは背中を強く打ち地面を転がった。
「ぐッ……!!」
呼吸もままならず、苦しみ喘ぐアイン。
出発前に散々この衛兵たちに殴られたのも相まって、激痛に身をよじらせる。
「はっはっはぁ! ここでお別れだな、元・王子様よぉ!」
「ほんとはもうちょっと痛めつけてやりたかったがな。キルシュ様から“ほどほどにしておけ”なんて言われたから、ここまでにしておいてやるよ!」
下品に笑い合う衛兵二人が、馬車に戻っていこうとする。
微かな意識しかないアインには、罵倒の言葉がはるか遠くから聞こえてくる。去っていく馬車を目で追いながら、アインは一人取り残されてしまった。
「うう……」
激痛に苦しみながら、仰向けになってみる。
浅い呼吸すら鮮明に耳に届くほど静かすぎる森の中。生い茂った葉が太陽を阻み、日中だというのにあまりに暗い。時折り吹く風は生ぬるく、湿気を帯びていた。
「このまま……死ぬのかな……」
悔しかった。死への恐怖よりも、された仕打ちに対する想いが勝っていた。だがそれも、散々痛めつけられたことによって徐々に薄れはじめ、諦めに変わっていった。
回復魔法を使う気力も残っていない。といっても、人間相手、しかも自分にすら効力を発揮しないのだから意味はないのだが。
大きな嘆息を吐く。そんなとき、腹部で何やらもぞもぞと動いた。
酸素を求めて服の隙間から出てきたのは、あの小さな黒い魔物――フェルナキャットだった。
「お前……目を覚ましたのか……」
フェルナキャットは小さな顔をブルブルと振り、アインを見つめて「ミャウ……」と寂しげに鳴いた。
「俺を心配してくれるのか?」
力なくアインがそう言うと、小さな魔物はまた、か細く鳴く。
「ごめんな、お前まで巻き込んで」
撫でてやりたいが、それすら敵わない。
苦笑するアインの顔を、フェルナキャットは気遣うように舐めた。彼の血を拭き取りながら。丁寧に何度も。
「おいおい、やめろよ」
くすぐったい。こみ上げる可笑しさに顔を背けようとするが、魔物は止めようとしない。
そこで違和感に気付いた。
まるでアインの血液を求めながら、味わっているのだ。愛くるしい丸い瞳が、獰猛な獣の鋭き眼光に変化している。
「お、おい……。お前……」
異常な執着。血に対する渇望は、どんなに可愛い見た目でもやはり魔物の類なのか。
そして間髪入れず、不穏な空気がすぐ近くからやってきた。
乾いた枝を踏み抜く音。続いて草木が揺れる不規則な音。
何かが、ゆっくりと次第にこちらに近付いてくる。
「ッ!?」
太く入り組んだ木々の間――闇から這い出るように、それは姿を現した。
大きさとしては人間の子供程度。しかし、異様なのはそのアンバランスさ。矮小な胴体とは正反対な頭部と手足。それを彩るのは気味悪さを象徴とした緑色の全身。
(ゴブリン……!?)
目を剝いたアインは、そこでようやく思い出す。
この森には特徴がもう一つ。その昔、ウィンザルトの通行の便をよくするために、国の命令で魔物の一斉駆除が行われたのだ。その政策によって行き場を失った魔物はこの森に一斉退去。陰鬱な性質と相まって魔物の密集地として、この森は放置されてきた。
アインの血の匂いを嗅ぎつけてやってきたらしく、ゴブリンの数は三体。ただ、ゴブリン自体極めて一般的な、どこにでもいる低級魔物だ。
「く……!」
アインでも普段なら簡単に追い払えるが、状況がまずい。傷だらけの上に手足まで縛られているのでは戦いようがない。
獲物を見つけたゴブリンたちの目つきは鋭かった。知恵は高くないが、それでも長年繫栄してきた種族。石や木を削りだした斧を地面に引きずりながら、じわじわとこちらに近付いてくる。
「おい、お前だけでも早く逃げるんだ!!」
死を覚悟したアインが魔獣に向って叫ぶ。だが、魔獣は動こうとしない。それどころか突然震え、苦しそうに呻いている。
「おい、死ぬぞ!!」
語気を荒げたのが災いした。危険信号だと受け止めたのか、ゴブリンの方が興奮しはじめた。ギイギイと言葉にならない喚きを発し、石斧を振り上げつつ、突進してきた。
(マズイ……!!)
間近に迫る死。
アインの視界が一瞬にして閉ざされた。
何もない地面から土煙が昇ったのだ。否、そこにはあの魔獣がいた。小さな獣が破裂するように爆発し、稲妻を呼び寄せる。
「うわッ!」
巻き起こる突風がアインを吹き飛ばした。地面を転がりながら大木にぶつかり、呼吸が奪われる。ようやく勢いを止めたかと思いきや、あまりの風圧に太い木すらもへし折れそうだった。
(な、なにが……!?)
周囲を薙ぎ払う稲妻の正体は、強大な魔力だった。
尋常ではない魔力量。大気が怯えているかのように震えている。暴れ狂った紫電が木々を薙ぎ倒し、やがて、導かれるように一つに重なる。
突風が一際、強く弾けた。
霧散した魔力の中心には、人影があった。
咳き込みながらアインは、背中を向けた人影に注視する。
腰元まで真っ直ぐ伸びた真紅の髪が、残った風によって舞う。スラリと伸びた細身の体にぴったりと張り付いた黒のレザースーツ。一見して女性のようだが、見覚えはまるでない。
「だ、誰だ……?」
異国でも見ない恰好の女性に向けて、恐る恐る問いかける。
腰に手を当てて前方を見ていた謎の人物は、アインの声に反応すると、ゆっくりと振り返る。
「誰だ、とは失礼じゃな。あんなにも一緒に触れあっていたというのに」
切れ長の青い瞳がアインを射抜く。形のいい唇を上げて、ニコリと微笑む。
「そうじゃろう、主殿?」
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