第12話 おねしょ



 ベッドの上で目覚めた。


 タラコットの町の、お屋敷の、わたしの部屋のベッドだった。目をパチパチさせる。鼻をスンスンする。好みの香木が炊かれているのが分かる。モルシーナが炊いてくれたのかな? 妙にスッキリした身体を起こす。



「……」



 お漏らしをしていた。おしっこの方だ。お漏らしというか、おねしょ、ってやつだ。


 クイルホローとの会話の途中から記憶がない。けれど、こうして生きているということは、契約は無事にできたのだろう。わたしは、ブランケットをバッと剥ぐ。シーツにはお漏らしの痕が刻まれている。


 うわっ。地理の授業で習ったアロライナ地方の形と似ている。



「さいあく」



 最悪? 呟いてみたけど、最悪じゃないよね。生きていてよかった。小説家になるまでは死ねない。小説家になるためには、糞尿まき散らしてでも生きる。ベッドにスライムを仕込もうかしら。もちろん、凶暴化しない、市販のスライムだ。


 ベッドから出る。机に置いてあるベルを鳴らす。チリン。竜神メテロノーレが空の高い位置に昇っている。昼が近い。ふと、爪を見る。割れている。洞窟の出来事は鮮明に、強烈に印象に残っている。


 モルシーナが入室する。わたしを見つけて、抱きしめる。ギュって密着したから、ちょっとおしっこが気になる。モルシーナも気になったのか、違和感がありますって顔をしてわたしから離れる。



「粗相ですか?」


「魔力ではなく、おしっこです。なんとなく、安心できるよね?」



 魔力と違って、おしっこが暴走して死ぬことはないからね。


 わたしの笑顔に、モルシーナは驚いた顔になって、それから、笑みを浮かべる。モルシーナの目から涙が漏れた。きっと、張り詰めていたものが緩んだのだろう。モルシーナはしっかり者だけど、19歳の女の子だ。領主の娘の筆頭側仕えという、責任ある立場になって、相当なプレッシャーに違いない。


 不安にさせてしまったね。


 不安にさせたのは、これで二回目だ。


 わたしは、割れた爪を見る。身体の崩壊は始まっていた。クイルホローと対峙したときの感覚を思い出す。あの感覚は、経験があった。身体がどこかへ溶けだすような感覚を知っていた。身体の崩壊に抗うことを止めていたら、わたしはどこかへ溶けだして、鯨を形取っていたに違いない。


 魔力で身体が崩壊する感覚は、海に溺れて死んだときと似ていた。


 案外、人間が死ぬ前というのは、総じてあのような感覚になるものなのかもしれないね。ウラフリータとしてしわくちゃのおばあちゃんになるまで生きて、満足して死んだときにどうなるか、ちょっと楽しみだ。


 モルシーナは、わたしのおねしょの処理を一人で行った。恥ずかしくないから、お屋敷の使用人を呼んでも良いよ、と許可をしたのだけど「やりがい」云々を理由に、万歳をしたわたしから、パジャマを剥ぎ取った。



「クイルホローとの契約は完了しています。竜の宝石のような分かりやすいアイテムがないので、ご自覚はないと思われますが、ウラフリータ様の魔力は、クイルホローの力によって安定しております」



 部屋で全裸になったわたしは、モルシーナに暖かいタオルで磨かれる。おしっこが付いたままだと痒くなってしまうので、お股の辺りは、入念に洗ってもらう。それにしても、真っ白は肌だ。傷が付けば目立つだろうね。


 汚れが落ちていくのを感じながら、モルシーナからの報告を聞く。


 これで、魔力が原因で死ぬことはなくなった。



「ウラフリータ様の身体の崩壊は始まっていました。クイルホローとの契約が完了してからは、身体の崩壊はパッと治まりました。あまりに突発的で、急展開でしたので、アルナシーム様も呆気に取られて何もできなかったようです。身体の崩壊が始まっても生きているのは、ウラフリータ様の心が強いからだと、感心しておられました」



 アルナシーム様の言う、心の強さとはなんだろうか。魔力によって身体の崩壊が始まっていたわたしと同じように、海にのまれたヨモギも「小説家になりたい」と強く思っていた。しかし、ヨモギは死んだ。わたしは生きた。その違いはなんだろうか。


 きっと、運だ。

 

 そんなのは、分かっている。


 それでも、理由を求めずにはいられない。


 わたしは小説家になりたかった。転生者として前世を弔うために、ウラフリータはヨモギの小説を書いた。そして、わたしはウラフリータになった。ウラフリータとして生きても、小説への思いは止められなかった。ヨモギと、ウラフリータは、小説で一貫していた。とすれば、小説が、わたしの本質だった。


 ヨモギは、わたし足りえない。


 ウラフリータは、わたし足りえない。


 しかし、小説は、わたし足りえた。


 おそらく、洞窟へと向かう数時間前から、わたしは発狂していた。元気にノースアロライナ体操をしていたとしても、心が病んでいた。ヨモギと、ウラフリータの二人の人格が入り混じり、自我が崩壊し、自己矛盾が発生した。正常と見分けがつかないほどの静かな発狂は、わたしの身体を蝕み、カオスを生んでいた。


 ヨモギとウラフリータが、まず、わたしの心を崩壊させた。


 心が弱って、身体が魔力に耐えられず崩壊した。


 しかし、あのとき、わたしはクイルホローに言った。


 小説家になる。


 心も身体も崩壊して、小説で耐えた。


 強かったのは、わたしの心ではなく、小説だ。


 小説は強い。




◇◇◇




 療養ということで、しばらくタラコットの町に滞在することになった。まあ、当初の予定通りである。アルナシーム様のお世話になるということに、変更はない。それに、療養という名目が加わった。


 割れた爪が治るまで、部屋の中で大人しくする回復を待つ。


 その間、小説を書いていた。ジルボーデンについての小説だ。同僚から見たジルボーデンはよく書けるのだけど、上の立場の人間から見たジルボーデンがどういった評価だったのか分からない。そもそも、騎士団長の息子だから、上の立場の人間が少ない。


 騎士団長から聞いたジルボーデンの話は、家族視点の話になってしまう。そうだね。例えば、お父様から見たジルボーデンの話が聞きたいな。ジルボーデンは政変の敵から、お父様を守ったのだ。お父様も、何か思うところがあるはず。


 小説でジルボーデンを書くには、様々な立場から多角的に描写し、個人としての輪郭を浮き上がらせる必要がある。それには、政変の敵視点のジルボーデンの話も必要だと思う。


 わたしはペンを置く。


 小説を効率的に書けるような、環境ではない。それでも、小説を書く。小説を効率的に書ける時代が訪れたとき、ウラフリータの名前が文豪としてトロイテンに刻まれていたら、それで良い。


 背伸びをして、ペンを持つ。


 小説を書いているうちに、数日が経過する。アルナシーム様の診察によると、魔力は完全に安定したらしい。割れた爪も元に戻った。生え変わったというのが、正しいかな。転生みたいなものだ。


 外出の許可が出ると、アルナシーム様の青空教室に参加することになった。公共事業に参加している子供たちに、修学の機会を与えるための取り組みだった。子供と言っても、下は10歳から、上は15歳まで、6歳のわたしよりも遥かに年上だ。


 アルナシーム様の懐に潜って、竜に乗って移動する。


 鯨と契約したわたしは、宝石の竜を貰えないので、移動手段が少ない。



「タラコット分水が完成したら、今度は農業改革期に突入する。政変の影響で仕事を失った領民に、公共事業で仕事を与え、その期間のうちに職業訓練を行い、次の仕事に就かせる。つまり、公共事業が完了したときには、次の仕事があるような状態にしなければいけない。領地の安定とは、計算の上で成り立っている。分かるな?」


「はい」


「政変が終わっても、問題は山積みだ。仕事を失った者や、没落した貴族などの蛮行による治安の悪化は、早急に対処しなければいけない課題の一つだった。最も効率的に利益を求めたのが、悪手だった」



 わたしが海に落とされたこと。その反省をしている。


 ウラフリータの魔力は、生まれたときから鯨だったのだろうか。それとも、海に落ちたことで後天的に鯨の魔力になったのだろうか。元はウラフリータも竜の魔力をしていたのではないだろうか。先祖返りという解釈は、あまり信じるに値しないものだ。


 死んで魔力がリセットされた。


 空っぽになったウラフリータの身体に、ヨモギの心と、鯨の魔力が入った。


 そういう解釈が正しい。


 アルナシーム様は、わたしにまつわる一連の騒動に責任を感じている。


 まず、ウラフリータが海に落とされて、全てが始まったのだ。政変の残党によって、わたしは海に落ちた。全てはノースアロライナの利益のため、ウラフリータは、その身近な犠牲だ。


 潜在的な反乱分子を全て排除するのは不可能に近い。その点、公共事業というのは見てくれだけでも上手くできた方だと思う。わたしが勉強した知識でも、これ以上となると方法は一つしか浮かばない。



「心を鬼にして、敵を皆殺しにするべきだっただろうか」


「誰が敵で、誰が味方かは、ハッキリとは分かりません。政変が発生する前は、ノースアロライナで暮らす味方だったのですから。それに、皆殺しを行えば、味方も敵になってしまいます」


「聡明だな。その通りだ」



 教科書通りだけどね。


 アルナシーム様はとても良い匂いがした。モルシーナと同じ黄金世代と呼ばれる19歳だ。賢く、聡明で、領民からの期待を寄せられている彼女でも、ヨモギと同じ年齢だと考えたら、まだ子供だ。


 恋人はいるのだろうか。


 赤竜と契約したエクラール王子とのシンジュの話は、モルシーナが熱っぽく語っていたけど、あれは色恋の話ではないよね。エクラール王子は、政変の勝ち組陣営だ。彼の父親が、竜の王トロイテンに認められ、キング・トロイテンの座を手にした。


 そもそも、政変は王選の余波で発生したものだ。


 先王が長寿だったため、長期化したキング・トロイテンレースは、確かに存在したトロイテンの断裂を可視化させてしまった。それから、敵と味方がハッキリと分かるようになり、レースに勝利した現王が即位した時点で、パツンと政変が発生してしまった。


 今のトロイテンの政治を支える貴族は、全て現王派閥ということだ。


 民主主義の知識があるわたしにとって、なかなか不健全な政治体制に思える。


 明確な分断はこれでなくなったと思いたいけど、しかし、貴族と平民という身分の違いはそれこそ分断だと思う。魔力という圧倒的な力の差があるから、平民は貴族には逆らえないようになっている。しかし、平民に魔力があったらどうなるだろう。例えば、鯨の王クイルホローが意見を持った平民に魔力を与えたら、政変どころか、革命が発生するのではないだろうか。


 そうなったら、小説を書く暇なんてなくなる。


 うわー。嫌だな。そうならないことを願う。


 竜が大地に降り立つ。青空教室の会場に到着したのだ。タラコット分水は町の近くを流れる予定だ。現在の作業現場も町からそれほど離れているわけじゃない。机や椅子が用意してあって、大きな黒板が置いてある。まさに教室だ。



「タラコット分水の完成は、いつになるのですか?」



 工事に使った道具を片付けたら、ほとんど完成しているようにも見える。アルナシーム様は竜を撫でる。竜は宝石になる。「計測が終われば、あとは水を流すだけだ」とアルナシーム様は答える。


「水を流すときは、わたしも呼んでください。人間が水の流れを自在に操る様を見て、水への恐怖を克服します。人間は団結すれば、水に勝てるのです。アルナシーム様が、タラコット分水を完成させ、ノースアロライナは水に勝ったと宣言する。その場面を見て、わたしが水への恐怖を克服する。アルナシーム様の物語の一ページに相応しい場面になりますね」



 サクラス川の水が、タラコット分水に流れる瞬間を想像する。自然の川と、人工の川、その二つを分断する堰のゲートが開かれて、すごい勢いで水が流れる。想像するだけで、恐怖で身が震える。おしっこちびりそう。


 せき止められていたものが解放されて、すごい勢いで水が放たれる様は、きっとおしっこに似ているだろうね。その様子は、サクラス川のおねしょとも表現できるかもしれない。そしたら、わたしと一緒だ。



「もちろん、呼ぶさ。タラコット分水のお披露目は、竜結びの儀と同日に行う予定だ。そしたら、ウラフリータが主役だ。契約したのは竜ではないが、堂々としていると良い。君の優秀さは、いずれ、皆に伝わる」



 アルナシーム様はわたしの頭を撫でた。


 わたしは宝石にならないよ。

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