第6話 幼馴染の想い

────大正時代


雀の声が朝を告げる。

蘭霞ランカは馴染みを送り出した後、行きそびれていた神社へ向かった。初めて人を殺めた折りに怖くて仕方なくなり、近くの寂れた神社で一心不乱に謝り続けた。何に対して謝るでもなく、「ごめんなさい」という言葉しか頭に浮かばなかった。それでも、自分が殺めたことに対しての罪悪感は一切湧かなかった。ただ何となく怖くてたまらない。それだけだった。

今では命を刈り取ることへの罪くらい意識するようになった。だが、自分の行為に別段特別なことは感じない。

それでもなぜか神社には来てしまう。蘭霞自身もそんな奇妙な行動を取る自分に呆れてはいる。

神社は相変わらず寂れていて、モノノ怪でも出そうな様子だ。手を汚してる自分にはこのくらいがちょうどいいと思い、階段の前に立ち、しばしの黙祷をする。鳥居をくぐってやしろに詣でることはしない。

黙祷が終わると何事も無かったように神社を後にした。


道すがら、以前勤めていた陰間茶屋かげまちゃやの近くを通る。4年前になるだろうか。いきなり妓楼からの引き抜きがあったのは。座敷に上がるようになってから店主に挨拶した折りに義理は通した。

ここは橋のたもとにあり、川のせせらぎを好きでよく橋から川を覗いていた。今日もそんな気分になり橋に腕をかけぼんやりしていると…


「おまえ、蘭霞か?!」

振り返ると懐かしい顔があった。

「弥彦?」

呼ぶ青年は破顔し、蘭霞の隣に近寄る。

「なっつかしいなぁ!おまえ、前よりべっぴんさんになったな、へへ。」

「あのさ、そこ照れないでくれない?言われて恥ずかしくなるんだけど。」

弥彦と呼ばれた青年はおどけて肩を竦める。

「相変わらずキツイこって。」

「君は相変わらず元気でうるさいな。」

ぷっと互いに顔を見合わせて笑った。

弥彦は蘭霞よりやや年上で、陰間茶屋時代は勝手に兄貴分気取りされていたものだ。今では背が伸びきって蘭霞より頭ひとつ高い。

「ところでおまえさ、まだあの妙な夢見てんの?」

蘭霞は、はて?と頬に手を当てた。そういえば弥彦には話していた気がする。

「うん、毎日だよ。」

「別の国の自分の夢だっけ?美味いもん食って生活してるとか。今でも見てんのか…」

弥彦はあまり考え事をする質でもないし、すぐ忘れてしまうが、カラッとした明るさが人気の男娼だ。……今は役者の卵になっているかもしれない。そんな弥彦が珍しく考え込んでいる。

「おまえ、その夢見続けても疲れてないみたいなのがいつも気になっててさ。俺もたまにハッキリした夢見るけど、そんな日の朝はぐったりしてるぜ。疲れも取れない感じだし。…いっぺん呪いまじないの婆さんに見てもらっちゃどうだ?」

弥彦が妙に真剣な顔をするので、蘭霞は少し笑った。

「おいおい、こっちは真剣に心配してるんだぞ~」

相変わらず優しいやつだと蘭霞は胸に手を当てて弥彦の温かさを感じ微笑む。

「いい男になったな。いつか座敷に来なよ。」

大袈裟に弥彦がひゃー!と言いながら手を挙げる。

「おまえの座敷なんて行ける頃にゃあお互いじーさんだぜ?」

「さっさと出世しなよ。そろそろ役来てるんじゃない?」

弥彦は目を輝かせてドンと橋の手摺を掴み、川の向こうのどこかを眺めてから蘭霞を振り返る。

「おうよ!ついに舞台に上がれる身分になったんだぜ!明日は初披露だ。やっとこの日が来た。俺は絶対立役者まで登りつめるぞ。」

ニカと笑う弥彦に蘭霞は胸が弾んだ。眩しい。弥彦の裾をギュッと掴む。

「そっか。じゃあお祝いしなくちゃね。」

「ん?おいおいどこ行くんだよ。蘭!」



弥彦の裾を掴んだまま神社に行く。旧友の門出を祝うのだ。少しくらい神様も許してくれるだろう。

「あれ?ここって昔よく遊んだ…相変わらず気味わりぃ……って何やってんだよ!」

「誰も来やしないさ。」

社の扉を開くと中は空っぽだった。こういう所で逢い引きをする者がいると聞いたことがある。

弥彦は蘭霞の意図を察したらしく、黙って社の中に入った。パタン。扉を閉めると中はほとんど灯りが射さない。

弥彦の耳に衣擦れの音が聞こえた。蘭霞が着物を解いてゆく。

「……それ、俺の仕事な。」

手探りで蘭霞を胸に引き寄せ深く口付けると、着物を徐々に解いた。隙間からこぼれる光が蘭霞を照らす。顕になっていく身体はこの世のものとは思えぬ美しさだ。

「小さい頃からよくくっついて寝てたね。」

「そうだな。いつの日だったかな、お前を抱いたのは。」

お互いの過去を惜しむようにゆっくりと口付け合う。

「僕が妓楼に行く前の日だよ。二人で少しふざけちゃったね…あっ…。」

弥彦は蘭霞の首の後に口付けた。

「ふざけてなんかねえよ、俺はな。今も変わらず…おまえが……。」

蘭霞は弥彦の口にそっと手を当てた。

「将来の立役者が男娼なんかにそんなこと言っちゃ…ダメだよ。」

弥彦はたまらず蘭霞を強く掻き抱く。

蘭霞がいなくなってから思い出さない日はなかった。暇さえあれば蘭霞がいる妓楼に行き、外から眺めて少しでも姿が見えることを期待した。時々妓楼の窓から垣間見える蘭霞に焦がれていたからここまで頑張れた。いつか必ず上客になって蘭霞に会いに行く。そう決めて厳しい稽古に打ち込んできたのだ。

「おまえが愛おしい、蘭…。」

弥彦は壊れ物を扱うようにそっと蘭霞の両肩を掴み、大事そうに唇を重ねてゆっくり舌を絡める。

「ん…」

蘭霞の声を聞くと、弥彦は爆発したかのように激しく抱き締め、床に倒して着物を全て脱がす。暗闇に目が慣れてきて、蘭霞の姿がハッキリ見えるようになった。

(こんなに綺麗になっていたのか…。)

堪らず蘭霞の身体を吸い付くさんばかりに口をはわせてゆく弥彦の激しさに、蘭霞は彼からの熱情が伝わり切なくなる。

「弥彦…弥彦…」

愛しさが込み上げて名を呼んでしまう。蘭霞の呼びに答えるように弥彦は蘭霞に再び口付けた。

「ダメだな俺、お前を離したくないよ。」

「弥彦…。」

抱き合い口付け合い、体をからませ合いながらお互いを貪る。蘭霞は弥彦の着崩れた着物の帯を解いた。逞しい彼の体が顕となる。

「もう我慢できねえ…」

弥彦は蘭霞の両手首を握り、壁に押し付けて後ろから蘭霞の中に一気に入った。

「蘭…蘭…、好きだ…蘭…。」

「ダメだよ…やひこ…。」

弥彦は一度抜き、蘭霞の身体を自分の方に向かせ、激しく口付けながら再び突き刺す。突き上げる弥彦を感じ蘭霞は快楽に震える。

「ダメなんて…言うな…俺は…」

強く深く蘭霞の中に入り込む、

「お前が…愛おしい…男娼がなんだ!」

そう言うと激しい接吻を浴びせ、蘭霞を強く抱き締めさらに弥彦自身を蘭霞の奥へ奥へと突き上げてゆく。

「やひこ…」

弥彦が愛おしい。こんなに愛してくれる彼が。欲しいもっと。蘭霞は夢中で弥彦を受け止める。

「弥彦…僕も…」

(言ってはいけない)

「言えよ…蘭。」

弥彦は腰を激しく動かし始めた。

「やひこ…ほしい…弥彦が欲しい!」

「俺の何が欲しい?」

「全部!弥彦の全部が…ほしい…」

「本当に…俺でいいのか?」

「やひこ、やひこ…」

答える代わりに蘭霞はぎゅうと首に抱きつく。だが、弥彦はそれを許さない。顔を上げさけ舌を強く強く絡め、腰の動きを心臓の鼓動のように、ズンズン、としたものに変える。

「弥彦…意地悪…」

「意地悪はどっちだよ。俺は…答えを聞いてねーぞ」

「そんなこと…言っちゃダメ…だから…。」

「蘭、言って欲しい…頼む。」

懇願する弥彦の妖しく光る目が蘭霞を魅了する。愛しさに胸が張り裂けそうだった。

「俺はおまえが…好きだ…好きで好きで…もう離したくねぇ。」

「弥彦……僕も…弥彦が…。」

客に対して感じる時とは違う身体の反応。全身で弥彦を欲しがる蘭霞はついに耐えきれず

「好き……弥彦…好き…」

「蘭!」

弥彦は強く激しく蘭霞を突き上げる。

「やひこ…すき…やひこ…もっと……もっとちょうだい…。」

「いくらでも…やるよ…全部。」

蘭霞は幸せに身を震わせた。自分がどんどん登っていくのを感じる。

「やひこ…僕…もう…」

「いこう、蘭…」

弥彦は蘭霞の中に自身を開放した。彼の熱いモノが身体の中に広がっていく喜びに蘭霞は酔いしれた。


「蘭、大丈夫か?立てる?」

弥彦が優しく蘭霞の頬を撫でた。その手を両手でそっと掴むと蘭霞の目から涙がこぼれた。弥彦は蘭霞の涙を優しく拭う。

「その…悪かったな。」

「え?」

弥彦は視線を逸らしてバツの悪そうな顔をする。

「ふーん。君って僕のこと本当に好きなんだね」

泣きながらいつもの調子でニヤニヤとふざけてくる蘭霞の口をちょっと塞ぐ。

「ああそうだよ。今さら隠すか。おまえは…その…良かったのかよ。なんか無理やり言わせちまったような…。」

蘭霞は緩やかに首を振る。

「嬉しかった。でも…こういうのはこれで最後にしよう。最初で最後かな。」

泣き笑いする蘭霞を弥彦はぎゅうと抱き締めた。

「そんなこと…言うなよ。蘭、ここを出よう」

(何を言って………。)

顔を凍りつかせる蘭霞の表情は弥彦に見えない。

「ここを出て二人で暮らすんだよ。遊郭を出てどこかに行こう。」

「でも…立役者は?夢だったんでしょ?」

「あれはおまえを買うためだ。」

「そんな…何考えてんだよ。」

「おまえには足抜けさせることになるが、苦労はさせねぇ。」

蘭霞は弥彦に抱きついた。凍り付いていた何かが溶かされてゆく。こんなに幸せでいいのだろうか。

「弥彦、そのセリフは女郎に言う言葉だよ。」

「女だの男だのそれがどうした。俺は子供ん時からおまえしか見てねぇ。妓楼に連れられて離れ離れになった時から俺がどんな想いで過ごしてたか分かるか?」

「弥彦……」

「俺はもうあんな思いはごめんだ。ここに連れてこられて社に入った時に決めたんだ。おまえが俺を好いてくれるなら…」

弥彦は蘭霞の瞳に自分を焼き付けるように見つめる。

「おまえを攫うさらう。」

蘭霞は悩んだ。弥彦の気持ちは痛いほど嬉しい。愛しい気持ちも偽りはない。だが、弥彦は自分が暗殺者であることを知らない。そして、蘭霞を追跡する者から恐らく逃げきれないことも。

そんな蘭霞の悩みとは逆にカラッと笑いながら弥彦は着物を着始めた。

「明日、丑の刻にここで待つ。まあ、来なけりゃ諦めるさ。」

「弥彦…もっと良く考えよう?」

「ばーか、前から何べんも考えてたよ。本当は立役者になって座敷に現れた方が格好付いたけどな。考えが変わった。おまえを攫うよ。」

楽しい話でもするように話す弥彦に蘭霞は不安しかない。

(でも…本当に一緒に逃げれたら……。)

「じゃあ、俺行くわ!一緒じゃヤバいだろ?約束待ってるから。」

「弥彦!」

弥彦は手を振って社を出ていってしまった。


微かな物音に蘭霞は脱ぎ捨てられた着物を集め、素早く身支度をし、

「見ていたんだろ?」

社の外に冷えた声をかけた。


ガサッ


気配は消えた。蘭霞は立ち上がり目を瞑って上を向いた。



***


いつものように楼主が座敷に来て指令を下す。だが…。

「弥彦…ですか?」

やはりと思いつつも尋ねた。

「そうだよ蘭。そいつはウチの宝を盗もうとしている不届き者でね。頼んだよ。」

蘭霞は直ぐに返答できず俯く。

「どうした?蘭。何か気になるのかい?」

わざとらしい楼主の言葉に頭がスっと冷静になった。

「いいえ。万事心得ました。」

いつもと何も変わらず準備をし、密かに楼閣を抜け出す。



***


社に行くと弥彦が立っていた。

「蘭!来てくれたのか!」

蘭霞は途中で普通の着物に着替えておいた。

「待った?ごめんね、遅くなっちゃった。」

これ以上ない笑みを弥彦に向けた。たぶん弥彦にはほとんど見えないだろう。

「実は来てくれないかと思ってたんだよ。はー、良かった。……蘭?」

蘭霞はいきなり素早く何かを茂みに投げ付けた。

「がっ!きさ…ま!」


ドサッ


「僕を覗き見するとは舐められたもんだね。サッサと死にな。」

相手は既に事切れていた。やはり監視は付けられていた。予測はできていたのに…迂闊だった。

「蘭霞おまえ…そいつ、死んでるのか?今の、おまえが?」

背後で弥彦が狼狽えているのが分かる。


逃げられる前に仕留めねば。


蘭霞はにっこり笑顔を向ける。最後の取っておきの。

「弥彦、僕のこともっと知ってれば良かったね。愛してるよ。バイバイ」

別れの言葉口にするな否や、素早く懐刀を抜き首を掻っ切る。


つもりが……弥彦に止められた。


「な!」

「知ってたよ。俺がおまえをどれだけ好きだと思ってんの?バカだな。」

力比べでは弥彦に対して蘭霞に部がないことは熟知している。大人しく懐刀を落とした。

「まさか知られていたとはね。いつから?」

「子供の頃、おまえが夜中に怪しい大人に話しかけられてるの聞いた。次の日の昼間に仕事を抜け出してどこかへ行くおまえの後を着けたんだ。おまえが何をしたかよく見えなかったけど、おまえは怯えた感じで走っていった。追いかけようとしたら、おまえが何かした人が死んだんだよ。その後も何回か見かけた。」

蘭霞は目を見開き驚愕しながら弥彦の話を聞いた。

「これでも気付かれないように必死に着いてってたんだぜ。妓楼に引き抜かれた時は確かに辛かったけどさ、もう人殺しなんてしなくて済むなって思ってた。それなのに…」

弥彦の顔が歪むのが分かり、胸が苦しくなった。

「よく僕の攻撃を防げたね。腕には結構自信あるんだけどな。」

蘭霞は努めて冷静を装いおどけて見せた。実際、本当に驚いていた。今まで失敗したことなどなかったのだ。

「俺は役者だ。殺陣たての稽古くらいしてる。まさかこんなところで役に立つとは思ってなかったけど。」

弥彦は蘭霞の両肩に手を乗せた。

「蘭、さっきのは監視だろ?でももう死んだ。こんなところにいちゃダメだ。おまえは人殺しなんかしなくていいんだ。」

ああ、そんな言葉をもっと早く聞けていたなら…。この手はすでに後戻り出来ないほど血で汚れすぎた。それに、籠の鳥である自分が逃げ出すことはもはや不可能だろう。

蘭霞は涙を流し、もうひとつの隠し刀を抜きつつ自分の首に一気に突き刺す………。


「ってぇ……はは…」


弥彦は素手で刃を掴み、蘭霞の首に刃が届く寸前で止めていた。狼狽える蘭霞に弥彦は優しく囁く。

「そっか。俺、助けるの遅かったんだな。おまえが背負ってる業を共に背負うことが出来ないなら…。」


(え…?)


弥彦は蘭霞の刀を奪い、自らの首元に近づけてゆく。

「俺が全部受け止めて墓に持ってくよ。」


ズシャッ


弥彦は自分の首を掻き切り、ガクンと膝を着いて倒れた。


「ら…ん……。」


吹き上げる血が蘭霞に降りかかる。何が起きたか分からない。目の前に男が血を吹き上げて倒れている。


蘭霞は膝を落とし、空を見上げた。雲が厚くかかった三日月がうっすら見える。


『蘭…』


風が弥彦の声を運んできた気がした。所詮は交わることの無い運命。それでも…。


「弥彦…。」


蘭霞は声をあげず咽び泣いた。神社に吹く風は木々を揺らし、涙を乾かすように何度も吹き抜けていった。

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