第1話 最上階の蘭①

────楽園



身なりに粗相がないか鏡でチェックし、部屋を出る。

少年の部屋を出ると、広く幻想的なフロアに出る。ここが建物であることを忘れてしまいそうなほど一面に美しい花々が咲き乱れ、色とりどりの蝶がひらりひらり舞う。小川のほとりに並ぶ深緑の木々には楽しげに歌う鳥たちが放たれている。

いわゆるこの世の楽園を演出した風景だ。この演出がフロア全体を未知な広さと勘違いさせる。

そんな優雅なフロアを蘭霞ランカは足早に通り過ぎ、出入口の生体認証キーが反応するのを焦れる思いで待つ。ほんの数秒のことが数分に感じられるほど急いでいた。

ボスの部屋は同じ最上階の離れにある。巧妙に隠されているその場所は、何重ものセキュリティロックを突破しなければならず、いちいち時間がかかる。用がある時は携帯でやり取りしているのは単に行くのか面倒だからだ。


「コードネーム『ドルチェ』だ。お客様にご挨拶に来た。ボスの部屋に通して」

ボスの部屋の前に立つ屈強な護衛は無言で……と思ったら、

蘭霞ランカ、お客様はもう到着してるぞ」

くくっ、といたずらっぽく笑い、情けない顔になる蘭霞と呼ばれた少年を尻目に、直ぐに真顔に戻る。

「ボス、ドルチェを通します」

インカムで手短に通達し鍵が開いたのを確認してドアを開けた。


「入室失礼致します」


ボスの部屋に入ると金髪の若い女性と浅黒い壮年の男性がボスと向かい合ってソファに腰掛けていた。

「ローゼン侯爵、並びにご令嬢、この度はお召頂き光栄にございます」

蘭霞はすっと優雅な会釈をし、令嬢から差し出された手を取ると僅かに触れる程度に口付けた。その仕草は流れるように美しく、ローゼン侯爵は感嘆の声を上げた。

「いやぁ、いつ見ても蘭霞くんの立ち振る舞いたるや見事なものだ。将来が楽しみではないか?オーナーよ」

オーナーと呼ばれた人物はもちろんボスである。彼はリゾートホテルのオーナーだが、裏社会である組織カンパニーのボスでもある。リゾートホテルはカンパニーの一部に過ぎない。

今回は裏の商談ではあるが、客の場合呼び方は相手によって様々だ。

「いえ、まだ乳臭い子供でして。まだまだ教育することは山積みです」

やや相好を崩し肩を竦めるボス。蘭霞のことを褒められると機嫌が良くなるのは皆が知ってることなのを本人だけが知らないのだから、やり取りを見ている蘭霞としては、親バカ!と蹴り飛ばしたいほど恥ずかしい。実際育ての親ではある。

「父上、私は席を外します。オーナーよ、そなた自慢のホテルをゆっくり眺めて歩きたいのだが、構わぬか?」

ローゼン嬢の意図を察したボスは快く承諾する。

「どうぞお好きなだけご堪能ください。特に最上階はご令嬢のお気に入りでしたね。蘭霞に案内させましょう」

もはや始めから決まっていた予定を芝居がかってやり取りする二人に蘭霞は呆れた。ローゼン嬢はチラリと蘭霞に目を移す。

「おい、不服そうだな、ん?」

「いえいえ滅相もございません。楽しみだなぁ(怖いなぁ…)」

「そうか。そんなに喜ばれると私もはるばる来た甲斐があった。ではゆくぞ。もたもたするな」

言い捨てサッサと部屋を出て行こうとする令嬢を急いでエスコートする蘭霞であった。


「……家の娘って怖いよね…」

「……否定できず申し訳ない…」


エスコートしている手の上に重ねられたローゼン嬢の手はほとんど乗せられていない。本来ならエスコートなど不要な程のバランス感覚の持ち主だ。本人も儀礼上形だけやっている。貴族として。

彫刻のような端正な顔立ちに波打つ金色の髪。キリッとした背筋に無駄のない歩き方。戦場の花『鉄の薔薇』の異名を持つ彼女らしい硬質な美しさだ。

ローゼン嬢は母国に帰れば騎士団長として戦場を駆け回っている。

「ローゼン嬢、行先は最上階でよろしいですか?」

そういう予定であるが、一応確認する。

「そこが一番人目につかないであろう?」

「そうですね。それでは参りましょう」


最上階には楽園がある。

それはVIP客達の間で囁かれている密かな噂だ。


このリゾートホテルは表向き15階建てだが、ホテル裏の洞窟を抜けた崖の上にVIP専用の16階がある。最上階は24階だ。一般客側から上がるルートと、VIP階に直接行くルートがある。

VIP専用階層は会員制クラブになっており、カジノや非合法商取引、あらゆる密談の場になっている。政府要人、各界著名人、その家族など、客の顔ぶれは豪華だが、最上階だけはいかに金を積んでも選ばれた者しか立ち入ることは許されない。皆存在だけは知っているが、どこから入るのかさえも分からず、強引に上がろうとした者もいたがそれきり行方知れずとなった。


最上階が噂になるもう一つの理由が『ドルチェ』

の存在だ。


楽園に置かれた一粒の至極のドルチェ。ひとたびそれを口にすれば、その甘美さから逃れることは出来ない、と。

誰しもが『ドルチェ』とは一体何であるのかと噂する。ある者は極上のスイーツと。またある者は最高級のドラッグだと。様々な憶測が飛び交うも真相は辿り着けた者しか分からず、その者にしても楽園での出来事は秘密厳守とされている為、立ち入ったことすら話すことはない。そうでなければ待つのは死だけだ。


コードネーム『ドルチェ』の蘭霞が寝ぼけてダラダラしていた最上階とはそういう所なのだ。当の本人は仕事上の自分の役割としてしか考えていない。


「で、ドルチェ。最近はどうだ?」

楽園に入った途端、ぱっと手を離し蘭霞の前を進みながらローゼン嬢は切り出した。

「あのー、ローゼン嬢?ドルチェってやめてもらえます?蘭霞っていつも呼んでらっしゃいますよね?頼むからそれでお願いします!なんか怖いので!」

ローゼン嬢は小川近くのベンチに腰掛け、少しも表情を変えず蘭霞に向き直る。

「ふむ、では蘭霞。おまえもそろそろ普段の呼び名にして構わんぞ」

「はい、ありがとうございます。アディラ様」

極上の笑みでにっこり笑って見せた。

「相変わらず胡散臭い薄ら笑いだな。まあ、ここに来る客にとってはこの上ない美酒か。確かにおまえ1つでだいぶ稼げるであろうな」

「それが仕事ですから。できることが他にないだけですよ」

蘭霞はやや自信なく弱々いため息を吐く。

「謙遜するな。強くなりたいといきなり連絡が着た時には少々驚きはしたが、強さは何も格闘だけではない。おまえは十分よくやっているし……正直私から見れば過酷なこともこなしている。それは強さではないのか?」

小川のせせらぎに耳を傾けながら、アディラは蘭霞が弱気になっている原因を探ることにした。

普段手厳しいアディラだが、真剣に話してくる相手を無下に扱うことはない。当然相手を選んではいるが。

蘭霞は意を決して打ち明けることにした。

「アディラ様、あなたは寝ている間に見た夢をどのくらい覚えていますか?」


蘭霞は夢の話を語り始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る