2-5

 

 「もちろんその不安もある、万が一にも江蓮が病気や怪我をしたら、すぐに適切な治療が受けられない可能性は否めない。

 近隣に民家はなく、野生動物がたくさん徘徊しているし、車道は舗装されておらず、雪だって積もるかもしれない、電波も届かないし、何かが起こったからといって、すぐにその場から撤退することはできないんだ。

 まあ…お前が一緒ならば、江蓮の身に万が一の不幸が降りかかるとも思えないが」



 「分かっているじゃないか」



 「あとは…お前はともかく、江蓮がロッジの環境になじめるかどうか不安でね。

 電気水道ガスがないからね、トイレは水洗じゃないし、風呂は…川から水を汲んできて薪で沸かすか…ああ、石油ストーブはあるよ、それから暖炉もね。

 別途飲み水はきちんと大量に用意するけど、そういう暮らしを短期間であっても江蓮が受け入れられるかどうか…」



 「そういう非日常な自然とのふれあいが、キャンプの醍醐味なんだろう?

 たまには江蓮にも、現代の便利な暮らしから離れて、自分でやりくりして生きていく方法を学ばせるべきなのかもな」



 「犬彦、お前、行く気満々になってきたね。

 だけど最後にひとつ、…これがもしかしたら江蓮にとって最大の問題になるかもしれないんだが、私は先ほど、ロッジの周辺に民家はないと話したけれど、実は近くに一棟だけ…建物があるんだ」



 「建物?」



 どのような人間にも欠点があるのは当然のことだが、こいつの思わせぶりな発言にはいつも腹が立ってくる、今度こいつが目の前にいるときに同じような言い方をしてきたら、すかさず肘鉄を食らわせてやろうと思いながら、犬彦は相槌をうつ。



 「ああ、それは古い廃墟でね。

 もともとは何を目的とした建物だったのか、もはや分からない、最後に購入した者は、その建物を富裕層向けの高級老人ホームとして売り出すつもりだったらしいんだが、どうやら頓挫したみたいでね、閉鎖されたまま、私の所有するロッジの近くでひっそりと佇んでいる、まるで巨大な墓標のように」



 「……」



 犬彦は黙り込む。

 きれいな空気で澄み渡る青空と、緑豊かな木々の光景、美しい小川、自分たち二人だけしかいないロッジを前に、楽しそうに笑いながらバーベキューをする江蓮、…さっきまで犬彦の頭のなかで展開されていた理想のシチュエーションのバックに、いきなり不気味な廃墟が割り込んできた。


 …嫌な予感がする。



 「それで、実際に見てきてくれた人物の報告からすると、けっこう外見が恐ろしげな建物らしくてね。

 実際、地元の方々は、あの建物には化け物が棲みついていると言い、恐れて近づかないらしい、あの建物の周辺では怪奇現象が起こるとかなんとか…」



 「……」



 「やはり江蓮は怖がるだろうか、化け物が出るだなんて」



 「……」



 「その建物だって一応は誰かの所有物であることに変わりはないし、近づかなければ問題ないとは思うんだが、…どうする?」



 「……」



 栄治郎からそう尋ねられて、無言のうちに犬彦はものすごく悩んだ。

 いつだってうまい話には裏があるものだ。


 江蓮がいかに怖がりであるかということを当然ながら犬彦はよく知っている。(言っておくが、江蓮は決して臆病な子供というわけではないぞ、万人が突然現れた害虫に対して反射的に悲鳴をあげるように、江蓮はただ人間の本能として不気味な存在を避けているだけなのだ)

 今回の旅行は、自分自身の日ごろの心身の疲れを癒すことだけが目的ではなく、また父親と遠く離れて暮らすことになってしまった江蓮の寂しさを紛らわせるためにあるのだ。

 それなのに、江蓮のストレスとなるような存在が近くにある場所で、本当に休暇を取ってもよいのだろうか?


 そうして江蓮のことを考えて、犬彦がスマホを片手に逡巡していると、デスクに置いたままだった仕事用のスマホの方が、メッセージを受信したことを知らせてきた。


 それで犬彦は反射的に、仕事用のスマホの画面をすいすいといじって、今届いたばかりのメッセージに目を通す。

 するとそこには…新年早々、犬彦のストレスが増幅するようなメッセージが長々と展開されていたのだった。

 

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