2 犬彦 【はじまり】

 自分の内側にあるイライラのゲージが、日々上昇し続けているということに、犬彦は当然自覚があった。

 そして、その理由もまた、犬彦にはよく分かっていた。


 年始だというのに好き好んで自分から会社へ出勤するなんて奇特な奴は、自分を含めて社内で数人しかいない、少なくとも赤間部長が所属する営業部においては、犬彦しかいなかった。

 ほかに誰もいない静かな営業部フロアで、犬彦は一人、カタカタとパソコンのキーボードを叩きながら、こう思った。


 …江蓮が、足りない…!!


 今の自分の生活には、圧倒的に江蓮が不足している…!

 鳥かごの中の鳥が空を望むように、コップの中の金魚が大海原を望むように、雨の日に窓の外を眺める野球少年がよく晴れたグラウンドを望むように、…とにかくとにかく、今の自分には江蓮がまったく足りてないのだ!


 もっとこう…江蓮のことを可愛がりたい、いつものように構い倒したい、キッチンで並んで立って食事を作りながら、真剣な顔で野菜を切っている江蓮の様子を見ていたい、リビングのフローリングで気絶したクマのように仰向けになって、口を開けたままうたた寝をしている江蓮のマヌケ面をガン見していたい、あの江蓮のやわらかな髪をなでまくったり、二人で食事をしながら、学校でこんなことがあって…と、楽しそうにいろんなことを話してくれる江蓮の声をずっと聞いていたい、江蓮の笑った顔をいつまでも見ていたい、…つまり、普段の日常に早く戻りたい。


 もちろん、そのように犬彦が望むいつもの日常は、数日後にはきちんと戻ってくる。

 イライラとパソコン作業を続けていても、そんなこと犬彦にだって分かっているのだ。


 だからこそ、今はじっと江蓮不足に耐えて、ひたすら仕事をこなさなければならない。

 正月休みを返上して、今ここで自分の仕事を先の先まで終わらせておけば、正月明けの連休はなんとか休みを取ることができるだろうから。


 そのときこそ、心ゆくまで江蓮とのんびり過ごそう。

 江蓮もきっと、それを望んでくれるはずだ。


 今の江蓮は、久しぶりに再会した父親と過ごす時間を満喫している。

 年に数回しかない親子二人だけで過ごせる日常を、日々、江蓮とともに暮らすことができるという僥倖をつかんでいる幸運な自分…元は赤の他人でしかない自分が、邪魔することは絶対に許されない。


 少しくらい自分が寂しい思いをしていても、今は遠くから親子水入らずの姿を見守っていることこそが、他人である自分が示すことのできる精一杯の愛情だった。

 愛とは与えるばかりではなく、ときに突き放すものでもあるのだから。


 とにかく自分の感情云々についてはどうでもいいとして、江蓮のために自分が懸念しなくてはならないことが、この先にひとつあった。

 やがてタイムリミットがきて父親が日本を去ってしまったあと、江蓮がひどく寂しい思いをしてしまうのではないかという心配だ。


 母親を失ったかつての江蓮が、表面的には平気そうに振る舞ってはいても、内心では、どれほど傷つき寂しい思いをしていたのか、犬彦はよく理解している。

 だからあのときと同じように、父親がまた身近な領域から去っていくことで、江蓮の繊細な心は一時的にダメージを受けるのではないかと、それが犬彦は心配でたまらなかった。


 だからこそ、父親が去っていった直後はいつも以上に用心深く江蓮の様子に気を配り、そして江蓮の寂しさを紛らわせるため、自分が普段以上にそばにいなくてはならない…そう犬彦は考えていた。


 そのためには、父親が江蓮のそばにいてくれている今、犬彦は仕事に集中して業務に余裕を作っておき、この先江蓮と過ごすための時間を貯金しておかなければならないのだ。


 だが、それにしても、しかし…と、パソコン画面を凝視しながら犬彦は思う。

 俺自身にとっても、そろそろ真の休暇というものが必要なのだろうな、と。


 もうこの世界には、うんざりだ。


 街を歩けば騒がしい人間たちの群れ。

 聞きたくなくとも耳に入ってくる、雑音と代わりのない流行りのポップミュージック。

 何がそんなに愉快なのかゲラゲラと下品に笑っているよく知らないタレントたちの笑顔を、電子広告やテレビが、無理矢理見せつけてくる苛立たしさ。

 疲れていても一方的に増殖してくる、クソみたいなメールやメッセージ、着信履歴…。


 もう何もかも心の底からうんざりだ。

 ああ、まったく…! 今この瞬間に太陽フレアが大爆発を起こして世界中の電子機器がぶっ壊れ、すべてが静寂に包まれたあと、地球は江蓮だけになってしまえばいいのに…! 

 と、このとき犬彦はけっこう本気でそう思っていた。


 つまり犬彦もなんやかんやで精神的にけっこう疲れていたのである。

 おそらく江蓮切れを起こしていた副作用だったのだろう。


 そんなわけでイライラがピークに達した犬彦は、まだ残っているパソコン作業を放棄し、感情の赴くまま自分の私用スマホを手に取ると、荒々しく電話をかけはじめた。

 

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